シュガーレス・レモネード

umekob.

第10話 うそつき

 十年前。私と武藤くんの『キスだけ』の関係は、中学の卒業と共に終わりを迎えた。あの日、私と武藤くんの関係は、「さようなら」の一言もなく終わったのだ。
 卒業後はそれぞれ別の高校に進学したため、それ以降は互いに顔を合わせる機会もぱったりとなくなってしまった。きっとこのまま忘れていくのだろうと思っていた。けれど、高校に入学してしばらく経ったある日。私は偶然にも、街の中で武藤くんの姿を発見する。
 視界が捉えたのは、中学時代よりも背が伸び、大人びた彼の横顔。人々が行き交う中で、私の視線は釘付けになったまま動かなかった。手元の携帯を見つめる立ち姿。久しぶりに見たその姿に胸が締め付けられ、時間が一瞬止まったような気がした。
 私の存在には気が付いていないらしく、声をかけるべきか些か躊躇う。しかしやがて私は意を決し、からからに渇いた喉から声を絞り出した。
『……む、武藤く──』
『ごめん綾人くんっ! 待った?』
 だが、直後。私の発しかけた言葉を遮り、響いたのは可愛らしい声。その場に現れた見知らぬ女の子は武藤くんの腕に絡み付き、密着して微笑む。私は口にしかけた彼の名前を飲み込み、踏み出し始めていた足を止めた。
『ううん。別に。待ってない』
『ほんと? じゃあ行こ! ねえねえ、今日ウチくる? 親いないから何してもいいよ?』
『あー……うん。いいよ』
 耳を塞ぎたくなるような会話を繰り返し、私に気付く様子もなく離れていく武藤くん。人混みの中ですれ違い、知らない女の子と共に遠ざかる背中。その後ろ姿を視界に捉えた瞬間、胸の奥の何かがすっと冷えて凍り付いていく感覚を覚えた。同時に、中学時代の彼の言葉が脳裏を過ぎる。
 ──俺さ、あんまり恋愛ってどんな感じなのか分かんなくて。
 ──人を好きになった事ないの、俺。だから好きって感覚がよくわかんない。
 未完成のまま色を失っていく檸檬色の何かを、私はくしゃりと握り潰した。
『……うそつき』
 裏切られた気持ちが拭いきれず、声もかけずに、私はその場を立ち去ったのだった。

