シュガーレス・レモネード

umekob.

第3話 男女の一線

 きっかけは、十年前。中学三年の秋、とある日の放課後。
「──武藤くん、好きです! 付き合ってください!」
 偶然通りかかった空き教室の前で、私は緊張に喉を震わせるそんな声を聞いた。足を止めて教室を覗き込めば、西陽の差し込む窓際にもたれ掛かる武藤くんと、知らない女子生徒の姿。ああ、これは見てはいけないやつだな。すぐにそう察して立ち去ろうとした私だが、武藤くんが彼女の告白に答える方が早かった。
「ごめん。俺、そういうの興味ない」
 ばっさり。表情ひとつ変えずに一蹴した彼。
 女子生徒はもちろん、私まで硬直してしまって、やがて顔を真っ赤に染めた彼女が瞳に涙を浮かべながら教室を出て行く。彼女は私に気が付かなかったようだが、程なくして出てきた武藤くんはすぐに私の姿を見つけた。
「……あれ、六藤さん」
「あ……」
「見てたの? なんか、恥ずかしいとこ見られちゃったな」
 短く笑い、武藤くんは私へと近寄ってくる。今と違って黒髪でピアス穴もなく、幼い顔立ちだった彼。
 告白現場に鉢合わせた事で気まずい私は、「ぐ、偶然見ちゃって……ごめんなさい」とか細く謝った。が、彼は気にする素振りもなく「いいよ」と肩を竦める。
 更には「最低なヤツだと思った?」続けて問われ、私は慌てて首を横に振った。
「そ、そんな事思わないよ! ちょっとびっくりしたけど、恋愛対象って思えない人と付き合うわけにもいかないだろうし、賢明な判断? だと思うし……っ」
「そーだよね。……俺さ、あんまり恋愛ってどんな感じなのか分かんなくて」
「え?」
「人を好きになった事ないの、俺。だから好きって感覚がよくわかんない」
 表情もなく告げた彼に、私は言葉を呑んで目を見張る。正直、意外だった。武藤くんは運動が出来て頭もいい。すごくモテるのだから、恋愛経験も豊富なのだろうと勝手に思っていたのだ。しかしそう考えると、自分とセットで『夫婦』と揶揄されている事がことさら申し訳なく思えた。
「ご、ごめんね! 私と同じ名前なせいで、周りに変なアダ名付けられて、迷惑かけて……」
「え? ああ、シュガーレスなんちゃらの事? 別にそれは気にしてないけど」
「ほ、ほんと? よかった……」
「むしろ、俺の方が気になってた。もし六藤さんに好きな人とかいるんだったら、なんか申し訳ないなって」
 目を逸らしながら続けた彼に、私は慌てて「そんなの居ないよ!」とかぶりを振る。顔をもたげた武藤くんと視線が交わる中、私は続けた。
「私も、恋愛ってあんまりよく分からなくて……! 好きな人なんて出来た事ないの」
「へえ、そうなの? 意外」
「あ、あはは……来年から高校生なのにね。彼氏なんて一生出来る気しないや。私の事なんか、好きになってくれる人いなさそうだし……」
 強引に笑ってみれば、武藤くんは一度口を噤む。けれどまたすぐに口を開いた。
「このままでいいと思う? 俺達」
「へ?」
「この先もずっと恋愛の感覚が分からなかったら、恋人も結婚も一生出来ないかもしれない。このままでいいとは思えなくない?」
「そ、それは、確かに……困る……」
「でしょ?」
 もっともらしい言葉を並べ立て、武藤くんは私を見つめる。オレンジの西陽が差し込む、誰もいない放課後の廊下。茶色みがかった彼の瞳に、私の姿が映っている。
「ねえ、六藤さん。あのさ──」
 十五歳。まだ幼かった、金木犀香るあの秋の日。
 私と彼の〝秘密〟は、その一言から始まった。
「俺と、恋愛の練習しない?」
 〝六藤さんとはよく日直とか一緒になるし、頼みやすい〟──そんな至極単純な理由で、手を繋ぐ所から始まった、『いつか恋をするため』の練習。
 最初こそただ手を繋いで何気ない会話をするだけだった秘密の練習は、徐々に『抱き合う練習』に変わり、最後には『キスをする関係』へと変わっていった。
 放課後、非常階段で。檸檬味の飴玉を彼が噛み砕いたら、それはキスが始まる合図。
 あの頃は、ただ触れ合うだけの稚拙な口付けを繰り返すだけだった。しかし、あれから十年もの歳月が流れた今──カラオケの店内で武藤くんが私に与えた口付けは、あの頃とは比べ物にならないほど荒々しかった。
 くぐもった声と共に吐息が乱れ、わけも分からないうちに口内は檸檬味で満たされる。喉から流し込んだアルコールのせいで何も考えられなくて、熱さと衝動に身を任せて、されるがままに彼の与える檸檬の酸味を舌の上で溶かしていた。
 会いたくなかった。もう忘れてしまいたかった。
 君が与えたあの日の口付けは、今でもまだ、私の胸を縛り続けている。

