病名(びょうめい)とめろんぱん
病名とめろんぱん その34
「社会、復帰・・・?」
一瞬、何のことを言っているのか分からなかった。僕は刑務所に入れられているわけでも、重い病気を患っているわけでもないんだけれど・・・。
ただ・・・よく考えてみれば、今の僕は、社会からは隔離されている。
少なくとも、「一般的な社会」からは。
「社会復帰、という言葉は・・・ちょっとイメージが悪かったかな。言われて、あんまり気分の良い言葉ではないね」
「ごめんごめん」という軽い一言と共に、コーヒーを一口。
「いえ・・・でも、言いたいことは分かりますよ」
一般社会に、戻りたいかどうか。
元の生活に、戻りたいかどうか。
そういうことなのだろう。
「社会復帰したいかどうかと聞かれれば・・・それはもちろん、したいですよ」
戻りたいに、決まっている。
いつまでも、『病』やら『病持ち』やらがはびこっている、この変な社会に身を置くつもりはない。元の生活に戻れるというならば、ある程度のことはする。
多少の無理は・・・・・命を失わない程度の無理は、するつもりだ。
「そうだろうね。こんな業界で働き続けようと考えるほど、君も、馬鹿な奴ではないよな」
「馬鹿な奴って・・・この業界で真剣に働いている人だって、たくさんいるんじゃないですか?」
別に庇うつもりはないけれど、そういう人たちを全員一括りにして、「馬鹿な奴」でまとめるのは、少し横暴だろう。
「いや・・・馬鹿ばっかりさ。この業界に身を置いている奴は、どいつもこいつも、馬鹿な変人だらけだ。・・・・・もちろん、私も含めて、ね」
自虐的になったかのように、彼女は笑った。手元に置いてあったティースプーンを、クルクルと右手で弄ぶ。
別に・・・濱江さんは、変人には見えないけれど。彼女は彼女で、何かしらの事情を抱えているのだろうか?
僕には見えない・・・見ることの出来ない、特殊な事情が。
「社会復帰という話題に戻るけれど・・・優くん。この業界から抜け出すためには、どうすればいいと思う?どうすれば・・・この厄介な業界から、手を引けると思う?」
「え・・・?いや、そんなこと、急に聞かれても・・・・・」
業界から手を引くにはどうすればいいか、だって?
普通の企業ならば、退職願を出すとか、已むに已まれぬ個人的事情を作るとか・・・・・乱暴な方法ならば、不祥事を起こすとか。
その辺りだろう。
社会人を二か月で脱落した僕には、詳しいことは分からないけれど。
就職のことを考える機会は何度もあったけれど、退職のことを考える機会は、全然なかった。学生の頃は、前しか見ていなかったような気がする。
テキトーに、前だけを見ていた。前を見てればどうにかなるだろうと、そんな風に考えていた。
ただ、これらの方法が、『病』に関わる業界に通じるかどうかと聞かれれば・・・それは、否だろう。今までの経験を踏まえれば、こんなことでは、この社会は抜け出せない。
いや、今までの経験というか・・・氷田織さんや信条さんの影響が強いのか。
彼らから受けた言葉のインパクトは、思いのほか、僕に影響を与えている。
下手に抜け出そうとすれば、殺されるか、口もきけなくなるような目に遭わされるか・・・。
いずれにせよ、無事では済まないような気がする。
「このねちっこい業界から抜け出す方法は、主に二つだ・・・・・と、私は考えている」
と、濱江さんは、左手をグーの形にする。
「『忘れる』か、それとも『忘れられる』か、だ」
言いながら彼女は、左手の人差し指と中指を、もう一方の手で持ち上げる。
「どちらかを満たせば、ひとまず、この業界からは足を洗える。両方を満たせれば完璧だけれど・・・それは、難しいだろう。『白縫グループ』の代表を動かすよりも、よっぽど難しい」
「『忘れる』か、『忘れられる』か・・・ですか」
両方とも、相当の難題のような気がするけれど・・・ひとまず、話を聞こう。
「一つ目。『忘れる』」
と、中指を折る。
「文字通り、『病』や『病持ち』のこと自体を、きっぱりと忘れるという方法だ。記憶がなくなってしまえば、それらの情報を口外することも出来ないからね。『病』のことを何も知らない人間を殺そうとは、さすがに誰も思わないはずだ」
「いや、でも、濱江さん・・・」
「二つ目。『忘れられる』」
僕の言葉を遮りながら、次は人差し指を折る。
「これも文字通り、『病』や『病持ち』の関係者に、柳瀬優という人間の存在を、完全に忘れてもらうという方法だ。存在を忘れられてしまえば、君のことをつけ狙える人間は、一人たりともいない」
「いやいや・・・だから、濱江さん」
今度はもっとハッキリと、彼女に呼び掛ける。
「そりゃ、それらが出来れば一番良いんですけど・・・事実上、それは不可能ですよね?」
正直、彼女の提案する手段は、誰にでも考え付くようなアイデアだと思ってしまった。
『忘れる』とか『忘れられる』とか、言うのは簡単だけれど、実行するのは、ほぼ無理だろう。
「酒を飲んで忘れよう」、「見なかったことにして忘れて!」などといった、気の持ちようでどうにかなることではない。
少しも頭に残らないように、忘れる。
微塵も記憶が残らないように、忘れさせる。
そんなこと・・・・・出来るはずがない。
「そう、不可能だ。・・・本来ならば」
と、彼女は再び、手を組み直す。
・・・・本来ならば、だって?
まるで、実行可能な裏技があるかのような言い方だけれど・・・。
「君が考えている通り、『病』のことを知ったまま、この業界から抜け出そうとする人間は、ほとんど例外なく狙われる。これに関しては、『白縫グループ』も全力を挙げるだろう。手に手をとって、そいつを追い詰める。・・・・・だからこそ、私が挙げた手段を実行するならば、生半可なことは出来ない」
またしてもコーヒーを啜り、一旦、言葉を切る。
「『忘失の病』」
強調するかのように、それがテストに出るキーワードのように、彼女の声が静かに響いた。
「『忘失の病』を持つ彼なら・・・『忘れさせる』ことは難儀でも、『忘れる』ことは、或いは可能なのかもしれない」
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