亀専門の画家
画家の噂
僕が初めて彼という画家を知ったのは、二週間前のことになる。
高校からの下校途中、隣を歩く友人が声を潜めて話し出したのがきっかけだった。
「ここだけの話、なんだけどさ。友達」
「なんだよ。友人」
その切り出し方から始まる話が、本当の意味での『ここだけの話』だったことなど一度もなかったけれど、僕は耳を傾ける。
彼女が内緒話なんて珍しいと、そう思いながら。
「甲宮仙治って画家、知ってる?」
「こうみや?いや……聞いたことないな。有名な人?」
「ううん。私も、最近知ったばかりなんだ。多分、まだ駆け出しの画家さんなんじゃないかな」
駆け出しの画家か――ならば、聞いたことがないのも当然である。僕は絵画が好きだし、だからこそ高校でも美術部に入っているわけだけれど、無名の画家まで網羅するほどの絵画マニアというわけじゃない。同じく美術部に所属している彼女も、他人の作品に深く興味を示すタイプではないのだけれど……一体、どこからそんな画家の名前を聞いたのだろう。
「知る人ぞ知る画家、って感じなのかな。私も、たまたま噂を聞くまでは名前すら知らなかったんだよねー」
「ふーん……ちなみに参考までに、どんな絵を描く人なんだ?」
「それがね、すごく奇妙な話なんだけど……うーん……信じてもらえるかなぁ?私も、最初に聞いたときは半信半疑だったからなぁ……」
「なんだよ、勿体ぶることないだろ。そんなに変な絵を描く人なのか?」
「変な絵っていうか……うん。まあ、言ってしまえば、甲宮仙治は描く対象を狭く絞っているんだよ」
不意に立ち止まり、彼女は言葉を切る。そこは図らずも、ペットショップの前だった。
最近開店したばかりの、水棲動物を専門に扱うペットショップだ。入ったことはないが、さりげなく店内の様子を窺った感じ、あまりお客さんは入っていないように見える。
無理もない。
こんな田舎町で、そんな特殊なペットショップを開いても、なかなか売り上げは伸びないだろう。
彼女は、お店のウィンドウに置かれた水槽のうちの一つに目を向けながら、続けた。
「彼はね――亀を専門にしている画家なの」
「……亀?」
僕も彼女に倣って、水槽の中を泳ぐ亀のほうを見る。
亀。
爬虫類カメ目に属する――長寿の象徴ともされ、体を覆う固い甲羅が特徴の動物。
液体を入れる底の深い瓶でもなければ、他のどんなカメでもない。
『亀専門の画家』――それを聞いて最初に想像したのは、前人未踏の地でたった一人、永遠と絵を描き続ける仙人のようなイメージだった。膨大な数の亀に囲まれながら、彼らを筆と墨で素朴に表現する男。
……あまりにも現実味のない人物像だが、亀と聞くと、つい、世離れしているイメージが浮かんできてしまうのだ。亀は長寿であるというところから、勝手に神聖視してしまっているのかもしれない。
そんな、亀という生き物だけを描き続ける画家……その拘りに、並々ならぬ執着があるのだろうか。
「興味津々、って感じだね」
僕の顔を覗き込むようにしながら、友人は言う。何かに期待しているかのような、静かな笑みを浮かべている。
「……そう見えるか?」
「うん」
ちらりと、彼女は僕の首元へと視線を向けた。
おっと……いけない。
やれやれと思いながら、僕は首元を触っていた手を下ろす。
また無意識にやってしまっていた……。
僕は、たまに首元の辺りを触ってしまうという癖を持っているのだが、「なんでいつも首触ってるの?喉、痛いの?」と友人に指摘されて以来、気を付けているのだ。ただ、どれだけ気を付けていても、癖というのはそう簡単に消えないらしく、考え事をしたり何かに夢中になっていたりすると、つい首元を触ってしまう。その度に彼女にニヤニヤと笑われてしまうので、本格的に矯正しなければな、と悩んでいるところだ。