 *

「──ん……」
 不意に意識が浮上して、私はくぐもった声と共に目を覚ました。重たい瞼を持ち上げ、最初に感じたのは口内に広がる嫌なアルコールの苦味。そして体の節々に残る違和感。
 見覚えのない寝具と知らない装飾が描かれた壁に囲まれ、昼か夜かも分からない締め切られた空間は、薄ぼんやりとオレンジの照明で照らされている。
 あれ、ここ、どこ……?
 まだ覚醒しきっていない思考を少しずつ動かし、気だるい体をゆっくりと起こした。知らない室内の床の上には、見覚えのある服や下着が散らばっていて──。
 そこでようやく意識がはっきりと戻り始め、私はサッと顔を青ざめた。しかしその瞬間、背後から伸ばされた腕が私を包み込んで布団の中へと引き戻す。
「きゃっ!?」
「……どこ行くの」
 ぎしり。柔いベッドが軋み、熱い素肌が直接背中に密着して私の耳には吐息がかかる。思わず上擦った声が漏れた瞬間、かぷりと軽く耳を食まれた。
「え、あ、待って、何……! 武藤くん!?」
 声の主を押し返し、出来うる限りの距離を取って振り返る。やはりそこには武藤くんが横たわっていて、至近距離で私の瞳を見つめていた。表情ひとつ変えずに「おはよ」と告げられ、私は更に困惑する。
「な、何で、武藤くんが隣で寝て……ここ、どこ……?」
「ラブホ」
「ラ……っ、ええ!? 何で!?」
「何でって……一つしかないじゃん。もしかして何も覚えてない?」
 武藤くんの眉根が寄り、私は困惑しつつ恐る恐ると自身の体に視線を落とす。当たり前のように一糸まとわぬまま彼と密着している己の姿に、即刻熱を帯びた頬はみるみる紅潮した。
「う、あ、そ、そんな……! 私、記憶が何も……」
「マジ? そんな酔ってた? なんだ、残念。せっかく可愛かったのに」
「ば、ばかっ! やめてよ! 何言って……っ」
 涼しげな表情でこぼしながらも、彼の瞳は何も身にまとっていない私の肌をじっと見つめている。あまりの恥ずかしさにもはや言葉もまともに出てこず、羽毛布団の中に自身の肌を隠した。
 こういう行為の経験はゼロではないけれど、決して多くもないのだ、私は。酒に酔った勢いでそのまま、なんて事も今までに一度もなかった。どうしたらいいのか全く分からない。
「一応言っておくけど、ちゃんと同意の上だから。覚えてないんじゃ証明のしようがないけど」
「……っ」
「あと、避妊はしたから大丈夫だよ」
 彼が顎でしゃくった先を目で追えば、備え付けの避妊具の包装が放置されていた。封は既に切られて中身のないそれを示しながら告げる武藤くんに頬は一層熱を帯び、「そういう問題じゃない……」と縮こまる。
「わ、私……っ、帰る……!」
 ややあってようやく声を絞り出せば、武藤くんは私の体を引き寄せてぴとりと首筋に頬を押し付ける。どきりと胸の鼓動を速めた私の耳元で彼は口を開いた。
「まだ始発動いてないよ」
「……っ、た、タクシーで……」
「六藤さん家、前の彼氏と別れて北区に引っ越したばっかりなんだってね。俺もあっち方面だから送るよ、タクシー代出すし」
