病夢(びょうむ)とあんぱん
病夢とあんぱん その18
外出は、平和だった。
呆れてしまうくらいに、平和だった。
だから、油断してしまったのだろう。気を緩めてしまった。少なくとも僕は。
油断。
誰もが犯してしまうミスであり。
致命的なミスでもあった。
氷田織さんがバイクを停めた駐車場は、ショッピングモールから少し離れたところだった。ちょうど、ショッピングモールと住宅街の境目といったところだ。
買い物を終え、『海沿保育園』へと帰ろうと、その駐車場へと戻ってきたところで、僕と氷田織さんは離れる瞬間があった。
何も特別なことではない。普通にトイレだ。さすがに、用を足すときまで、氷田織さんについてきてほしくはない。バイクに買い物袋を置き、駐輪場に隣接している公衆トイレに入っている間、氷田織さんには、その入り口の前で待っていてもらうことにした。
「10分待っても出てこなかったら、先に帰らせてもらうよ」
氷田織さんは、笑いながらそんなことを言っていた。・・・ゆっくりトイレにも行けやしない。
いや案外、それ以上離れているとマズイ、ということを暗に示していてくれたのだろうか?
・・・そんなわけないか。
だが、10分どころか、一瞬たりとも僕らは離れるべきではなかったのだ。気持ち悪い話だが、僕と氷田織さんは『海沿保育園』に到着するその瞬間まで一緒にいるべきだった。
これが、一つ目のミス。
トイレの中は無人だった。個室にも人の気配はなし。
 (やっぱり警戒のしすぎか)
そんな風に考えてしまった。僕を殺そうとしている奴らも、日中の真昼間から事を起こしたくはないのだろう。朝のうちから外出してきて良かった。
そんな風に、考えてしまった。
これが、二つ目のミス。
遠足は帰るまでが遠足だというように、買い物も帰るまでが買い物だったのだ。こんなところで気を緩めるべきではなかった。
僕は思い込んでいた。
奴らは僕を狙っている。
だから、氷田織さんと離れたとしても、僕を先に襲ってくるのだろう、と。
とんでもない思い違いだった。
僕を狙うのであれば、先に、邪魔な氷田織さんを始末した方が楽なのだ。そんなことにも気が付かないほどに僕は、命を狙われる、ということに対して素人だった。
これが、三つ目のミス。
これらのミスが重なってしまったせいで。
僕は。
大刃のカッターナイフを、もろに左肩で受けることになった。
トイレを出ようとしたところで、その出入り口の陰から思いっきり刺された。
左半身に、激痛が走る。
ちょうど、信条さんが下駄箱の陰から僕を殴りつけたように。
刺された。
氷田織さんは、いなかった。
「!」
しかし、僕もほんの少しくらいは学習する。信条さんに殴られたときのように、その場に倒れ込んだりはしなかった。
立ち止まるでもなく、倒れるでもなく、逃げ出した。カッターナイフが抜ける瞬間にも、鋭い痛みを感じた。
傷口を庇い、相手の顔を見ることさえせずに、がむしゃらに逃げ出した。辛うじて、眼鏡を掛けているということだけは分かった。
逃げ道の選択肢は二つある。先述した通り、この駐車場はショッピングモールと住宅街のちょうど境目くらいのところに位置する。
一、ショッピングモールの方に逃げる。
二、住宅街の方に逃げる。
当然、一だろう。
向こうがどんなつもりなのかは知らないが、人目の多いショッピングモールで僕を殺すのは難しいはずだ。いや、殺すのは簡単かもしれないが、殺人の現場を衆目に晒さないようにするのが難しいはず。
と、そちらの方に足を向けたのだが、瞬間、僕は逆の方向へとダッシュすることになった。つまり、意図せずして、住宅街の方向へと逃げざるを得なくなったわけだ。
なぜかって?そりゃそうだろう。
どこからともなく飛んできたペティナイフが足元の地面に突き刺さったなら、その方向に行こうだなんて、誰も考えないはずだ。ちなみに、突き刺さったというのは比喩表現ではない。地面に、コンクリートの硬い路面に、深々と突き刺さったのだ。
住宅街の方に逃げ出した僕の背に向かってペティナイフの追撃がくる、ということはなかったが、トイレの前で僕を待ち伏せていた奴が追ってきている気配は間違いなく感じていた。
外出するにあたって、沖さんが僕に手渡してくれていたものが二種類ある。連絡用の携帯電話(いわゆるガラケーというやつだ)が一つと、折り畳み式のサバイバルナイフが二本だ。
万が一のためにと貸してくれたものだったが、今は両方とも役に立ちそうになかった。氷田織さんに連絡している余裕はないし、サバイバルナイフでは、追跡者に抵抗できたとしても、どこからともなく飛来するナイフに対抗はできない。
剣は剣よりも強し。といったところだろうか。意味不明だが。
そんなことを考えていると。
「!」
再び、僕の足元に何かが突き刺さった。
今度は、コンパスだった。
円を描くときに使う、あのコンパスだ。少なくとも、こんな使い方をするものではない。
再び、僕は進行方向を変える。路地を右に折れる。
と、これが何度か続いた。少し逃げると狙撃を受け、進行方向を変えて、また少し逃げると狙撃を受ける。
これだけ露骨に走る方向を変えられれば、嫌でも思い知る。
(・・・誘導されているのか?)
