名無しの(仮)ヒーロー

海月三五

和を以て貴しとなす 5

 
 本当は、朝倉先生に亡くなった奥様の事を聞きたかった。でも、その事を聞いたら真由美さんから教えてもらった事が分かってしまうから、どうしていいのかわからない。でも、気持ちが重たかった。

「今日、用意してくださったベビーベッドって、どなたかの御下おさがりなんですか?」
 思い切って聞いてみると、朝倉先生は優しい笑顔で返事をした。
「甥や姪が使ったものなんだ」
 その言葉にホッとする。けれど、これ以上突っ込んで聞く事も出来なくなってしまう。

「夏希さん、真由美から何か言われた?」

「えっ?」

「さっき、泣きそうな顔をして無理に笑っていたから……心配事があるなら言ってほしい。二人で解決していこうよ」
 朝倉先生は、私の手を取り手の甲に口づけをした。

「翔也先生」
 私は焦って手を引いたが、朝倉先生は手を離してくれない。

「夏希さんの心に何が引っ掛かっている?」
 手を握られたまま、真っ直ぐに見つめられてそんなことを言われたら逃れるなんて出来ない。

「あの、翔也先生の奥様が事故に遭われてお亡くなりになったと伺いました」
 
 その言葉を聞いて、朝倉先生の眉がピクリと動き、はぁーっと大きく息を吐いた。
「夏希さん。今日は、その話もするつもりだったんだ。姉貴が来てメチャクチャになってしまって、すまなかった」

 「いいえ」と首を振った。

「聞いてもらってもいいかな?」

 私が頷くと朝倉先生は窓の外に視線を送り、ゆっくりと話し出した。

「私は、以前結婚していて、その結婚生活が突如として終わりを告げたのは、4年前。今日みたいに晴れて青空が広がっている日だった。彼女が買い忘れがあるから近くのコンビニまで行くと言って部屋を出て行った。
 しかし、何時まで待っても彼女は帰って来ない。彼女は、コンビニ手前の交差点で暴走車に轢かれ事故に遭ってしまった。私が警察からの電話で病院に駆け付けた時には、既に彼女もお腹の子供も冷たくなっていた」

 朝倉先生は、眉根を寄せて瞼を閉じた。
 私は掛ける言葉が見つからず、朝倉先生と重なる手に力を込めた。
 朝倉先生は、その手を見つめ話しを続ける。

「何故、あの時、一緒に行かなかったのか、一緒に行っていたら彼女もお腹の子も助かったのではないかと自身を責め、自暴自棄になってしまった。姉たちにも随分と心配を掛けたと思う。どうにか立ち直ったけれど、心の中は、冷え切ってしまっていたんだ。何を聞いても、何を見ても気持ちが動かない日々が何年も続いていた」

 朝倉先生は、私が握る手に空いているもう片方の手を重ねた。温かい大きな手が私を包む。
 
「去年の12月夏希さんに出会って、私の世界がひっくり返った」

「私?」

「そう、フラフラと車道に出て行く夏希さんを支えたあの時。まさか、出産に付き合う事になるとは思わなかったよ」
 と、朝倉先生は思い出したように微笑んだ。
 つられて私もフッと緊張が緩む。

「すいません。とんでもない事になってしまって、衝撃的でしたよね」

「確かに、衝撃的だった。冷えた心の中に温かな光が差し込んだ気がした。美優ちゃんの誕生は私にとって天使が舞い降りた感じだったよ。生命の神秘。命の尊さ。色々な事を一度に教えてもらった。そして、私の心が再び動き出したんだ」

 朝倉先生が、以前に美優の事を「天使だよ」と言っていたのを思い出した。


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