いや、しかし、そんな癖は今はどうでもいい。
閑話休題である。
「だって、亀専門って……それで画家の仕事が成り立つのか?亀なんて、種類が数え切れないほどいるってわけでもないだろうに。描き分けるといったって、限界があるだろう?それともその画家先生は、亀研究の権威か何かなのか?」
「矢継ぎ早だねぇ――そう急くなよぉ。友達」
「別に、焦っちゃいないさ。友人」
彼女は戯けるように笑い、僕は肩を竦める。
いつも通りのやりとりだ。
「ま、でも、そう思うのも無理ないよ――いきなり信じられるような話じゃないよね。でも一応、画家として仕事は出来ているみたいだよ。マニアの間では、かなり高額で取引されてる作品もあるみたい」
マニアの間、か。
ならばやはり、ますます眉唾物っぽい。
確かにこれは、懐疑的になってしまう噂だ。亀だけにジャンルを絞って活動する画家――嘘だとすれば極端すぎるし、本当にいるのだとすれば、有名になっていないのが逆に不思議なくらいだ。
「でもやっぱり、そんなのは噂の範疇を出ないわけだろ?絵は確かに存在するんだろうけど、その描き手である甲宮仙治が本当に存在するっていう証拠はないわけだよな?」
「絵が存在する時点で、描き手がいることの証明にはなるんじゃない?」
「いや、そうとは限らないだろう。売れない画家が、話題を生むためにそういう噂を流しただけかもしれない」
「そんなことないよ。甲宮仙治は、確かに存在する」
「……はっきり言うじゃないか。どうしてそこまで――」
「だって私、直接会ったから」
「――え?」
「亀専門の画家、甲宮仙治はね」
この町に、住んでいるんだよ。
彼女があっけらかんとそう言ったのが、二週間前――正確には、二週間と二日前。
その日のことを、僕はほんの少しだけ後悔している。
友人のその言葉がなければ、或いは僕は、亀嫌いにならずに済んだのかもしれなかったから。
高校からの下校途中、隣を歩く友人が声を潜めて話し出したのがきっかけだった。
「ここだけの話、なんだけどさ。友達」
「なんだよ。友人」
その切り出し方から始まる話が、本当の意味での『ここだけの話』だったことなど一度もなかったけれど、僕は耳を傾ける。
彼女が内緒話なんて珍しいと、そう思いながら。
「甲宮仙治って画家、知ってる?」
「こうみや?いや……聞いたことないな。有名な人?」
「ううん。私も、最近知ったばかりなんだ。多分、まだ駆け出しの画家さんなんじゃないかな」
駆け出しの画家か――ならば、聞いたことがないのも当然である。僕は絵画が好きだし、だからこそ高校でも美術部に入っているわけだけれど、無名の画家まで網羅するほどの絵画マニアというわけじゃない。同じく美術部に所属している彼女も、他人の作品に深く興味を示すタイプではないのだけれど……一体、どこからそんな画家の名前を聞いたのだろう。
「知る人ぞ知る画家、って感じなのかな。私も、たまたま噂を聞くまでは名前すら知らなかったんだよねー」
「ふーん……ちなみに参考までに、どんな絵を描く人なんだ?」
「それがね、すごく奇妙な話なんだけど……うーん……信じてもらえるかなぁ?私も、最初に聞いたときは半信半疑だったからなぁ……」
「なんだよ、勿体ぶることないだろ。そんなに変な絵を描く人なのか?」
「変な絵っていうか……うん。まあ、言ってしまえば、甲宮仙治は描く対象を狭く絞っているんだよ」
不意に立ち止まり、彼女は言葉を切る。そこは図らずも、ペットショップの前だった。
最近開店したばかりの、水棲動物を専門に扱うペットショップだ。入ったことはないが、さりげなく店内の様子を窺った感じ、あまりお客さんは入っていないように見える。
無理もない。
こんな田舎町で、そんな特殊なペットショップを開いても、なかなか売り上げは伸びないだろう。
