病名(びょうめい)とめろんぱん

ぢろ吉郎

西向井由未のバースデーケーキ その6



「こうして朝早くから、おまえたち二人に集まってもらったのは他でもない――もちろん、仕事の話だ」
「真面目な話をさっさと済ませてしまいたいのは分かりますが……ばらさん。今は、運転に集中しましょう。交通事故でも起こしてしまったら、仕事どころではないでしょう?」
「余計なことを言うな、粒槍つぶやり。お前こそ、俺の話をきちんと聞いておけ。俺の運転については心配いらん。なんせ俺は生まれてこの方、一度も事故を起こしたことがないんだからな」
「そういう自信満々な人ほど、事故を起こしやすいと聞きますが……ほら、またスピードが不安定になっていますよ。ハンドルをしっかり持って、アクセルを力一杯踏んで――」
「分かった分かった……。そこのコンビニに駐車するから、運転を代わってくれ。お前に説教されながらじゃ、まともに話もできん……」


 と、こんな風に仲良さげに(会話の中身に関しては、危険極まる。安全運転は、社会人の基本技能だと聞く)話しているのは、歯原将興まさおきさんと、粒槍伝治つたうじさん。『白羽しらはね病院』の『第二究明室』のメンバー(仮)になった私にとっては、上司であり、大先輩に当たる人たちだ。
 だから――お願いだから、どっちがハンドルを握るか、みたいなくだらない理由で、口喧嘩なんてしないでほしい。
 そんなものを見るために、私はあなたたちの部下になったわけじゃないんだけど……。
 『白羽病院』の方たちに拾われてから、随分と長い時間が過ぎた……と思ったけれど、考えてみれば、私がこの病院にきてから、まだ一か月しか経っていないのだ。病院の中でのあれこれが非常に濃い内容だったため、もっと長い間、ここで生活していたような気がする。
 こういう思い出を振り返るときには定番だけれど、もちろん、良いことばかりではなかった。
 むしろ、辛いことの方が多かった。
 向き合わなければならない現実。
 乗り越えなくてはならない障害。
 大嫌いな私の『やまい』――『きゅうだんやまい』に関しては、粒槍さんの厳しくも優しい訓練によってコントロールすることが出来るようにはなったけれど、だからといって、私の中のトラウマが消えてなくなったわけではなかった。自分自身の『病』をコントロールできるようになっていくのに比例して、あのときの後悔もますます大きくなっていった。
 もっと早く、自分自身と向き合えていれば。
 逃げずに、立ち向かっていれば。
 あの子は……ユミちゃんは今も笑いながら、私とキャッチボールをしてくれていたかもしれない。
 かわさんは、私を優しく慰めてくれた。
 歯原さんは、私を厳しく諭してくれた。
 彼らの言葉の一つ一つが、倒れそうになる私を支えてくれた。ずっと、罪の意識は消えなかったけれど……罪悪感は今も、私の心に巣食っているけれど。それでも、私の心を強くするには、彼らの言葉は充分だった。


「――西にしむか、聞いてるか?」
「あ――はい。聞いています」


 思考に耽っていた自分の意識を、元に戻す。
 今は、思考労働に埋没している場合じゃない。前を向いて、やるべきことをやらなくちゃならない。
 ちょうど、粒槍さんと歯原さんの運転手交代が行われて、車を発進させたところだった。カーナビゲーションによれば、目的地到着までの時間は10~15分。あまり時間はないのだから、彼らの話をきちんと聞いて、お仕事での私の役割を、充分に理解しておかなければならない。


「緊張してしまうのも分からなくはないが、今は集中しろ。上からの正式な指令による仕事としては、これがお前の初仕事になるんだからな。ミスは許すが、失敗は許さん」
「は、はい……」


 歯原さんのその口振りに、私の中での緊張感は増す。
 期待して言ってくれているのは分かっている。顔を合わせた当初は、「何だか怖いおじさんだな……」と思ったものだけれど、この人は、無駄にプレッシャーをかけるような人ではないのだ。
 この人は、常に最善を尽くしている。
 絶対に手を抜かず、当たり前のように全力を出す。それが彼の強みであり、決して揺らぐことのない意志であることを、私は知っていた。この一か月間、彼の仕事ぶりを見続けていたようなものなのだから、それくらいは分かっていて当然だ。


「だからといって、緊張しすぎてもいけないよ、西向井さん。初仕事とはいっても、これは本来、俺のせいで生じてしまった仕事なんだから。君には、悪いと思っているよ。俺の失敗に付き合わせてしまって……」


