真夏生まれの召使い少年
兄と僕と妹②
「おかえりなさい、袖内粍さん」
誰かが、そんな風なことを言った気がした。
気がしただけだ。
家へと帰宅した僕は、その場で硬直した。アイスの入ったビニール袋が、重力に従って地面へと落下する。
家の中に入ったそのままの表情で、僕の顔は固まった。かといって、何か行動をとれたわけでもない。
その光景を見た瞬間、僕は、何も出来なくなった。
兄さんが死んでいる。
なぜ、その死体が兄さんのものだと確信できたのかといえば、その顔が兄さんのものであり、その体が兄さんのものであり、その人間が袖内満という名前だと、僕が知っていたからだ。
そして、なぜ死んでいると断言できるのかといえば。
それは、死んでいるからだ。
見るからに、明らかに、死んでいるからだ。
虫や鳥の死体を見たときと同じだ。
猫や狸の死体を、道路脇で見かけたときと同じだ。
一目見れば、死んでいると分かる。
・・・・だから、なんだと言うのだろう。分かったから、どうしたと言うんだろう。
兄さんの頭が、腕が、脚が、どんな風にひしゃげているのかを分かったから、なんだというのだ。どれだけ大量の血が流れているか、どれだけ大量の骨が折れているか、察することが出来たからといって、それがどうしたというのだ。
兄さんは、死んでしまった。
それ以外の事実は、どうでもいいことだ。
「その方ですか?少々煩わしかったので、死んでいただきました」
誰かが、そんなことを言った気がした。
気がしただけだ。
煩わしかった?
煩わしいって、どういう意味だっけ?
いや、そんなことよりも・・・。
僕は、フラフラと頼りない足取りで兄に近づき、その血の海の中に両手をついた。ベットリとした生ぬるい感触が、両手に感じられる。
兄の表情は・・・見えなかった。
うつ伏せになっているので、覗き込んだり仰向けにしたりすれば見えるのだろうけど、それはしなかった。
見ることが出来なかった。
見たくないと思った。
なんだか、視界がグニャグニャしている。これでは、兄の表情をまともに見ることなど出来ないだろう。
そんな言い訳をして。
兄の顔を見ようとしなかった。
「私はこれから、この家に住みます」
誰かが、そんなことを言った気がした。
気がしただけだ。
「あっはっは」と笑いながら、僕を馬鹿にしながら送り出す、兄の姿が思い浮かんだ。アイスを買ってこいとわがままを言う兄の姿が、自然に思い浮かんだ。
もう兄は、笑わない。僕を馬鹿にしたりしないし、わがままを言ったりもしない。
僕と話すことは、もうない。
僕とゲームをすることも、もうない。
何も出来ない、二度と動くことない死体に成り果ててしまったのだから。
好きではなかった。むしろ嫌いだったけど、それでも、死んでほしいとまでは思っていなかったんだけどな・・・。
「?・・・あの、聞いていますか?」
誰かが、そんなことを言った気がした。
気がしただけだ。
誰かが。
誰か・・・。
僕はほんの少しだけ、目線を上げた。両手両膝をついた四つん這いのままの姿勢で、ちょっとだけ視界を広げてみた。
あの少女が立っていた。
一気に、記憶が想起される。
登校中の横断歩道。
教室から見える校門。
下校中の書店。
小学生くらいの背丈。黒髪。群青色のリボン。白いワンピース。
そう。
あの子だ。
「君は・・・」
誰?
と、聞こうとして、僕は口を閉じた。
彼女がどこの誰であるかなんて、今はどうでもいいことだ。そんなことを聞くよりも、やらなくちゃいけないことがある。
そうだ。救急車を呼んだり、警察に連絡したり、僕がやらなくちゃならないことは、たくさんあるのだ。こんな風に、膝を折っている場合ではない・・・・・もしかしたら彼女が、兄さんが死ぬ瞬間を目撃しているかもしれない。
あれ・・・?でもこの子さっき、死んでもらったとか、もらわないとか、言っていたような・・・・・。
「私は、シイといいます」
と、彼女は、僕が聞こうとした質問を察したかのように、そう答えた。
しい?
シイ?
C?
いや、だから、そんなことは今、どうでもいいことで・・・。
「喋ってくださって、ありがとうございます」
どうやら彼女は、頭を下げたようだ。
その行動の意図は、まるで分からないけれど。
「そのままだんまりを決め込まれたら、どうしようかと思いました」
やっぱり、思考も視界もかなりボンヤリとしているようだ。彼女の言っていることも、行動も、いまいち理解できない。
「袖内粍さん。あなた、私の召使いになってください」
意味不明なことを、彼女は言った。本当に、意味が分からない。
彼女は一体、何を言っている?
そして、僕は一体、何をしている?
「代わりに、私があなたの妹になってあげましょう」
限界だった。
腕の力も脚の力も抜け、僕は玄関に倒れ伏す。真っ赤な海の中に溺れると、生温かい血液が、体中に浸透してくる。
「はい」
意識を失う直前、そんな風に返事をした。
続いて、「助けてください」と、呟いたような気もする。
「やれやれ。初っ端から、手のかかる召使いですね」
呆れたような口調で、誰かがそんなことを言った気がした。
気がしただけだ。
「もっとしっかりしてくださいよ、お兄さん」
誰かが、そんなこと言った気がした。
気がしただけで、あってほしかった。
「現代ドラマ」の人気作品
-
-
361
-
266
-
-
207
-
139
-
-
159
-
142
-
-
139
-
71
-
-
137
-
123
-
-
111
-
9
-
-
38
-
13
-
-
28
-
42
-
-
28
-
8
コメント