「えっ、何でそれ知って……!」
「何でって……自分で言ってたんじゃん、昨日。彼氏と別れて引っ越したばっかりでお金なくて〜、って。あ、ホテル代も出すから安心して」
 悪びれる様子もなく言葉を紡ぎ、無防備な首筋に武藤くんの唇が押し付けられる。わざとらしくリップ音を奏でて口付けを繰り返す彼から逃れようとするが、なかなか解放してくれない。このままでは、また流れに任せて抱かれてしまうのではないか──そう危ぶんだ私は、強めに彼の体を押し返した。
「や、やだ! 待って武藤くん……!」
「じゃあ、もう少し一緒に居てよ。じゃないともっと悪戯する」
 指先が肌を掠め、ふるりと体が震えて声が漏れる。「どうする?」と囁く声すら扇情的な色香を帯びて耳が拾い上げてしまい、また弱い首元に顔を埋められたところで、私は耐えきれず白旗を挙げてしまった。
「……っ、わ、分かった! 分かったから! 始発まで、一緒にいるからっ……!」
 叫ぶように告げれば、それまで厭らしく肌の上を伝っていた無骨な手が動きを止める。次いで背後で小さく笑ったような声が漏れた後、「じゃ、もうしばらく一緒に寝よ」と改めて腕の中に閉じ込められた。
 ぴとりと密着する彼の温度が背中から伝わる。ただそれだけでも胸はドキドキしてしまって、こんなの眠れるはずがない。
 愛おしげに抱き寄せる腕と、さらり、首筋に触れる金の髪。むず痒い感覚と共に都合のいい考えが脳裏を過ぎり、それはないだろうと自身を戒める。
「だ、だめだよ、武藤くん……その……カノジョとかいるでしょ? 怒られるよ、こんな事したら……」
 か細く口走った言葉。すると武藤くんは顔をもたげたようで、背後では布が擦れる音がした。
「居ないよ、カノジョとか。つーか他に女いたらこんな事しないでしょ、そもそも」
「……」
「それに俺、いまだに恋愛とかよくわかんないし。女の扱いが下手過ぎて、カノジョなんて全然出来ません」
 ──嘘つき。
 喉元まで出かかったその言葉は、強く奥歯を噛みしめてこくんと自身の内側に飲み込んだ。そっと目を伏せ、「そうなんだ……」とやや低く声を紡ぐ。
 何が、恋愛なんてわからない、なんだか。そんなの全部嘘だったくせに。
 胸の内だけで毒づき、蘇りかけた嫌な記憶に蓋をする。そのまま黙り込んでいれば、彼は私に身を寄せて口を開いた。
「ねえ、六藤さん。あのさ──」
 あの頃よりも低くなった声。けれど、何も変わらない口調。その言葉の続きは、もう何となく察しがついていた。
 ああ、私はまた、都合のいい使い捨ての駒にされるんだろうか。あの頃みたいに。
「あのさ……俺と、また……」
「……」
「恋愛の練習、しない?」
 あの日見た夕焼けの空によく似た、オレンジ色の間接照明の光。それは閉じた瞼の裏にまでしつこく焦げ付いて、出来れば忘れてしまいたかった眩しい蛍火を、チカチカといつまでも散らしていた。

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品