シュガーレス・レモネード
第20話 メイビー・アイラブユー
綾人。
綾人さん。
アヤくん。
アヤちゃん。
スマホのメモ帳アプリに書き記したいくつかの名前をじっと眺め、私は眉間に深くシワを刻む。
「……んん……なんか、どれも呼ぶの恥ずかしいなあ……やっぱり『綾人くん』って呼ぶのが自然な気がする……」
険しい表情のまま、ピ、と社員証をゲートにかざし、いつも通りに出社する午前九時。
綾人くんの家から会社までの最短ルートがいまいち分からず、右往左往しているうちに時間ギリギリでの出社になってしまったがどうにか無事に辿り着けた。
なんとか朝礼前に席につき、ふうと安堵の息を吐く。
(危なかったー。綾人くん家の近くのバス停から出るバスの本数、意外と少ないんだなあ、気をつけよ……)
今度は少し早めに出なくちゃ、と心に決め、私はスマホをデスク上に伏せると普段通りにパソコンを開いた。
しかしその時ふと、どこからともなく視線を感じて再び顔を上げる。
「……?」
視界に捉えたのは、同じ部署内の女性社員。何人かで寄せ固まり、ちらちらと私の事を見ていた。けれどいざ視線が交わると、すぐにその目が逸らされる。
ひそひそ、何かを耳打ちし合った彼女達はそのままどこかへと散って行った。
「……? 何……?」
眉根を寄せ、訝ったのも束の間。また別の視線が背中に突き刺さる。嫌な予感を感じつつ振り向けば、やはり何人かの女性社員が私を見ていた。
案の定、目が合うと顔を逸らされ、何事も無かったかのようにパソコンと向き合う彼女達。隣の部署からも似たような視線を感じ、私はいよいよこれが自惚れや勘違いではないと悟る。
……私、多分いま、ものすごく注目されてる。
おそらく悪い方面の意味で。
(え、何で……? もしかして私、何かやばいミスとかしたのかな……ギリギリ遅刻はしてないと思うけど……)
一抹の不安が胸を覆う中、程なくして朝礼が始まった。何らかのミスを指摘されるのではないかと怯えていた私だったが、部長からは特に何のお咎めもない。
だがその後もやはり背中にはいくつかの視線をひしひしと感じて、私は言いようのない居心地の悪さを感じたまま、午前中の業務を終えたのだった。
「何なんだろ……」
不気味な視線を浴び続けているうちに、あっという間に時刻はお昼。どうやら仕事のミスをしたわけではないらしいが、午後になっても自分が注目を浴びている理由がはっきりと分からず、肩を落として溜息をこぼした。
気落ちしたまま財布を手に取り、コンビニにお昼でも買いに行こうと席を立つ。何事もなければいいけれど……と些か懸念しつつ通路に出れば、不意に「六藤!」と小声で呼び止められた。
振り向けば、周囲の様子を窺いながら近付いてくる佐伯くんと目が合う。
「あれ、佐伯くん? どうし──」
「ちょっと来い!」
「……え!? ちょ、ちょっと!」
突然私の手を握り取った佐伯くんは、有無も言わさず腕を引いて私をどこかへ連れて行く。わけも分からずついて行った先は資料室で、ますます意味がわからず首を傾げた。
「も、もう……急に何なの? びっくりするじゃん……」
困惑しながら問うが、佐伯くんはまだ私の手を離さない。どこか張り詰めた空気に息を呑み、「さ、佐伯くん……?」と恐る恐る声をかければ、ようやく彼は振り向いた。
「おい、六藤……お前、あの噂本当か?」
「……噂?」
何それ? と眉を顰める。すると彼は「知らねえの……?」と険しい表情で問い掛け、ややあって言いにくそうに声を潜めた。
「……お前の噂だよ。他の部署にまで広まってんぞ」
「え……!? な、何それ……どんな?」
「それは……」
佐伯くんは一瞬目を逸らし、気まずそうに言い淀む。嫌な予感が胸に蔓延る中、彼は続けた。
「……お前が、か弱いフリして男誑かして、何股もかけて遊んでるって」
「は!?」
「なんか、そんな噂が出回ってるんだよ。出処は分かんねえけど……違うよな? お前、そういうタイプじゃないだろ?」
「あ、当たり前でしょ! 男遊びなんてしてない! そんなデタラメの噂、誰が──」
そこまで言いさして、ふと脳裏を駆けたのは先日の男。『この事は真奈美ちゃんに報告しとくから』と捨て台詞を吐いて消えた彼の事を思い出し、「まさか、真奈美さんが……?」と焦燥に駆られる。
