病名(びょうめい)とめろんぱん
病名とめろんぱん その22
『海沿保育園』の一室。落ち着きある畳の部屋に、蓮鳥鳩音は横たわっていた。気を失った蓮鳥を、柳瀬優と沖飛鳥が運び込んだのである。
「・・・・・・」
ボーっと、死んだように天井を見つめる蓮鳥は、何も考えていないように見える。実際、蓮鳥はこのとき、思考をほとんど停止させていた。無気力に無感情に、何に対してもやる気を失ってしまったかのように、ただただ空中に視線を泳がせていた。
意識を取り戻したのは良いものの、ここがどこだか分からず、自分の身がどのような状況に置かれているのかも分からない。そんな状態では普通、人間は焦りを隠せなくなるものだが、今の蓮鳥にはそんな焦りすらもない。
もう、いいか。
どうなってもいいか。
諦め、というよりは、脱力感に似た感覚が蓮鳥を支配していた。全力を出した後、何かに一生懸命になった後というのは、どうしても力が抜けてしまうものだ。
彼女は、全力で「正しさ」を求めた。気がおかしくなってしまうほどに、狂おしいほどに、「正しさ」を知ろうとした。
もう充分だろう。
もう、充分すぎるほどに頑張った。
今、死ぬことになったとしても、後悔はしないだろうなと、蓮鳥は思った。スッと、死ぬことが出来る。
やっと、全部諦められる。全部、終わりに出来る。全部、捨てられる。
そう思ったとき。
コンコンと、入り口の方の扉から、ノック音が響く。
「・・・はい」
蓮鳥は、反射的に返事をしてしまう。今は誰とも話したくないというのに、何となく、返事を返してしまう。
「失礼しますね」
中に入って来た人物の姿を見て、蓮鳥はギョッとする。
あの老人だ。
刺しても刺しても殺せず、傷つけても傷つけても死ななかったあの老人が、そこには立っていた。腕から提げたバケットからは、なんだか香ばしい匂いが漂っている。
「体調は・・・どうですか?少し、落ち着きましたか?」
蓮鳥の横に静かに座った沖は、相変わらず微笑んでいた。
ニコニコと。
気持ち悪いくらいに、微笑んでいる。
「・・・・・・なんですか?」
体を起こさないままにゴロンと背を向け、最低限の返答をする。これから自分をどうするつもりなのかは知らないが、ひとまず抵抗の意志は示しておこうと、蓮鳥は考えた。子供騙しにもならないだろうが、何もしないよりはマシだろうという判断だ。
『白縫病院』の情報を吐けとでも、脅されるのだろうか。
『シンデレラ教会』の機桐孜々を殺した報いとして、自分も殺されるのだろうか。
(まあ・・・それもいいかな)
そんな風に、蓮鳥は思った。
拷問されようと、殺されようと、別に構わない。
生きるのは、もうたくさんだ。
「もし良ければ・・・・・少し、お話をしませんか?あなたがどんなことを考え、どんな思いでここまでやって来たのか、せひ、教えていただけませんか?」
「・・・・・・」
蓮鳥は、口を開かない。
話し合うつもりなんて、毛頭なかった。自分のことを語るつもりなんて、これっぽっちもない。
話してなんか、やるもんか。
せいぜい、何も知らないまま、何も得られないまま、私を殺すといい。
「もし、あなた自身のことを話したくないというなら、別のことでもいいんです。あなたの好きなことでも悩みでも・・・何でもいいんです。何か、お話をしませんか?」
「・・・・・・」
「・・・・・お腹は、空いていませんか?お口に合うかは分かりませんが・・・良かったら、これをどうぞ」
沖がバケットを開くと、中には様々な種類のパンが詰まっていた。
あんぱんにメロンパン。カレーパンに、クロワッサン。
形が歪で、手作り感が丸出しのパンだったが、美味しそうなのは間違いない。とても食欲をそそる香りが、蓮鳥の鼻腔を刺激した。
「形は悪いですが、味には自信がありますよ。いかがですか?」
「・・・・・いりません。食欲、ありませんから」
「そんなことを言わずに、少しだけでもいかかですか?」
蓮鳥はチラリと、沖の方に視線を向ける。
沖はあんぱんの端を少しだけ千切り、蓮鳥の方へと差し出していた。
「食べてみてください。元気が出ますよ」
「・・・いりません」
「あんぱんは、嫌いですか?それなら、他のパンも・・・・・」
「いらないって言ってるだろ!」
蓮鳥は、差し出してきたあんぱんを、手で思い切り叩き落とす。下へと落ちたあんぱんは埃を巻き込み、汚れながら、畳の上を少しだけ転がった。
ついに、我慢がきかなくなった。
溜まっていた感情が、爆発した。
「何も知らないくせに、私に構うな!聞き出したいことがあるなら、そう言えばいいだろ!殺したいなら、早く殺せ!くだらないことをごちゃごちゃ言うな!」
募ってきた辛さが、苦しさが。
爆発する。
本当は、こうして怒りたかった。
怒鳴りたかった。
平気で、「自分が正しい」と思っている奴らを。
「自分は正しいことをしているんだ」と、勝手に信じ込んでいる奴らを。
そして、正しいことなんて考えてもいない奴らを。
怒鳴りつけてやりたかった。
世の中には、「正しいこと」が出来ない奴もいるというのに。
「自分は間違えているんだ」と、そう思わざるを得ない人間もいるというのに。
勝手に『正しさ』をでっち上げて、勝手に正義をでっち上げて。
どこまで私を傷つければ、気が済むんだ?
