病夢(びょうむ)とあんぱん
病夢とあんぱん その20
氷田織畔は、優秀だった。
十四歳という、年端もいかない少女の命を躊躇なく奪えるという点において、とても優れていた。
「若いっていうのはいいねぇ。周りが見えなくなるほど、何かに夢中になれる。後ろから来る人間に、気付けないくらいにね。僕も、そんな純朴な若者として育ちたかったものだよ」
バイク用グローブをつけ直しながら、羨むような口調で彼はそう言った。微笑んでいる。見る人が見れば、殺した相手にも敬意を払い、その死を悔やんでいるように見えるのかもしれない。そんな口調だ。
もちろん、彼の中にはそんな感情はない。
少女の死を悔やんでもいないし、敬意も払っていない。
「なかなか、悪くない景色だね」
氷田織は、先ほどまで西向井が見下ろしていた景色を、同じように見渡した。彼らが上ったのは、それほど背の高いビルではない。よって、そこから見える景色だって、絶景というわけにはいかないのだ。
「悪くない」というのは、「自分たちを狙撃する上で、悪くない」という意味である。バイクを停めた駐輪場を真ん中に捉えることができるし、そこから続くショッピングモールへの道も、住宅街への道も、ある程度は見据えることが出来る。
しかし、そんな絶好のポイントを押さえていながらも、西向井は失敗した。
死、という形で失敗した。
「君の敗因は・・・そうだね。いくつか挙げられるが、大きく二つにわけてみよう」
氷田織は、誰に言うともなく呟く。
「一つ。君が狙撃手であるということだ」
人差し指を立て、「1」を示す。
「狙撃手にとって、自身は『ハンター』であり、敵は『獲物』だ。傍目から見れば、絶対的に『ハンター』の方が有利。『獲物』は絶対的に不利だ。しかし、その有利さは油断にも繋がる。ショッピングモールの近くの建物に僕が入った時点で、僕を追い詰めたと思ってしまったんじゃないかい?」
ちらりと西向井の方を見る。
もちろん、彼女は答えない。
死人に口なしだ。
「でもねぇ。撃たれる側からしたら、君の狙撃はかなり粗雑なものだったよ。どの辺りから撃っているのか、どういう意図の狙撃なのか、丸分かりだった。僕がこうして、君を殺しに来れるくらいにねぇ」
そうはいっても、これは彼の戦いの経験が成せる業である。たとえば、柳瀬優あたりには、狙撃位置なんてこれっぽっちも分かるわけがない。
「僕と柳瀬君を引き離そうとしたんだろう?作戦は悪くないよ。でも、それを実行するには、やっぱり君は若すぎたのかもしれないねぇ・・・。そして、二つ目」
人差し指と中指で、ピースの形を作る。
「君には殺意がない」
致命的な敗因だ、と氷田織は語る。
「殺意を持った狙撃ならば・・・僕を本気で撃ち殺そうとしていたならば、もう少し上手くいっていただろうねぇ・・・。少なくとも、僕に殺されるとことはなかったかもしれない。僕も警戒して、建物の外に出られなかっただろうからね」
「僕に殺されることはなかったかもしれない」というのはもちろん、控えめに見れば、という話だ。滅多なことがない限り、西向井由未は死から逃れることは出来なかっただろう。
氷田織畔という男を敵に回してしまった時点で、死は約束されたようなものだった。
「殺意も持たずに他人を狙撃しようだなんて、甘いよ。甘々だ。僕の好きな『パンケーキ トッピング全部のせ』くらい甘々だ」
それがどれほどの甘さを誇るのかは、彼だけが知っている。
「君の上司は、それを君に教えてくれたりはしなかったのかな?だとすれば、かなり無責任な大人だ。こういう仕事を君に任せる以上、そういう覚悟を君に教えておくべきだった。それとも、別に君が死んでもいいとでも考えていたのかな?」
氷田織の想像通り、西向井はそんな覚悟を学んではいなかった。とはいっても、それは、彼女の上司が冷血な人間で、彼女が「お手伝い」中に死んでもいいと思っていたわけではない。その点においては、氷田織の予想は外れていた。
要するに、優しかったのだ。
「いざとなったら、殺してもいい」という曖昧な指示しかできないくらいに、彼女の上司兼保護者たちは優しかった。「殺せ」と命令することは、彼らには出来なかった。さすがに、女子中学生を相手にそんな指示をすることは、出来なかったのだ。
なので、西向井は「人を殺す覚悟」なんて、全然持ち合わせてはいなかった。
氷田織に言わせれば、その甘さによって、彼女は命を落とした。
優しさによって、彼女は死んだ。
氷田織はそう考えている。
「なんにせよ、僕の講義はこれで終わりだ。ご清聴ありがとう。これが仕事なら、君の組織にちょっかいを入れたりするんだけれど・・・今はプライベートだからねぇ。そんな面倒くさいことは、やめておこう。なに、心配はいらない。いくら君に対して冷たい組織だったとしても、死体の回収くらいはしてくれるはずだよ。警察なんかに見つかるようなヘマは、さすがにしないだろうからねぇ」
ご清聴も何も、彼女は最初から聞いていないし、彼女の組織はそんなに冷たい集団でもないのだが。
氷田織はそんな風に話をまとめ、眼下の景色から目を離し、屋上の出入り口の方へと歩いて行った。
「君の上司に会う機会があったら、伝えておくよ。若者の教育は、きちんとやれってね」
彼はそんなセリフを言い残し、廃ビルの屋上を後にした。
屋上には、一人の少女の死体だけが残される。
一つの死体だけが残される。
そして数十分後、西向井由未の死体は、彼女の組織の人間によって回収されることとなった。
彼女は、上司に殺されたのではない。
優しさに殺されたのでもない。
とある男の『手』によって、殺された。
男の名は、氷田織畔。
触れただけで人間を殺し、触っただけで命を奪い取る。
『致死の病』に侵された男である。
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