おそらく狙撃手は、僕をいつでも撃ち殺せるというのに、わざと的を外し、どこかへ導こうとしている。いや、この場合は、誘い込もうとしているというのが正しいだろうか?
逃げながら、ちらりと後方を窺う。追跡者の姿は見えない。
(逃げ切れた、っていうわけではないんだろうなぁ・・・)
が、一時的に撒くことくらいはできただろうか。と、少しスピードを緩めた瞬間だった。
「!」
三連続びっくりマークで申し訳ないが、許してほしい。今の僕には、びっくりすることくらいしかできないのだ。
今度は僕の右肩をかすめて、ハサミが飛んできた。反射的に、近くにあった電信柱の陰に隠れる。
隠れたと同時に、電信柱に三本のボールペンが突き刺さった。
(本格的に僕を狙ってきた。・・・ということは)
電信柱の陰に隠れながら、背にしている木製の塀の向こうを覗いてみた。どうやら、普通の民家のようだ。庭が雑草で荒れ放題になっているところ、屋根や窓ガラスの端々が割れているところを見るに、空き家なのだろうか?
狙撃手は、僕をここに誘導したかったのか?こんな、どこにでもあるような空き家に?
試しに、靴の片方を電信柱の向こうに投げてみた。
たちまち、靴は貫かれる。
とても切れ味の良さそうな包丁に、貫かれる。
(結構気に入ってたんだけどな、あの靴・・・)
なんて、どうでもいいことを考えた後。
「ふう・・・」
と、一息つく。左肩の傷が、強く痛む。
完全に追い詰められた。もう逃げ道はない。この塀を乗り越えて、民家の庭に逃げ込むしか道は残されていない。
敵の思惑通り。予想通り。それしか、助かる道はない。
いや、それすら助かる道ではないのだ。この塀を超えた瞬間、今度こそ僕はハチの巣にされるのかもしれない。人気のない民家で、人目のつかないところで、僕は穴だらけになるのかもしれない。
それでも、そこに生き残れる可能性が少しでもあるのなら、全力を尽くそう。敵の掌の上だろうが何だろうが、生き残る努力は惜しまない。
僕は僕のために、絶対に生き残る。
他の誰でもない、自分のために。
(ひとまず塀を超えたら、民家の中に向かって走る。そして、身を潜めながら、次の作戦を考えるか、助けを待つ)
素人丸出しの作戦だ。それこそ、穴だらけ。こんな生半可な作戦が上手くいくはずないのだ。そんなに簡単には、僕は生き残ることを許されなかった。
僕は塀を超える。ズキズキと痛む左肩も駆使しながら、なんとか壁を超える。
やはり、無理だった。
民家の中に走り込むことは、出来なかった。
「現代ドラマ」の人気作品
書籍化作品
-
-
70811
-
-
441
-
-
3426
-
-
841
-
-
22804
-
-
4
-
-
1258
-
-
0
-
-
31
コメント