 ?……どういうことだろう?
 私はまだ、この仕事の詳細を説明されてはいない。「十分後、病院の地下駐車場に集合」という連絡を受け、向かった先で待っていた歯原さんに急かされるようにして、粒槍さんと共に車に押し込められた形である。
 その口振りから察するに、粒槍さんは既に、仕事の内容を歯原さんから聞かされているのだろうか?
 そんな私の思考を読み取ったかのように、彼は言う。


「いや・・・偉そうな口を叩いたものの、俺も、仕事の全容を聞かされているわけではないんだ。だが、多分、これは――」
「そう。その『多分』が、多分正解だ、粒槍。先日殺し損ねたあいつを、今度こそ亡き者にしなければならない。お前に、失敗を挽回するチャンスが回ってきたというわけだ」


 ……え?
 殺し損ねた?
 今度こそ、亡き者にするって――。


「ちょ、ちょっと待ってください、歯原さん」


 不穏なセリフに反応して、私は口を開く。同時に、動揺した私の気持ちが、真正直に顔に出てしまう。


「どういうことです?失敗を挽回するって……それじゃ、まるで――」
「まるで?まるで、なんだ?」


 前を向いたまま話していた歯原さんが、後部座席に座っている私の方を振り向き、睨みつけるような視線を浴びせる。


「まるでそれは『人殺し』のようだと、そう言いたいのか?冗談言うな――これは、『人殺し』そのものだよ、西向井」
「歯原さん」


 と、粒槍さんも真剣な顔つきで、会話に参加する。決して、いつも浮かべているような、朗らかそうな笑顔ではない……むしろ、今にも怒り出しそうな表情で、彼は言う。


「やはり西向井さんは、今回の仕事に関わるべきではないと思います。いくら、上からの命令だとはいえ……それに、西向井さんが優秀だからとはいえ、初仕事がこれだというのは、あまりにも酷でしょう?」
「ならば、粒槍。お前は、この子がどんな仕事に就けば満足なんだ?」


 今度は粒槍さんの方に、その鋭い視線を向ける。


「粒槍――それに西向井も、よく聞いておくんだ。この業界に、『楽な仕事』はない。『楽しい仕事』もなければ、『達成感のある仕事』もなく、もちろん、『誰かのための仕事』もない。あるのは、『正しい仕事』だけだ。それを受け入れられないのならば、お前たちも、俺も、生き残れない。『病』と不幸に蝕まれたこの業界で生きていくためには、より『正しい仕事』をしなくちゃならないし……何より、自分に正しくあらねばならない」
「……なら、どうして殺すんです」


 記憶が。
 音が。
 フラッシュバックする。
 私は、ユミちゃんを亡き者にしたわけではない……下手をすれば死んでいたかもしれないけれど、「死」という絶望的で絶対的な結末だけは、避けることが出来た。お父さんやお母さんは逃れることの出来なかった結末だけは、迎えなかった。
 この一か月間、それに近い状況や、それよりも酷い状況に陥った人を何人も見てきた。「何人も」は言い過ぎにしても、それでも、見てきた。
 「死」、というものだって。
 きちんと見てきた……つもりだった。「死」に直面した人、「死」を迎え入れた人、「死」を乗り越えた人。いろんな「死」を、それと対照的な、多種多様な「生」を、見てきたつもりでいた。
 でも、「死を与える」ということは。
 まるで見てきていなかった……。自分が、他人の「死」の当事者になることなど、考えたくもなかった。
 この人はそれを、「正しい仕事」だと言うのか?
 お世話になっている歯原さんに向けて、私は、憎しみを込めた視線を送った。
 それだけは……いくらなんでもそれだけは、承諾できない。


「誰だか知りませんけれど……その人を殺すことだけは、私には出来ません。そんな行為、正しいわけがない」
「なるほど。ではお前は、こう言いたいんだな」


 歯原さんの口調は、もう、いつもの調子に戻っていた。面倒くさそうな声に、何もかもを嫌がっているようなその声に、戻っていた。
 いつもの。
 正しい意志を示す、その声に。


「そいつのせいで、何百人もの患者のプライバシーが世間に知れ渡ることになっても、それいで良いと言うんだな。弱い人間のウイークポイントが衆目に晒されたところで、患者たちは、普通に生活していけると言うんだな」
「――それは」


 それは。
 それは、私には無理だった。
 溶け込むことなんて出来なくて、知られるのが嫌で・・・嫌で嫌で嫌だったから・・・だから。
 だから。
 だから、私は。


「俺には、そんなことは言えない。そんな無責任なこと、俺は口にできない……」


 臆病者の俺には。
 それが怖くて怖くて堪らないと、震える声で、歯原さんは言った。





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