じゃあ俺、死霊術《ネクロマンス》で世界の第三勢力になるわ。
8-1 湯の花
8-1 湯の花
エラゼムと別れると、俺は裏庭の奥へと向かった。狭いと思っていた裏庭だが、よく見ると隅のほうに、細い道が続いている。どうやら、隣の建物との隙間を、無理やり通路にしているみたいだ。肩が擦れそうな道幅を進むと、急にがくんと傾斜がきつくなった。ランタンを高く掲げてみるが、下り坂の先は、闇に覆われて見えない……
「いったい、どこまで続いてるんだ……?」
俺は足の裏に力を込めて、踏ん張りながら坂を下っていった。やがて、坂は別の建物にぶつかって、かくんと九十度左に折れた。角を曲がってさらに進むと、石張りの小さな庭のような場所に出た。あたりには独特な刺激臭……硫黄の匂いが立ち込めている。
「ここが浴場か」
周囲にしきいはなく、代わりによく茂った低木が生け垣として植えられていた。そこに埋もれるようにして、湯気の立つ湯船がある。随分小さいな、池みたいに見えるぞ。大人が二人も入れば、肩が触れ合うだろう。あたりを見回したが、脱衣所のようなものはなかった。というか、風呂らしい設備は何もない。本当に温泉だけだ。上を見上げると、俺たちの部屋と思しきバルコニーの床が見えた。真下に風呂があるだなんて、全然気づかなかったな。
「これって、上から覗かれ放題なんじゃ……」
と思ったが、おそらく角度的に、相当無理をしないと真下は見えないだろう。もっとも、泊り客が俺たちしかいない今は、そんな心配も無用だ。
「ここで脱ぐしかないよな……うぅん、落ち着かない」
なんだかその辺の茂みで素っ裸になる気分だ。俺がのそのそと服を床に落とし始めると、胸元でチリンと鈴が鳴った。
『主様』
「アニ?どうした」
『少し、お話ができればと思いまして』
「お前が?珍しいな。そう言えば、最近はアニと二人で話す機会も少なくなったなぁ」
『眷属が増えましたから。私は本来ナビゲーターなので、それが正しい姿です』
「ちょっと懐かしい気もするけどな。それで、なんだ?」
『今日の、というか、現在進行形の出来事についてです』
「あー……そっか、アニも見てたんだもんな」
『ええ。主様が随分と気にされているようでしたので、一つ助言を』
「助言?仲直りの秘策とか?」
『そうではないです。今回の一件、私が見た限り、主様は自分に非があるとお考えのようですが』
「ん……まあ、な。やっぱり、ライラを傷つけたのは、俺だから」
『しかし、原因は主様ではないかもしれません』
「は?じゃあ、ライラってことか?」
『いいえ。もっと前の出来事です。覚えていませんか。最近、とても嫌な気分を味わった出来事を』
嫌な気分……そりゃ、大なり小なりそういう気分になることはあるけど……だが、直近で、強烈に気分が悪くなる事があった気がする。辛いとか苦しいとか、単純な言葉じゃ言い表せない、重苦しい感情……
「……そうか。マスカレードにやられた、闇の魔法」
『その通りです。以前も言いましたが、闇の魔力は、心に作用します。外的損傷はどうとでも治癒ができますが、心の傷は油断なりません。その傷は深く、治りも遅い』
「そうだったな……じゃあ、俺がライラに手をあげたのも、その傷が原因だって言いたいのか?俺の意思ではなく?」
『その可能性があります。闇の魔力が、どのように精神に作用するのかはわかりません。ですが、些細なことでカッとなる、こらえが効かなくなるなどは、心的損傷の典型例です』
「……」
アニの言う通りならば、俺があの時冷静さを欠いたのは、マスカレードのせいだということになる。あいつに闇の魔法をかけられたからであって、俺自身の意思でやったことではない。だから、俺は悪くはない……
「……いや。やっぱり、それは通らないよ」
『何故です?今の主様に魔力の影響がないとは、とても考えられませんが』
「だとしても、だ。たとえどんな影響を受けていようが、最後に決めるのは俺自身だ。言い訳にはできないよ」
『……ですか』
「ああ。わるいな、アニ。それに、ありがとうな」
『感謝されるようなことをしましたか?』
「だって、気ぃつかってくれたんだろ?俺が落ち込んでるからさ」
『……まあ、どう解釈するかは、主様にお任せします。字引は、意見をしないので』
「はは、またそれかよ」
俺は笑うと、アニを首から外して、ていねいにシャツでくるんだ。服を脱ぎ、最後に帽子に手をかける。
「……」
素早くそれを外すと、ほとんど同時に、タオルを頭からかぶった。
「……俺しか、いないのにな」
お湯は熱過ぎず、ぬる過ぎずのちょうどいい温度だった。先にかけ湯を……しようと思ったが、手桶がない。ええい、ここは公衆浴場か?マナーなんかないようなもんだろ。気にするか。
「ふ、ううぅ……」
湯につかると、今日の疲れが染み出していくようだった。昼間はあちこち走り回ったからなぁ。
「……闇の魔力、か」
お湯に浮かびながら考える。アニに言われるまで、考えもしなかった。だが、そう考えると、納得のいくところもある。あの魔法を受けたとき、俺は昔のことを思い出した。より正確に言えば、過去の辛い記憶、辛い感情を鮮明に呼び起こされたんだ。こっちに来て、あの骸骨剣士に切られてからは、すっかり感じなくなった気持ちだった。だが、消えたわけじゃなかった。確かに俺の内には、あの暗い感情が残っていたわけだ。
「思い出した、ってことなのかな……」