 *

 布擦れの音が耳に届き、私はくぐもった声と共に目を覚ます。さらりと髪を梳かす指先の感覚。「起きた?」と耳元で問われ、私は閉じていた瞼を持ち上げた。
 光を含み、風にそよぐ白いカーテン。見慣れた部屋の中。けれど、隣に寄り添うぬくもりだけがいつもと違う。あたたかいその人は私の頭を撫ぜ、腕の中に私を閉じ込めた状態で口を開いた。
「おはよ」
「……」
「まだ寝る? それとも起きる?」
 抱き寄せられ、霞む視界の中に映り込む端正な顔。私は寝ぼけた頭で状況の把握に努め、けれど触れる指先のぬくもりに安堵して無意識に頬を緩ませる。「何笑ってんの?」と問う声が楽しげに紡がれて、また強く抱き締められた。
 白いシーツは皺になり、密着する身体からは有り余るほど直接的な熱が伝わる。程なくして私の意識はようやく微睡みの中から戻り始め、止まっていた思考も働き始めた。徐々に冷静さを取り戻す頭は少しずつ状況を飲み込み──そして、頬はみるみると熱を帯びる。
 あれ? 私、なんで武藤くんと一緒に寝て──。
「……一緒に寝てるっ!?」
「いっ!?」
 ──ゴツッ!!
 驚いて上体を起こした刹那、鈍い音が響いたと同時に額には強烈な衝撃が走った。思わず頭を押さえて蹲る私。だが、脳内は羞恥心とパニックでそれどころではない。
 昨晩、私達の間で何が起こったのか。一連の出来事がしっかりと理解出来る。今度こそは覚えている。夜の闇に飲まれた寝室の中、ベッドを軋ませながら沈み込んできた彼の熱も。優しく触れる指先も。甘いと錯覚するような口付けも──あ、だめだ。思い出すと心臓が爆発しそう。
「……っ、あ、う、む、武藤くん……っ」
「いってえ……いやいや、いきなり頭突きはなくない? タンコブ出来たかも」
「あ……っ、ご、ごめ……! でも、あの、昨日……っ」
「あれ……昨日の事、ちゃんと覚えてんだ? へー、良かった。また忘れたとか言われんのかと思ってた」
 悪戯に目尻を緩め、武藤くんは私を抱き締める。素肌同士で密着する身体はばくばくと心音を刻み続けており、触れ合うだけで全身から火が出そうだった。
「身体、きつくない? なんか色々と体勢変えたから、腰とか脚に負担かけたかも。ごめん」
 あ、待って。そんな事言わないで。思い出しちゃう。
「でも、すげー気持ちよさそうにしてたね、六藤さん。……可愛かった」
 あああ、本当にやめてください、お願いします! 恥ずかしさで死んじゃいそうなの! 本当に勘弁して!
 そう脳内で絶叫する私などお構い無しに、武藤くんは耳元で何度も甘い言葉を囁く。昨晩の記憶は次から次へと私の羞恥心を煽り、あられもない姿を彼に晒してしまった事に対して激しい後悔が胸の奥に渦巻いていた。
「結衣」
 不意に名前を紡がれ、ただでさえうるさい心臓が大きく跳ねる。異性から下の名前で呼ばれた経験なんて今までほとんどない。慣れないむず痒さに、もはやどんな顔をするのが正解なのか分からなかった。
「こっち見て」
「……む、無理だよ……恥ずかしくて……」
「こっち見ないとまた色々触るよ」
「ひゃ!?」
 腰に置かれていた手が肌の上を滑り、小ぶりな尻を包み込んで撫でる。もったいぶった手つきで焦れったく肌に触れられ、身じろいだ私を武藤くんは満足げに見下ろした。私は変な声が漏れないように唇を噛み、彼の胸を押し返す。
「ば、ばか! もう練習終わり! 離れて! 下の名前呼ぶのも禁止っ!」
「ケチだねー、六藤さん。いいじゃん、結衣って名前可愛くて好きなのに」
「か、からかわないでよ……!」
「からかってないけど……まあいいか。そんな事よりさ、次の〝練習〟の約束も取り付けていい?」
 くすりと微笑み、武藤くんは上機嫌に私の頬を撫でる。また体を重ねる予定を取り付けられるのだろうかと懸念しつつ顔を上げれば、彼は言葉を紡いだ。
「……今週か来週、一緒に出掛けよ」
 やがてそう口火を切った彼は、僅かに目尻を緩めて私の顔を覗き込む。「え……?」と思わず聞き返した私に、武藤くんは続けた。
「デートの練習。どうですか」
「……デート……?」
「そう、デート。俺と二人で出掛けるの嫌?」
 問い掛けられ、私はふるふると首を振る。「よかった」と安堵したように続けて、彼は私から目を逸らした。
「六藤さんさ、俺がただのヤリモクでこの関係続けてると思ってるでしょ」
「……!」
「あ、図星? 傷つくなぁ」
 やや切なげに問い掛けた後、武藤くんは先ほど私が発した言葉に応えるかのように「ヤリモクじゃないよ」と明言した。
「まあ、最初からスタートライン間違えた俺が何言っても説得力ないけど……絶対ヤリモクとかじゃない。これは本当。それだけ、覚えといて」
 再び視線を私へ戻し、武藤くんは優しく頬に口付ける。至極単純な私は、確証もないそんな言葉にたやすく心を躍らせてしまうのだった。
 こんな事、他の女の子にだって言えるに決まってるのに──そう言い聞かせる胸の内で、「もしかして」と顔を出したのはあまりにもおこがましい期待。浮かんだ可能性をどんどん膨らませてしまうそれは、私の胸を踊らせて高鳴らせていくばかり。
「……ねえ、六藤さん」
「……」
「俺と、デート、行ってくれる?」
 どこか控えめに発せられた声は、私に問いを投げ掛けた。とくり、とくり。鼓動はどんどん速まって、顔がみるみる熱くなる。
 変に期待しちゃいけない。分かっているのに、どうしても浮かんだ可能性が消えない。
 自惚れた勘違いをしそうになる心。絶対違う。違うのに。だってこの人は、私になんて興味がないのに。
 ……ねえ、でも、武藤くん。
 少しぐらい、本当にほんの少しぐらいは、もしかして──
(──私の事、好きだったり、する……?)
 チカチカ、光を含むカーテンの隙間から漏れる朝の日差し。君の檸檬色の髪の毛を撫でる優しい風が、絹糸さながらのそれをいつまでも煌めかせて、酷く眩しいと思った。

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