病名(びょうめい)とめろんぱん
病名とめろんぱん その32
数分間の沈黙が訪れる。
口を塞がれているのだから、声を出せないのは当然なのだが、同時に「声を出したくない」という、僕の意志の現れでもあった。
先ほどの恐怖に、未だに付きまとわれているような気がする。あの、よく分からない恐怖は、そう簡単に頭から振り払えそうにない。
「・・・行ったようだね」
徐々に。
本当に少しずつだが、動悸と冷や汗が引いていくのを感じた。あの「何か」は、どこかへ行ってくれたのだろうか?僕を見失った・・・のか?
気付けば、僕に黙るように促していた人物は、既に僕から離れていた。脅すように突きつけていたナイフを軽く指先で回しながら、部屋の向こうへと歩いて行く。
部屋の向こうと言っても、それほど広い部屋ではない。
光に慣れてくると、部屋の内装がよく見えるようになった。なんだかゴチャゴチャしていて、物置部屋のような内装だ。部屋の所々に、机や椅子、棚などが詰め込まれており、部屋の中を移動するには、それらの間を縫うように歩かなければならない。
医療機器や機具も、大なり小なり置かれているけれど・・・もう使われていないものなのだろうか?
「こっちにおいで」
座ったままボーっとしていると、部屋の奥から、彼女が声をかけてきた。
ハッと我に返り、僕も彼女の後を追って、奥へと進む。
少し大きめのテーブルの前に椅子を置き、彼女は座っていた。どこから持ってきたのか、二つのマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、電気ケトルでお湯を入れている。
なんだか和やかな雰囲気になったけれど・・・彼女の手元には、未だにナイフが置かれている。僕に対する牽制だろうか?
「椅子は、その辺のを適当に使ってくれ・・・ミルクと砂糖は要るかい?」
「いえ・・・結構です」
「そりゃ良かった。ちょうど、切らしていたところだ」
なら、聞く必要もないと思うけれど・・・と考えながら、僕も椅子に座る。
「えっと・・・助けていただいて、ありがとうございました」
一応、お礼を述べる。
彼女が何者なのかは知らないけれど、あの「何か」から助けてくれたことには、感謝しなければならないだろう。
「失礼ですが・・・あなたは、『白縫病院』の職員か何かですか?」
もちろん、彼女の素性を聞くのも忘れない。助けてもらったとはいえ、彼女が敵ではないという判断を下すには、まだ情報が足りなさすぎる。
「それに、今の奴は一体・・・」
「あはは・・・怖かったかい?柳瀬優くん」
と、彼女は苦笑いを浮かべる。
僕の名前を知っている・・・ということは、やはり、病院の関係者には間違いなさそうだ。
「本当は、あいつを君に会わせるつもりはなかったんだけどね・・・。いや、しかし、君が今夜中に来てくれて助かったよ」
「今夜中?」
と、僕は眉をひそめる。
今夜中。
ホテルの部屋に投げ込まれていた手紙に、確か、そんなようなことが書かれていなかったか?
『急がば急げ。夜のうち』
「もしかして・・・あの手紙を僕に送りつけたのは、あなたなんですか?」
「おいおい。そう質問攻めにされても、おばさんは一気には答えられないよ。一つずつ説明させてくれ」
「ほら。コーヒーでも飲んで、落ち着きなよ」と、彼女はマグカップを差し出してきた。
いや・・・自分のことをおばさんって。
そこまで言わなくても。
まあ確かに、そんなに若くはなさそうだけれど・・・・・。
「・・・今、 失礼なことを考えなかった?」
「いえ。全然」
即答する。
即断即決で、嘘をつく。
「ならいいけど・・・えっと、まず、私が誰かという質問だったね。これに関しては、君の予想通りだ。私は、ここ『白縫病院』の職員で、濱江愁子という。職員といっても・・・裏の職員、という扱いだけれどね」
「裏の職員・・・というと、もしかして、『病持ち』に関わっている職員ということですか?」
「正解」
と、濱江さんは小さく拍手する。
「『病』の研究や、『病持ち』の患者のお世話なんかをやっているよ。一応、明日行われるはずだった君たちとの交渉も、私が担当する予定だった。・・・こうして、半日ほど早まってしまったけれど、役割は全う出来た感じかな」
「・・・そうだったんですか」
明日行われるはず、か・・・。僕らも、最初はその予定だったのだけれど。
しかし、濱江さんの話し方を聞いていると、「意図せずして早まってしまった」という風ではない。まるで交渉が早まることを、前々から分かっていたかのような言い方だ。
やはり、あの手紙には、何かしらの意図があったのだろうか?