佐伯くんは眉根を寄せ、「真奈美さん? 心当たりあんの?」と声を低めた。私は即座にかぶりを振る。
「か、確信はないけど……でも、本当に浮気なんてしてない! そもそも私、彼氏だっていないし……!」
「……夜な夜な男を家に持ち帰って、朝まで遊んでるってのは?」
「それも誤解だよ! そんな事するわけない! だって私は、ずっと綾人くんの事が……!」
つい彼の名を口走って、ハッと言いかけた言葉を飲む。視線を泳がせて口元を押さえ、「あ、綾人くんの、事が……?」と戸惑いながら繰り返した私は、きんと耳鳴りがしそうなほどの痛い沈黙に耐えきれず俯いた。
黙り込んだ私を見下ろし、佐伯くんは掴んでいた私の手を緩やかに離す。
「……綾人さん?」
「……」
「あの人になんかされた? ヤリ捨てられたとか?」
「ち、違、う……そうじゃなくて、私……」
どくどくと、心臓が激しく脈を打つ。声が震えて、思考回路がぐちゃぐちゃに絡まって、うまく物事の処理が追いつかない。
綾人くんの事が──何? 何を言おうとしたの、私。
戸惑って足元を見つめたまま、私の口からは何の言葉の続きも出てこない。そんな私を見下ろした佐伯くんは、しばらく続いていた沈黙を不意に打ち破った。
「……それとも、本気で好きになった? あの人の事」
紡がれた問いを耳が拾い上げ、胸がきゅうと締め付けられる。答えを返す事が出来ず、やがておずおずと顔をもたげれば、なんとも言えない複雑な表情をした佐伯くんの口元が呆れたような笑みを描いた。
「……うわー、何ソレ。お前、なんちゅう顔してんだよ」
「……」
「今、お前、完っ全に……恋する乙女の顔なんですけど……」
からかうように、されど心做しか切なげに呟いて、佐伯くんは私の頬に触れる。
その指先がすごく冷たくて、私は思わずぴくりと肩を震わせた。しかし「顔真っ赤だぞ、六藤」と囁かれながら頬を撫でられた事でようやく、彼の指先が冷たいのではなく私の頬が熱を持ち過ぎているのだと理解する。
佐伯くんはへらりと力なく破顔し、とんと私の肩に額を預けた。
「……っ」
「……そんな顔になるぐらい好きなん? わー、やば……やっぱ分かりやす~、六藤って……」
「さ、佐伯くん……?」
「なんか、おかしいな……謎にヘコんだ、俺……。シャンプーの匂いがいつもと違ってメンズの匂いなのも、結構胸にクるわ」
「あ……!」
昨晩使ったのが綾人くんと同じシャンプーである事を思い出し、頬が一層熱を帯びる。けれど弁明しようと口を開いても「いいよ、言い訳しなくて。どうせ昨日も綾人さんと居たんだろ」とすべて見透かされており、結局何も言えず黙り込んでしまった。
佐伯くんは短く笑い、そっと私から離れる。
「……あーあ。なんか、六藤が遠くに行っちまうみたいで、ちょっと嫌だな。勝手に俺が一番近い存在だと思ってたのに」
「……」
「もしかして、けっこー六藤の事好きだったのかも。俺」
不意に投げられた直球な言葉。思いがけないそれに目を見張り、「え……!?」と声を張れば、すぐさま佐伯くんは悪戯に微笑んだ。
「……なーんちって。好きは好きでも、ラブじゃなくてライクの方だよ。アイ・ライク・六藤! 唯一の同期だしな!」
「あ……っ、そ、そう……だよね……?」
「つーか、あの噂が間違いって分かってよかったわ! 安心しろよ、周りの誤解は俺が解いとくから。綾人さんとうまくいくように頑張れよ、応援してる」
佐伯くんは乱雑に私の頭を撫で、「呼び止めてごめんな」と切なげに笑って、そのまま資料室を出て行った。
ぱたん、と扉が閉まり、痛いほどの静寂が訪れる。程なくして、彼にぐしゃぐしゃと乱された茶色い自分の髪がはらりと崩れて視界を遮った。
髪から香るシャンプーの匂い。その香りによって、私の頭の中は再び綾人くんの事でいっぱいになってしまう。
ああ、酷い女だなあ、私。心底嫌な女だ。
今まで一緒にいたのは、佐伯くんなのに。
「……綾人くん……」
それでも私の頭の中は彼の事ばかりを考えてしまって、もうどうしようもないと諦めるしかなかった。
十年前の、あの日から。
本当はとっくに気付いていた、檸檬色に色付く淡い酸味の感情の名前。
「私は、ずっと、綾人くんの事が……」