もう何もいらないんだ。正しさも、正義も・・・・・私はもう、何も知りたくない。
「慰めてるつもりか?だったら、さっさと出てけ!お前なんかに分かるもんか!お前みたいなジジイに、私の辛さが分かるもんか!何も理解できないくせに、優しくしようとするな!」
その笑顔を引っ込めろ。話しかけてくるな。
もううんざりだ。
もう・・・もうホントに、何もいらない。
「ウザいんだよ!そういうの!不味いパンなんかいらないから、放っておけよ!もう何もかも・・・・・どうでもいいんだよ!」
悲しい。
言っていて、なんだか悲しい。
けれど、言わないと。
叫んでいないと。
そうしないと、自分の中の何かが壊れてしまいそうだった。
最後の最後に残されたプライドが、ズタボロになってしまいそうだった。
子どもっぽくて、純粋で、馬鹿みたいに高い自分のプライドが、跡形もなく消えてしまいそうだったのだ。
「頼むから・・・・・・頼むから、もう放っておいてください。一人にしてください。私は、誰とも話したくないんです。誰にも、理解してほしくない。何も、分かってほしくない」
あーあ。
こんなに泣きじゃくって、気が狂ったみたいに叫んで・・・・・本当に、ガキっぽい。自分の幼さには、ほとほと呆れてしまう。
でも、もういいんだ。
何も。
何もかも。
「私は・・・・・私はもう、死にたいんです・・・・・・」
俯き、死にたいと嘆く蓮鳥を救うことは、もう誰にも出来なかった。
助ける手段は、ない。
助ける意味も、ない。
彼女に傍にいるのが沖飛鳥以外の人間であったならば、すでに会話を打ち切っている段階だろう。わがままを叫びながら怒る人間に対してコミュニケーションを図ろうとすることほど、愚かなことはない。
「手に負えない」と判断するのも良い。「落ち着いてから話し直そう」と判断するのも良い。「もう好きにさせてやろう」と判断するのも良い。いっそのこと、殺してあげるのが彼女のためであるとも言えるだろう。
出来ることが何もないのならば、何もしない方が良いこともある。声をかけず、そっとしておいてあげるのが、思春期の彼女に対する最善の対応策であるとも判断できるだろう。
だから、沖飛鳥の行動は、あくまでも間違いである。
助ける手段も救う手段もないというのは、彼にとっても同様であるはずなのだが、彼は行動した。なんの根拠もない、正しさの欠片もない、間違った行動をとった。
とても正しく、間違えた。
「ありがとうございます」
沖は言う。
あくまでも、微笑みかける。
苛立ちを覚えてしまうくらいに、微笑む。
「あなたの声が聞けて・・・・本当に良かった」
蓮鳥は、顔を上げない。
別に、上げる必要はない。
「たくさん・・・・たくさん、辛いことがあったんですね。たくさん、苦しい思いをしてきたんですね」
二度と、顔を上げないのかもしれない。
それでも構わない。彼女は、死んでもいいのだから。
「でも・・・あなたの思いを聞けて、本当に良かった。辛さや苦しさをぶつけてくれて、私は本当に嬉しいのです」
こんな言葉は、戯言である。
蓮鳥の本心を一ミリたりとも理解できていないこんなたわごとが、彼女の胸を打つことはない。こんな言葉に、蓮鳥は救われたりしない。
意味のない、言葉の羅列に過ぎない。
沖に、彼女は救えない。
彼女を助けることは、この哀れな老人には出来ないのだ。
「・・・・・あんぱんをどうぞ」
沖はもう一度あんぱんを千切り、蓮鳥に手渡そうとする。
「きっと、元気が出ますよ」
何も出来ないというのに、助ける手段なんてないというのに。
彼は、微笑みかける。
蓮鳥は虚ろな視線のまま、何も考えないまま、あんぱんを奪い取るかのように受け取り、乱暴にかじりついた。
(・・・・・・美味しい)
蓮鳥は救われたわけではない。勇気づけられたわけではないし、生きる気力をわけてもらったということでもない。
ちっとも、これっぽっちも、助けられていない。
けれど、何故だろう。
何故か。
涙が、止まらなかった。
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