シュガーレス・レモネード

umekob.

第32話 甘いと錯覚していただけ

 遊園地で綾人くんが襲われた、あの日。
 後ほど駆けつけた雷蔵くんが呼んだ警察と救急車によって、意識のない綾人くんは病院に搬送された。
 私は警察で聴取を受ける事になり、もちろん加害者であるアイジは取り調べの末に勾留される事に。真奈美さんは聴取の際に「私は無関係よ! あの男が勝手にやったの!」と頑なに彼との関与を否認し、ヒステリックに喚いていたとの事だ。
 結果、私は被害者の一人としてすぐに解放され、今では仕事にも無事に復帰出来ている。真奈美さんの悪事は瞬く間に社内で広まり、同僚からは「大変だったね」「困ってるなら相談してよ〜」と上辺だけの労いの言葉を何度もかけられた。
 それらに苦笑いを返す事にもとうに慣れ、あの日から五日が経過した今。
 まだ、綾人くんの意識は戻っていない。
「──まさか、綾人さんがこんな形でまた世間に注目浴びるとは思わねーよな」
 そう呟いた隣の佐伯くんに、私はそっと視線を落とした。
『ライムライト・アヤト、遊園地で襲われ意識不明』
 例の事件は、そんなタイトルでネットニュースに取り上げられた。その場に雷蔵くんも居合わせていたという事もあり、世間には再び『ライムライトのライゾーとアヤト』という名前が広まったのだ。
 ネット上では同情の声と共に、彼らの代表曲である『シュガーレス・レモネード』の動画のリンクが飛び交った。もちろん楽曲のダウンロード数や動画の再生数は更に増えたが、雷蔵くんは「こんな事で再生数伸びても嬉しくねー……」と肩を落とし、曲作りも今は中断しているという。
「……綾人さん、容態はどうなの」
 ややあって聞きにくそうに尋ねた佐伯くんに、私は小さくかぶりを振る。
「後頭部を木材で強く殴られてたみたいで、出血も多かったから……目を覚ましても、もしかしたら、何らかの後遺症が残るかもって……」
 俯き、両手を握り合わせて力を篭める。熱を帯びた目尻を誤魔化すように瞬きを繰り返して、私は強引に口角を上げようとした。けれど、うまくいかない。
「私が、あの時……綾人くんの怪我が酷い事にもっと早く気付いて、すぐに救急車を呼んであげてたら……こんな事にならなかった……」
「……今更そんな事言っても、どうしようもねえだろ」
「でも……」
「六藤は悪くない。悪いのは殴ったヤツだけだ。綾人さんは絶対目ぇ覚ますよ。こんないい女放っといて、いつまでも呑気に寝てられるわけねーじゃん」
 な、と微笑み、くしゃりと髪を撫ぜる手。途端に涙が溢れそうになったが、込み上げたそれは意地で耐えて弱音と共に飲み込んでしまった。
 こくり、顎を引いて唇を噛む。私が辛い現実から逃げてしまいたくなる時、優しく受け止めて背中を押してくれるのは、いつも佐伯くんだ。
「あのね、私……佐伯くんが同期でよかったなって、今すごく思う」
 その目を見てはっきりと伝えれば、彼はいつもと変わらない笑顔を浮かべる。直後、私のスマホは不意に着信を報せた。
「あ……ごめん、電話」
「ん」
 一言断りを入れてスマホの画面に視線を落とせば、そこには先日連絡先を交換したばかりの雷蔵くんの名前が表示されている。
「はい、もしもし──」
 しかしそう口火を切る前に、彼の声は鼓膜を叩いた。
『檸檬ちゃん!! 大変や!!』
「っ、え!? 何、」
『目ェ覚めた!! アヤヤ!!』
 大声で叫ばれ、きんと強い耳鳴りに襲われる。が、それ以上に告げられた言葉の衝撃と歓喜が胸を震わせた。
「ええっ!?」
『はよぃ! 普通に元気やでコイツ!』
「わ、分かった! すぐ行きます!」
 電話を切り、すぐさま佐伯くんに「綾人くんが起きたって!」と報告する。すると彼もぱっと表情を綻ばせ、「おおお!」と声を上げた。
「マジか! 早く顔見せに行ってやれよ!」
「うん! 部長に早退するって伝えてくる!」
 満面の笑みで立ち上がり、空き缶をゴミ箱に捨てた私は迷いなく走り出す。
 たった五日間、一週間にも満たない短い間、彼と会話をしていないというだけなのに。まるで何年も離れ離れだった人に再会するかのような強い高揚感が胸を満たしていた。
 私はすぐに会社を早退し、電車に乗り込んで病院へと向かう。もう何度もお見舞いに訪れた通路を早足で進んで、逸る気持ちを抑えながら、やがてついに病室の扉を開けた。
「──綾人くんっ!」
「あ、来た! 檸檬ちゃん!」
