病名(びょうめい)とめろんぱん
西向井由未のバースデーケーキ その5
「あなたの友人は、亡くなってはいないわ」
ピリピリとした空気はひとまず落ち着き、病室(ここは病院だということを、さすがに感じ取ることが出来た)は平穏を取り戻した。
歯原さんは、「他の仕事がある。あとの説明はお前に任せた」というセリフを残して、さっさと病室から出て行ってしまった。自分が気まずい空気にしてしまったのを、さすがに反省したのかもしれない。そこまで気を遣える人なのかどうかは、出会ったばかりの私には分からないけれど。
その後、瑠璃川さんは、私の両手を元に戻してくれた。ぶらん、とだらしなく垂れ下がっていた両手は、今はしっかりと、自分の意思で動かすことの出来るそれに戻っている。
「元に戻してくれた」なんて言うと、まるで、瑠璃川さんが私をそんな目に遭わせていたような表現になってしまうけれど、それは紛れもない事実なので、そう表現するしかない。
私が異常な投球を行うことが出来るように、瑠璃川さんもまた、異質な才能(『病』、と言っていたっけ)の持ち主らしい。「私は、他人の自由を奪うのよ。自分の自由と引き換えに、ね」と、非常に端的な説明だったけれど、それでなんとなく、私は理解が出来た。
起きたばかりのときは気付かなかったけれど、私の両手を戻すまでの間、瑠璃川さんの両手もまた、骨抜きになったみたいにフニャフニャになっていた。
つまりは、自分の両手の自由を失うのと引き換えに、私の両手の自由を奪ったということになるらしい。私の上体を起こすときに彼女は手伝ってくれたけれど、そのときから既に、彼女の両手は不自由だったということだ……そんな状態で助けてくれたのだと思うと、逆に、こっちが申し訳ない気持ちになる。
「……亡くなっていない、ということは」
グーパー、グーパー、と、自由になった両手の試運転を行いながら、私は瑠璃川さんの会話に応じる。
「回復する見込みは、あるってことですか?」
死んでいないということは、あの野良猫のように、首が吹っ飛んではいないということだ。だったら、意識が回復すれば、あるいは――。
「いいえ」
だが、私の期待に反して、瑠璃川さんは否定した。
「残念だけど、『かろうじて生きている』程度なの。どうして生き残っているのか分からないくらい、脳神経が破壊されてしまっているのに……。多分もう、あの子が目を覚ますことはないわ。一生、眠ったままだと思う」
「…………」
罪が、重くのしかかる。
全部、嘘偽りなく教えてほしいと言ったのは、私だ。だから瑠璃川さんも変に遠慮せず、正直に教えてくれたのだろう。
だけど――これは、重い。
想像以上に重苦しい何かが、私を責め立てている。
けれど、ここで悲しむのは違う。泣くのも後悔するのも、とりあえずは二の次だ。そんなことをしまえば、きっと私は、罪の意識に勝てなくなる。
「その……。私は――私は、どうしたらいいんでしょうか」
こうして人に聞くこと自体、そもそも間違っているのかもしれないけれど、私は質問した。もっと正確に言うならば、「私はどうしたいんでしょうか」、だけれど。
「傷つけてもいい友達」なんて、存在しなかった。
そんなもの、やっぱり無理だった。
傷つければ、心が痛い。自分を傷つけることなく他人を傷つけるなんて――私にはできない。だから、今の私には、言い訳が必要だ。心を癒すための、罪を償うための、言い訳が欲しい。
「それは……残念だけれど、私の口からは言えないわ。由未ちゃん」
瑠璃川さんは、非常に申し訳ないといった風に、首を小さく横に振った。
「私からは教えてあげられないし、きっと、誰にも教えられない。この世に、あなたの決断と将来に絶対の責任を持つことの出来る人間は存在しないの。もちろん、あなた以外で、ね」
厳しいことを言われてしまったな、と私はたじろいでしまう。
瑠璃川さんの言うことが、まったくもって正しいことは、もちろん分かる。至極当然のことを言っているだけだと、理解は出来る。
でも――でも、もし、ここで瑠璃川さんが、答えを教えてくれていたら。揺るぎない、進むべき一本の道を示していてくれたら。私の意思なんて度外視してしまうほどの、大きくて強い夢を強制してくれていたら。
私は、迷わなかっただろう。
それに。
とってもとっても、楽だっただろう。
瑠璃川さんは、そうしなかった。申し訳なさそうな表情を浮かべながらも、彼女は私に選ばせようとしているのだ。それが私にとって、どれだけ難しいことなのかを分かっていながら、ほんの少しのヒントも与えてはくれず、私に委ねている。
そんな、当然のことを。
そんな、辛いことを。
私に、やらせようとしている。
「すぐに決めなきゃいけないことじゃないのよ。あなたのペースで……あなたが納得のいくまで考える時間が、今はあるわ」
同時に瑠璃川さんは、優しく微笑んでくれた。決して、全部任せてそれで終わり、というような乱雑なことはしなかった。待ってくれている。ノロい私を、トロい私を、待っていてくれているのだ。
その優しさは。
どんな薬よりも、他のどんな言葉よりも、私の傷の深く深くまで浸透して、癒してくれているような気がした。
ありがとうございます、瑠璃川さん。
そう、言いたかった。
けれど、ふと気になった――ふと、気付いてしまった疑問に、疑念に、その感謝の言葉は遮られる。
これは、私のこれからを決めるために、知っておかなければならないことだ。知るのが怖いけれど、目を背けてはいけないことだ。
受け入れなくては。
それが、どれだけ残酷な事実だろうと。
「あ、あの……瑠璃川さん。私の両親は、何と言っていますか?お二人は――瑠璃川さんと歯原さんは、私のお父さんとお母さんに、会ったんでしょうか?」
途端に、瑠璃川さんの表情が曇る。
その表情だけで、私の質問に対する答えには充分だった。それ以上、何も言葉を交わさなくてもいいくらいに、彼女の反応が、すべてを語っている。
……そう、だよね。
そりゃ……そうだよね。
瑠璃川さんは白衣のポケットに手を入れ、小さめの茶封筒を取り出す。きっと、私に促されなくとも、タイミングを見て、この話をするつもりだったのだろう。そうでなければ、そんな封筒を予め用意したりはしないはずだ。
中に何が入っているのか一目で分かる、それを。
『遺書』
堂々と書かれた、それを。
「……事件があった二日後に、ご両親は亡くなられたわ」
自ら。
その命を絶って。
誕生日ケーキは、とても美味しかった。
お母さんが作ってくれた手料理はもっと美味しかったし、あんまり私と話してくれなかったお父さんが「誕生日おめでとう」と言ってくれたことも、とっても嬉しかった。
お父さんお母さん、ありがとう。
心の底から……混じり気のない感謝の言葉を、心の中で唱えた。
こんな出来損ないの娘を、最後の最期まで育ててくれて。
本当に。
ありがとう。
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