病名(びょうめい)とめろんぱん

ぢろ吉郎

機桐孜々のバタークッキー その5

 
 そして、ここまでである。
 などと言うと、機桐はたぎりが自らの成長を諦めてしまったかのような表現になってしまうが、しかし実際、彼は自身の成長の可能性を――これからの人生の可能性を、すべて諦めざるを得ない状況におちいる。
 娘の成長を見守ることも、『シンデレラ協会』を守ることも、彼にはもう不可能なのだ。どんなに抗い、足掻いたところで――生きたいと願ったところで、彼に未来はない。死人に口なしと言うが、それどころではなく、死人には何もかもがないのだ。
 そう――彼はもう間もなく、たどり着く。
 死という絶対的で揺るぎないゴールに、到達する時が来たのだ。


(いつかは――こうなると思っていた)


 そんな風に思ってしまう自分は、やはり小物だな――そんな、気晴らしにもならないほどどうでもいいことを考えながら、彼は痛みに耐えていた。左手を心臓のある辺り、右手を首の真ん中辺りにそれぞれ当てながら、意識を手放しそうになるのを必死に堪えていた。
 だが、首と胸からドクドクと流れ出ていく血液は、止まる気配すらない。各部位を貫かれてからさほど時間は経っていないというのに、想像を絶するほどの量の血が彼の体を伝い、床へと流れていく。


(元医者が、自分の体を治せないなんて……皮肉なものだね。それに――)


 出血はもうどうにもならないと諦め、孜々は正面を向く。正面といっても、孜々は現在、床にはりつけにされているようなものなので、そのまままっすぐ前を向くと、天井を見つめるような状態になってしまう。
 そして、見つめた先には――何もなかった。
 何も、見えなかった。
 これは、孜々が視力を失ったとか、目を潰されたとか、そういうことではない――最初から孜々には、何も見えていなかったのだ。首を刺された瞬間も、心臓を刺されたときも――彼は何一つ、異常な「何か」を見かけてはいない。
 自分を殺しに来た人間の顔も。
 自分を刺してであろう凶器も。
 まったく――何も。


(誰、だ……?)


 この数秒間の間に何度も抱いた疑問が、頭の中で回り続ける。相手が見えないのでは、対応のしようがない。どのような力で、どのような理由で、自分を押さえつけているのか分からないのでは……。
 もちろん。
 この現象が、『とりやまい』によるものであると孜々が知っていたとしても、この状況を打破できる可能性が限りなくゼロに近かったことに、間違いはない。


「一体……誰、なんだ……」


 どうしようもなく愚かな質問だと分かっていても――孜々は、そんなことを聞いてしまった。ただでさえ喋るのが辛く、意識を保つだけでも精神がすり減っていくというのに、これほど無意味な質問をしてしまう自分を、心の底から呪った。
 こんな、答えてもらえるはずのない質問を――。


やなゆうだ」


 その名前に――孜々は驚愕する。約一か月ほど前に出会ったばかりの青年のその名を、孜々はもちろん忘れていなかった。
 『海沿かいえん保育園』の一員であり。
 『やまい』の業界に頭を突っ込んだばかりの人間であり。
 を取り戻しに来た男――。


(目の前にいるのが、柳瀬君ということなのか……?いや、声色が違うような――駄目だ。聴覚も、既にあまり機能していないのかな。全然、聞き分けられないね……)


 もう、終わりにしよう――ゆっくりとまぶたを閉じながら、孜々は諦めることに決めた。
 もう、出来ることは何もない。諦め、終わらせるという選択肢しか、孜々には残されていなかった。無理に長生きしようとせず、大人しく死を迎え入れることこそが、自分のとるべき最善の行動だと思った。


(仲間を駒として扱って、その挙句、その仲間を犠牲にして――娘と向き合うことも出来ず、守ることも出来ず……自分の組織を守ることすら、ままならない。そんな奴が迎える最期としては、ぶん相応そうおうなのかもしれないね。己が犯してきた罪に対する、報いなのかな……)


 意識が――落ちていく。沈んで沈んで沈んで……沈んでいく。こうして誰の目にも触れることなく、当たり前のように死んでいく自分を、孜々は許すことにした。
 許す……。
 …………。
 ――許す?


(許す、だって?事もあろうに――私が?私に、誰かを許す権利なんて……ある、ものか)


 ギリッ――!
 思い切り歯を食いしばり、そのままの勢いに任せて舌を力強く噛む――すでに血塗れだった口内がさらに血で溢れ返ったものの、そんな些細なことは、今の孜々には関係なかった。
 腕は――まだ動く。
 思考は――まだ働く。
 ならば最善の行動とは、大人しく死を迎えることではないと――孜々は決意する。


(このまま満足に声も出せずに死ねば……この暗殺者は、屋敷の他の住人も狙うかもしれない。せめて、このことを伝えなければ――。ただ死ぬ、だなんて恥さらしな真似を、莉々の父親である私がするわけにはいかないね……)


 最期くらい、『シンデレラ協会』のリーダーらしく――父親らしく、あろう。
 孜々は首から右手を放し、上着の内ポケットへ滑り込ませる。そして、スマートフォンを取り出す――ゆっくりと。目の前にいるであろう敵にもよく見えるようにゆっくりと、スマートフォンを取り出す。


(そう、だよね。やはり、そうするだろうね……)


 もぎ取られるかのように、乱暴にスマートフォンを取り上げられた孜々は、心の中で微笑む――直後に右手への追撃があったものの、首やら胸やらに負った傷に比べれば、こんなのは微々たるものである。
 ジリリリリリリリリ!
 スマートフォンを音源とするサイレンが、部屋中に響き渡る。そして――いくらこの屋敷が広いとはいっても、このレベルの騒音を住人全員が聞き逃すなど、あり得るわけがない。


(緊急事態用のヘルプサイン――随分と前に仕込んだものだけれど、思い出せて良かった……)


 孜々以外の者が手にした場合、騒音が鳴り響く――そんな設定が組み込まれたスマートフォンをうっかり手に入れてしまい、敵が一瞬だけ動揺するのを、孜々は感じ取った。なんとか、一矢報いることが出来たというところだろう。数十秒もしないうちに、誰かしらは駆け付けてくれるはずだ。


「君が……どこの誰なのかは、知らないが……」


 最後の気力を振り絞り、全身がほとんど動かなくなったというのに、孜々はもう一度だけ口を開く。


「……もしも、娘に、会ったら――『ずっと愛している』と……伝えて、おくれ……」


 頭への重い衝撃が、孜々を襲った。
 死に直結する、最後の一撃が。


「莉々……」


 ありがとう。


(私の娘に、生まれてくれて……)
 

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