「そうだね。先に、あの手紙のことを説明した方が良いのかもしれないな」
と、濱江さんはおもむろにペンを取り出し、メモ帳に何かを書き出した。
『急がば急げ。夜のうち』。
・・・手紙に書かれていた文章と、まるっきり同じ一文だ。
「実は訳あって、交渉を明日行うのは、都合が悪くなってしまってね。今夜中に君たちをお招きしたいと思って、この文章を送ったのさ」
「いや・・・でも、それなら、明日以降では駄目だったんですか?わざわざこんな手紙を送って、交渉を急ぐ必要はなかったんじゃ・・・」
もちろん僕にとっては都合が良いのだが、彼女らにとっては、交渉を急ぐメリットはないように思える。
「いや、明日以降では駄目なんだ」
と、彼女はきっぱりと言った。
「細かい理由までは言えないけれどね。ともかく、君たちとの交渉は、早いうちに終わらせておきたかったんだ」
・・・「詳しく教えてください」、と言っても、そう易々とは教えてくれないだろう。
ただ、彼女らは彼女らで、現在、何かしらの事情を抱えているということは確かなようだ。それも、随分と深刻な事情が。そうでなければ、こんなに交渉を急ぐ意味はなかったはずだし、別の日への日程の変更も出来たはずだ・・・まあ、そんな事情を抱えている中で、何故、僕たちの交渉を応じてくれたのか?という違和感は残るけれど・・・・・。
「あの手紙で君たちが来てくれるかどうかは、微妙なところだったけれどね。・・・罠かもしれないとか、思わなかったのかい?」
「ちょっと考えましたけど・・・でも罠なら、もう少し上手くやるだろうと思ったんです」
『白縫病院』へと誘い込みたかったのならば、あんな手は使わないだろうと思ったのだ。
「急がば急げ。夜のうち」・・・なんて、逆に、怪しすぎる。誘い込まれているとしか思えない文面だ。
だが・・・だからこそ、乗り込むべきだと思ったのだ。蓮鳥さんとの作戦を予定通り、実行するべきだと思った。少しばかり、賭けだったけれど・・・『白縫病院』が見え見えの罠を張っていると考えるよりも、向こうも交渉を急いでいるのだと考えるべきだと思った。
「良い勘してるよ、君は。もしも私が同じ立場だったならば、警戒に警戒を重ねて、乗り込もうとは考えなかっただろう。長生きするためには手段を選ばない、という噂は本当だったね」
「そんな噂、どこから流れてきてるんですか・・・」
「『白縫グループ』は、かなり大きな組織だからね。それくらいの情報は、放っておいても入ってくるさ。むしろ、そういう君の性格を知っていたからこそ、あんな手紙を送ったんだ。本当に、上手くいって良かった」
・・・なんだか、随分と安心しているようだけれど、そんなにも交渉を急ぎたかったのだろうか?
作戦通りに事が運んだからといって、安心しすぎじゃないか?
「それで・・・濱江さん。もう一つの質問にも、答えてもらえますか?あいつは・・・」
と、廊下の方を指差す。
「『あれ』は、一体、何なんですか?」
「・・・・・・」
濱江さんは黙って、そちらの方に顔を向ける。
もう、『あれ』は傍にはいないけれど、何のことを言っているのか分からないわけではないはずだ。
暗闇の中、僕たちの恐怖心を掻き立てるように追いかけてきたあいつは、一体、何なのだろう。
「『強心症の病』」
と、彼女は言った。
哀れんでいるようで・・・それでいて、軽蔑もこもっているかのような・・・そんな口調で。
「他人の恐怖心を煽ることしか出来ない・・・哀れな『病』だよ」
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