甘みなどあるはずもないと言い聞かせ、一度は丸めて捨ててしまった〝不良品〟のそれを──私はいつのまにか、再び拾い上げていたのだ。
綾人さん。
アヤくん。
アヤちゃん。
スマホのメモ帳アプリに書き記したいくつかの名前をじっと眺め、私は眉間に深くシワを刻む。
「……んん……なんか、どれも呼ぶの恥ずかしいなあ……やっぱり『綾人くん』って呼ぶのが自然な気がする……」
険しい表情のまま、ピ、と社員証をゲートにかざし、いつも通りに出社する午前九時。
綾人くんの家から会社までの最短ルートがいまいち分からず、右往左往しているうちに時間ギリギリでの出社になってしまったがどうにか無事に辿り着けた。
なんとか朝礼前に席につき、ふうと安堵の息を吐く。
(危なかったー。綾人くん家の近くのバス停から出るバスの本数、意外と少ないんだなあ、気をつけよ……)
今度は少し早めに出なくちゃ、と心に決め、私はスマホをデスク上に伏せると普段通りにパソコンを開いた。
しかしその時ふと、どこからともなく視線を感じて再び顔を上げる。
「……?」
視界に捉えたのは、同じ部署内の女性社員。何人かで寄せ固まり、ちらちらと私の事を見ていた。けれどいざ視線が交わると、すぐにその目が逸らされる。
ひそひそ、何かを耳打ちし合った彼女達はそのままどこかへと散って行った。
「……? 何……?」
眉根を寄せ、訝ったのも束の間。また別の視線が背中に突き刺さる。嫌な予感を感じつつ振り向けば、やはり何人かの女性社員が私を見ていた。
案の定、目が合うと顔を逸らされ、何事も無かったかのようにパソコンと向き合う彼女達。隣の部署からも似たような視線を感じ、私はいよいよこれが自惚れや勘違いではないと悟る。
……私、多分いま、ものすごく注目されてる。
おそらく悪い方面の意味で。
(え、何で……? もしかして私、何かやばいミスとかしたのかな……ギリギリ遅刻はしてないと思うけど……)
一抹の不安が胸を覆う中、程なくして朝礼が始まった。何らかのミスを指摘されるのではないかと怯えていた私だったが、部長からは特に何のお咎めもない。
だがその後もやはり背中にはいくつかの視線をひしひしと感じて、私は言いようのない居心地の悪さを感じたまま、午前中の業務を終えたのだった。
「何なんだろ……」
不気味な視線を浴び続けているうちに、あっという間に時刻はお昼。どうやら仕事のミスをしたわけではないらしいが、午後になっても自分が注目を浴びている理由がはっきりと分からず、肩を落として溜息をこぼした。
気落ちしたまま財布を手に取り、コンビニにお昼でも買いに行こうと席を立つ。何事もなければいいけれど……と些か懸念しつつ通路に出れば、不意に「六藤!」と小声で呼び止められた。
振り向けば、周囲の様子を窺いながら近付いてくる佐伯くんと目が合う。
「あれ、佐伯くん? どうし──」
「ちょっと来い!」
「……え!? ちょ、ちょっと!」
突然私の手を握り取った佐伯くんは、有無も言わさず腕を引いて私をどこかへ連れて行く。わけも分からずついて行った先は資料室で、ますます意味がわからず首を傾げた。
「も、もう……急に何なの? びっくりするじゃん……」
困惑しながら問うが、佐伯くんはまだ私の手を離さない。どこか張り詰めた空気に息を呑み、「さ、佐伯くん……?」と恐る恐る声をかければ、ようやく彼は振り向いた。
「おい、六藤……お前、あの噂本当か?」
「……噂?」
何それ? と眉を顰める。すると彼は「知らねえの……?」と険しい表情で問い掛け、ややあって言いにくそうに声を潜めた。
「……お前の噂だよ。他の部署にまで広まってんぞ」
「え……!? な、何それ……どんな?」
「それは……」
佐伯くんは一瞬目を逸らし、気まずそうに言い淀む。嫌な予感が胸に蔓延る中、彼は続けた。
「……お前が、か弱いフリして男誑かして、何股もかけて遊んでるって」
「は!?」
「なんか、そんな噂が出回ってるんだよ。出処は分かんねえけど……違うよな? お前、そういうタイプじゃないだろ?」
「あ、当たり前でしょ! 男遊びなんてしてない! そんなデタラメの噂、誰が──」
そこまで言いさして、ふと脳裏を駆けたのは先日の男。『この事は真奈美ちゃんに報告しとくから』と捨て台詞を吐いて消えた彼の事を思い出し、「まさか、真奈美さんが……?」と焦燥に駆られる。