 先程連絡をくれた雷蔵くんと病院の先生がまず私を出迎え、次にきょとんと瞳をしばたたいている綾人くんの姿を視界が捉える。しっかりと起き上がって意識があるその様子に、私はどっと安堵してその場に力なくしゃがみ込んだ。
「……っ……はあ~……! 良かったぁぁ~……っ」
「わはは! 俺と同じよーな反応しとるな!」
「だって、ほんとに……心配だったんだもん……!」
 思わず涙声になる中、雷蔵くんも赤くなった目尻を緩めて「ほんと、心配させたわりにコイツの第一声何やったと思う? 『水飲みたい』やで」と肩を竦めながらも安堵した表情を浮かべていた。
 どうやら意識はハッキリしているらしく、筋肉の動きや健康面の異常も見当たらず、言語障害なども特にないようで。医師いわく「順調に快方に向かっていますね」との事だった。その言葉にますます胸を撫で下ろす。
「本当に……良かった……」
「な〜! ほんま人騒がせな……アヤヤ、お前ちゃんと謝れよ! 檸檬ちゃんが一番心配しとったんやぞ!」
「そうだよ、本当に心配だったんだから……!」
 立ち上がり、彼を正面から見つめる。しかし綾人くんの反応は思ったよりも薄く、「え? ああ、うん……」と実に素っ気ないものだった。
 困惑した表情で不思議そうにこちらを見つめるその様子に、私は妙な胸騒ぎを覚える。
「……? 綾人くん……?」
 呼びかけるが、やはり反応は微妙。ややあって綾人くんは怪訝そうに眉根を寄せ、「……なあ、雷蔵」と雷蔵くんに視線を移した。
 私を一瞥するその目は、まるで不審なものでも眺めているかのようで。やはり嫌な胸騒ぎがして、私は息を詰める。
「この人さ……」
「……?」
「──誰?」
 そうして告げられた一言は、あまりにも強い衝撃となって私の頭を殴打した。見開いた瞳。血の気が引いて、生唾を飲み込む音までも鮮明に己の耳に届く。
 その場の全員がたちまち言葉を詰まらせ、しん、と静寂に包まれた病室。最初にその沈黙を破ったのは雷蔵くんで、彼は頬を引きつらせながら「……は? お、お前、何言っとん? 冗談きついわ〜」と強引に破顔した。
「いつまでも寝ぼけとんなよ、ほーらよく見ろ! どう見ても檸檬ちゃんやん、檸檬ちゃん! お前の初恋の人やろ?」
「……? れもん……? 初恋……?」
「わはは、なーにオモロない小ボケかましとんねん! ほら、六藤 結衣ちゃんやって! お前、ずっと好きやったんやろ? 小学生の頃からずっと!」
「……むとう、ゆい……」
 私の名前を不思議そうに復唱する綾人くん。しかしそれでも彼の瞳の奥は困惑を色濃く浮かべ、ぐらりと戸惑いに揺らいでいる。
 しばらくして「誰、それ……」と再び紡がれた言葉が、私の心に小さくヒビを入れた。
「全然、分かんない……俺、女とかあんまり興味ないし……」
「は……はあ!? いい加減にせえよお前! 六藤 結衣やぞ!? お前が学生の時、ずっと好きやって言いよった初恋の──」
「ごめん雷蔵、さっきからずっと何言ってんの? ……俺、好きな人とかいた事ないけど」
 ぱきん、と。今度こそ胸の奥には大きな亀裂が入る。
 散らばる見えないビーズの粒が、踏み砕かれて粒子のように消えていく。
 雷蔵くんは絶句し、目を見開いて私の顔を見つめた。やがて「は? 嘘やん……」と呟いた彼は、病室の机に置かれていた檸檬の飴玉を咄嗟に手に取って綾人くんに握らせる。
「……これ! これやで!? お前、気ぃ失っても大事にこの飴玉だけは握り締めとったやろ!! しょーもない冗談やめぇや!!」
「……? 何これ……檸檬の飴……?」
「そうや! お前がずーっと前から、『初恋の人から貰ったお守り』や言うて肌身離さず持っとったヤツやぞ! 毎日家でこれ食っとったやろ!」
「は? 何で? そんなわけなくない? だって、俺──」
 ころり、彼の手の中から飴玉が落ちる。
 白いシーツの上に転がった、まあるい檸檬色。
 私と君を十年以上も繋いでいた唯一のもの。
 けれど甘いと思い込んでいた恋心は、色味を無くして無糖に戻る。
 恋愛がわからないとうそぶいて私と口付けを繰り返していた君は、あの飴玉の痺れる酸味を、甘いと錯覚していただけなのだ。
「──檸檬なんか、好きじゃないし」
 私が過去に彼の胸を貫いたその言葉は、十年の時を経て、そっくりそのまま私の心を深く抉り抜いた。

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