彼女は、お店のウィンドウに置かれた水槽のうちの一つに目を向けながら、続けた。
「彼はね――亀を専門にしている画家なの」
「……亀?」
僕も彼女に倣って、水槽の中を泳ぐ亀のほうを見る。
亀。
爬虫類カメ目に属する――長寿の象徴ともされ、体を覆う固い甲羅が特徴の動物。
液体を入れる底の深い瓶でもなければ、他のどんなカメでもない。
『亀専門の画家』――それを聞いて最初に想像したのは、前人未踏の地でたった一人、永遠と絵を描き続ける仙人のようなイメージだった。膨大な数の亀に囲まれながら、彼らを筆と墨で素朴に表現する男。
……あまりにも現実味のない人物像だが、亀と聞くと、つい、世離れしているイメージが浮かんできてしまうのだ。亀は長寿であるというところから、勝手に神聖視してしまっているのかもしれない。
そんな、亀という生き物だけを描き続ける画家……その拘りに、並々ならぬ執着があるのだろうか。
「興味津々、って感じだね」
僕の顔を覗き込むようにしながら、友人は言う。何かに期待しているかのような、静かな笑みを浮かべている。
「……そう見えるか?」
「うん」
ちらりと、彼女は僕の首元へと視線を向けた。
おっと……いけない。
やれやれと思いながら、僕は首元を触っていた手を下ろす。
また無意識にやってしまっていた……。
僕は、たまに首元の辺りを触ってしまうという癖を持っているのだが、「なんでいつも首触ってるの?喉、痛いの?」と友人に指摘されて以来、気を付けているのだ。ただ、どれだけ気を付けていても、癖というのはそう簡単に消えないらしく、考え事をしたり何かに夢中になっていたりすると、つい首元を触ってしまう。その度に彼女にニヤニヤと笑われてしまうので、本格的に矯正しなければな、と悩んでいるところだ。
いや、しかし、そんな癖は今はどうでもいい。
閑話休題である。
「だって、亀専門って……それで画家の仕事が成り立つのか?亀なんて、種類が数え切れないほどいるってわけでもないだろうに。描き分けるといったって、限界があるだろう?それともその画家先生は、亀研究の権威か何かなのか?」
「矢継ぎ早だねぇ――そう急くなよぉ。友達」
「別に、焦っちゃいないさ。友人」
彼女は戯けるように笑い、僕は肩を竦める。
いつも通りのやりとりだ。
「ま、でも、そう思うのも無理ないよ――いきなり信じられるような話じゃないよね。でも一応、画家として仕事は出来ているみたいだよ。マニアの間では、かなり高額で取引されてる作品もあるみたい」
マニアの間、か。
ならばやはり、ますます眉唾物っぽい。
確かにこれは、懐疑的になってしまう噂だ。亀だけにジャンルを絞って活動する画家――嘘だとすれば極端すぎるし、本当にいるのだとすれば、有名になっていないのが逆に不思議なくらいだ。
「でもやっぱり、そんなのは噂の範疇を出ないわけだろ?絵は確かに存在するんだろうけど、その描き手である甲宮仙治が本当に存在するっていう証拠はないわけだよな?」
「絵が存在する時点で、描き手がいることの証明にはなるんじゃない?」
「いや、そうとは限らないだろう。売れない画家が、話題を生むためにそういう噂を流しただけかもしれない」
「そんなことないよ。甲宮仙治は、確かに存在する」
「……はっきり言うじゃないか。どうしてそこまで――」
「だって私、直接会ったから」
「――え?」
「亀専門の画家、甲宮仙治はね」
この町に、住んでいるんだよ。
彼女があっけらかんとそう言ったのが、二週間前――正確には、二週間と二日前。
その日のことを、僕はほんの少しだけ後悔している。
友人のその言葉がなければ、或いは僕は、亀嫌いにならずに済んだのかもしれなかったから。
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