佐伯くんは眉根を寄せ、「真奈美さん? 心当たりあんの?」と声を低めた。私は即座にかぶりを振る。
「か、確信はないけど……でも、本当に浮気なんてしてない! そもそも私、彼氏だっていないし……!」
「……夜な夜な男を家に持ち帰って、朝まで遊んでるってのは?」
「それも誤解だよ! そんな事するわけない! だって私は、ずっと綾人くんの事が……!」
つい彼の名を口走って、ハッと言いかけた言葉を飲む。視線を泳がせて口元を押さえ、「あ、綾人くんの、事が……?」と戸惑いながら繰り返した私は、きんと耳鳴りがしそうなほどの痛い沈黙に耐えきれず俯いた。
黙り込んだ私を見下ろし、佐伯くんは掴んでいた私の手を緩やかに離す。
「……綾人さん?」
「……」
「あの人になんかされた? ヤリ捨てられたとか?」
「ち、違、う……そうじゃなくて、私……」
どくどくと、心臓が激しく脈を打つ。声が震えて、思考回路がぐちゃぐちゃに絡まって、うまく物事の処理が追いつかない。
綾人くんの事が──何? 何を言おうとしたの、私。
戸惑って足元を見つめたまま、私の口からは何の言葉の続きも出てこない。そんな私を見下ろした佐伯くんは、しばらく続いていた沈黙を不意に打ち破った。
「……それとも、本気で好きになった? あの人の事」
紡がれた問いを耳が拾い上げ、胸がきゅうと締め付けられる。答えを返す事が出来ず、やがておずおずと顔をもたげれば、なんとも言えない複雑な表情をした佐伯くんの口元が呆れたような笑みを描いた。
「……うわー、何ソレ。お前、なんちゅう顔してんだよ」
「……」
「今、お前、完っ全に……恋する乙女の顔なんですけど……」
からかうように、されど心做しか切なげに呟いて、佐伯くんは私の頬に触れる。
その指先がすごく冷たくて、私は思わずぴくりと肩を震わせた。しかし「顔真っ赤だぞ、六藤」と囁かれながら頬を撫でられた事でようやく、彼の指先が冷たいのではなく私の頬が熱を持ち過ぎているのだと理解する。
佐伯くんはへらりと力なく破顔し、とんと私の肩に額を預けた。
「……っ」
「……そんな顔になるぐらい好きなん? わー、やば……やっぱ分かりやす~、六藤って……」
「さ、佐伯くん……?」
「なんか、おかしいな……謎にヘコんだ、俺……。シャンプーの匂いがいつもと違ってメンズの匂いなのも、結構胸にクるわ」
「あ……!」
昨晩使ったのが綾人くんと同じシャンプーである事を思い出し、頬が一層熱を帯びる。けれど弁明しようと口を開いても「いいよ、言い訳しなくて。どうせ昨日も綾人さんと居たんだろ」とすべて見透かされており、結局何も言えず黙り込んでしまった。
佐伯くんは短く笑い、そっと私から離れる。
「……あーあ。なんか、六藤が遠くに行っちまうみたいで、ちょっと嫌だな。勝手に俺が一番近い存在だと思ってたのに」
「……」
「もしかして、けっこー六藤の事好きだったのかも。俺」
不意に投げられた直球な言葉。思いがけないそれに目を見張り、「え……!?」と声を張れば、すぐさま佐伯くんは悪戯に微笑んだ。
「……なーんちって。好きは好きでも、ラブじゃなくてライクの方だよ。アイ・ライク・六藤! 唯一の同期だしな!」
「あ……っ、そ、そう……だよね……?」
「つーか、あの噂が間違いって分かってよかったわ! 安心しろよ、周りの誤解は俺が解いとくから。綾人さんとうまくいくように頑張れよ、応援してる」
佐伯くんは乱雑に私の頭を撫で、「呼び止めてごめんな」と切なげに笑って、そのまま資料室を出て行った。
ぱたん、と扉が閉まり、痛いほどの静寂が訪れる。程なくして、彼にぐしゃぐしゃと乱された茶色い自分の髪がはらりと崩れて視界を遮った。
髪から香るシャンプーの匂い。その香りによって、私の頭の中は再び綾人くんの事でいっぱいになってしまう。
ああ、酷い女だなあ、私。心底嫌な女だ。
今まで一緒にいたのは、佐伯くんなのに。
「……綾人くん……」
それでも私の頭の中は彼の事ばかりを考えてしまって、もうどうしようもないと諦めるしかなかった。
十年前の、あの日から。
本当はとっくに気付いていた、檸檬色に色付く淡い酸味の感情の名前。
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