病名(びょうめい)とめろんぱん
機桐孜々のバタークッキー その1
「結局のところ、あなたはあの子に――莉々に、自分の理想を当てはめただけなのよ。今さら何を言ったって、これっぽっちも響かないとは思うけれど、これだけは言わせて。あの子は、あなたの願いを叶えるための道具じゃない」
異常なほどに刺々しく言い放つ妻に対し、孜々は、慌てた様子で反論する。
何を言っているんだ、と。
あの子の才能は、伸ばしてあげなければならない代物だ。親である私たちが責任を持って、誠意を持って、磨かなければならない才能だ。あの子の才能が世間に理解されるためには、それ相応の時間が必要になってしまうかもしれないが、だからこそ、私たちがあの子を支えてあげなければならない。あの子が異端者ではなく、英雄になれるように。世間の隅ではなく、中心で活躍できるように。
そうだろう?
それとも君は、あの子の将来が少しも心配じゃないのか?あの子が世間の爪弾き者にされることを、ほんの少しだって、恐れていないというのか?
「いいえ、私は心配よ。あの子のことが、とってもとっても心配。他の人と同じように、ちゃんと生きていけるのかどうか――ちゃんとした幸せを手に入れられるのかどうか、今も、今までも、これからも、ずっと不安に思ってるわ。でもね」
寂しそうに笑いながら、彼女は微笑んだ。
その微笑が何を意味しているのかは、このときの孜々には分からない。
「子どもっていうのは、そんなに器用な生き物じゃないのよ。大人が――子どもの期待とは裏腹に――悲しいくらい、不器用なようにね」
どういう意味なんだ、と孜々は呟く。
「そのうち分かるわ」
扉が、ほんの少しだけ開かれる。
その隙間の向こうに広がる暗闇から、小さな女の子が孜々たちを覗いている。どうしようもなく小さな体に鞭打って、まだ何も知らない無垢な瞳を大きく開いて、こちら側を見ている。
やがて、女の子は変質する。
キラキラと輝いていた瞳は、濁りきった眼へと。小さくて愛らしい体は、汚れてボロボロの、傷だらけの肉体へと。
あるいは、その変質は。
変質などという難しい現象ではなく、単純に、「見方が変わった」というだけの話なのかもしれないが――。
「おはようございます、ご当主様」
朝の身支度を終え、朝ご飯を食べようと食堂に向かっていた機桐孜々に、屋敷の使用人の一人である端場和香が声をかける。
「おはよう、和香さん」
挨拶をし返す孜々は――しかし、とても眠そうに目をこすっていた。基本的に、朝には強い彼ではあったが、ここ数日間の寝付きの悪さと言ったらなかった。なんとか眠りに落ちることが出来たとしても、浅い眠りの中で悪夢を見る、という状況が継続していたのだ。
「随分と疲れた顔をされていますが……大丈夫ですか?ここ最近、忙しい日々が続いていますし――あまり、眠れていないのでは?」
「心配してくれてありがとう、和香さん。けれど、大丈夫だよ。ほんの少し眠りが浅いだけで、心配には及ばない。ようやく、先が見えてきたところなんだ――みんなが頑張ってくれているというのに、肝心の私が弱っているわけにはいかないよ」
そうだ、疲れているわけにはいかない――と、孜々は自分自身に喝を入れる。
ようやく、行方不明になっていた娘の足取りが分かってきたところなのである。ここで頑張れなくてどうするのだ――ここまできて、全部を台無しにするつもりか。『シンデレラ協会』を作り上げた意味を、見失うつもりか。
『シンデレラ協会』。
機桐孜々によって作り上げられたこの組織は、主に『病持ち』の患者を保護するという名目で活動を続けている。社会であぶれてしまったはぐれ者に居場所を与えるための組織として、この一年間、動き続けてきた。
だが、本当のところは――根っこのところでは、設立者である機桐孜々の個人的な事情が絡みついている。それもそのはず。「『病持ち』の人間を保護する」というのは、あくまで表向きの目的でしかなく、「行方不明になった娘を連れ戻す」という孜々の目標こそが、この『シンデレラ協会』を築き上げた、本当の目的なのだから。
そのために――それだけのためにこの一年間、孜々は『病持ち』の人間を集め続けた。自分のために動いてくれる人間であれば、無理に『病持ち』である必要はなかったのだが、それでも彼は、前に勤めていた病院との繋がりを駆使して、『病持ち』の人間の情報を集め続けた。
娘と同じ、『病持ち』の人間を。
『病持ち』の人間の情報が手に入れば、そこへ行って、協力してくれるように声をかけた。
『病』に苦しむ患者がいれば、手を差し伸べ、温かい食事と寝床を与えた。
一般人でありながら『病』に関わってしまった者に関しては、場合によっては別の組織に判断を委ねることもあったものの、なるべく彼らの身の安全を守ることに努めた。それによって、排他的な組織の上層部の人間に睨まれるようなことがあったとしても、自ら彼らのもとへと出向き、直接的な対立が起こらないように最善を尽くした。
すべては、自分自身の目的のため。
娘を、取り戻すため。
最終的には、その目的を果たすためならば、他のすべてを犠牲にする覚悟だってある。
大きな目的を果たすためには、ときに冷酷になることが必要だと、孜々は知っていた。他人に嫌われること、恨まれること、鬱陶しがられることを避けた先には、妥協しかないことを知っていた。
なんとしても、娘を奪還する。
何がなんでも――どんなに辛い目に遭ってでも、愛する娘を取り戻す。
そのための、『シンデレラ協会』だ。
「和香さん。午後になったら、私の仕事部屋に来てもらっても大丈夫かな?」
「?――構いませんが、何かご相談でしょうか?」
「うん。とても大切な相談だ。出来れば、草羽さんにも声をかけておいてほしい。君たち二人にしか、相談できない。他の使用人たちには、絶対に聞かれるわけにはいかない相談だ――いいかな?」
「畏まりました」
深々と頭を下げる和香の顔は――緊張していた。
その時が来た、と彼女は思った。
端場和香と草羽了。心の底から孜々を尊敬している彼女らにとって、この相談は、待ちに待ったそれだった。
ようやく。
ようやく本当の意味で、彼に恩返しが出来る。
そして、孜々もまた、緊張感を携えた表情を浮かべていた。この行動を起こすまでに――この決意を固めるまでに、随分と時間がかかってしまったけれど、ようやく前に進むことが出来る。
すべてを犠牲にする。
そのときが、来たのだ。
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