振り返ってみれば、確かにここ最近、心に影が落ちる事が多かった気がする。そのせいで、敏感になっていたのだろうか。だから、俺の過去に触れるものに、過剰に反応してしまったのか。もちろん、だからと言って開き直ることはできないが……
「くそ……せっかく、自由になれたのに」
これじゃあ、昔の繰り返しだ。マスカレードめ、とんでもない置き土産をしていきやがった。
俺はお湯をすくうと、顔にパシャリとかけた。水滴が頬を伝うが、気分は晴れない。俺は思い切って、頭から湯につけた。ぶくぶくと、鼻から息を吐く。この息と一緒に、俺の中の黒い感情も、お湯に溶けてしまえばいいのに。
俺はしばらくの間、そうして湯に沈んでいた。だがじきに苦しくなって、結局は顔を上げてしまった。
「ぶはっ」
大きく息を吸って、肺に空気を送り込む……何をやっているんだか。こんなことしても、解決するわけないのに。早くものぼせているのかもしれない。俺は乱暴に顔をこすってから、目を開けた。すると目の前に、裸の少女が立っていた。
つづく
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読了ありがとうございました。
続きは【翌日0時】に更新予定です(日曜日はお休み)。
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エラゼムと別れると、俺は裏庭の奥へと向かった。狭いと思っていた裏庭だが、よく見ると隅のほうに、細い道が続いている。どうやら、隣の建物との隙間を、無理やり通路にしているみたいだ。肩が擦れそうな道幅を進むと、急にがくんと傾斜がきつくなった。ランタンを高く掲げてみるが、下り坂の先は、闇に覆われて見えない……
「いったい、どこまで続いてるんだ……?」
俺は足の裏に力を込めて、踏ん張りながら坂を下っていった。やがて、坂は別の建物にぶつかって、かくんと九十度左に折れた。角を曲がってさらに進むと、石張りの小さな庭のような場所に出た。あたりには独特な刺激臭……硫黄の匂いが立ち込めている。
「ここが浴場か」
周囲にしきいはなく、代わりによく茂った低木が生け垣として植えられていた。そこに埋もれるようにして、湯気の立つ湯船がある。随分小さいな、池みたいに見えるぞ。大人が二人も入れば、肩が触れ合うだろう。あたりを見回したが、脱衣所のようなものはなかった。というか、風呂らしい設備は何もない。本当に温泉だけだ。上を見上げると、俺たちの部屋と思しきバルコニーの床が見えた。真下に風呂があるだなんて、全然気づかなかったな。
「これって、上から覗かれ放題なんじゃ……」
と思ったが、おそらく角度的に、相当無理をしないと真下は見えないだろう。もっとも、泊り客が俺たちしかいない今は、そんな心配も無用だ。
「ここで脱ぐしかないよな……うぅん、落ち着かない」
なんだかその辺の茂みで素っ裸になる気分だ。俺がのそのそと服を床に落とし始めると、胸元でチリンと鈴が鳴った。
『主様』
「アニ?どうした」
『少し、お話ができればと思いまして』
「お前が?珍しいな。そう言えば、最近はアニと二人で話す機会も少なくなったなぁ」
『眷属が増えましたから。私は本来ナビゲーターなので、それが正しい姿です』
「ちょっと懐かしい気もするけどな。それで、なんだ?」
『今日の、というか、現在進行形の出来事についてです』
「あー……そっか、アニも見てたんだもんな」
『ええ。主様が随分と気にされているようでしたので、一つ助言を』
「助言?仲直りの秘策とか?」
『そうではないです。今回の一件、私が見た限り、主様は自分に非があるとお考えのようですが』
「ん……まあ、な。やっぱり、ライラを傷つけたのは、俺だから」
『しかし、原因は主様ではないかもしれません』
「は?じゃあ、ライラってことか?」
『いいえ。もっと前の出来事です。覚えていませんか。最近、とても嫌な気分を味わった出来事を』
嫌な気分……そりゃ、大なり小なりそういう気分になることはあるけど……だが、直近で、強烈に気分が悪くなる事があった気がする。辛いとか苦しいとか、単純な言葉じゃ言い表せない、重苦しい感情……
「……そうか。マスカレードにやられた、闇の魔法」
『その通りです。以前も言いましたが、闇の魔力は、心に作用します。外的損傷はどうとでも治癒ができますが、心の傷は油断なりません。その傷は深く、治りも遅い』
「そうだったな……じゃあ、俺がライラに手をあげたのも、その傷が原因だって言いたいのか?俺の意思ではなく?」
『その可能性があります。闇の魔力が、どのように精神に作用するのかはわかりません。ですが、些細なことでカッとなる、こらえが効かなくなるなどは、心的損傷の典型例です』
「……」
アニの言う通りならば、俺があの時冷静さを欠いたのは、マスカレードのせいだということになる。あいつに闇の魔法をかけられたからであって、俺自身の意思でやったことではない。だから、俺は悪くはない……
「……いや。やっぱり、それは通らないよ」
『何故です?今の主様に魔力の影響がないとは、とても考えられませんが』
「だとしても、だ。たとえどんな影響を受けていようが、最後に決めるのは俺自身だ。言い訳にはできないよ」
『……ですか』
「ああ。わるいな、アニ。それに、ありがとうな」
『感謝されるようなことをしましたか?』
「だって、気ぃつかってくれたんだろ?俺が落ち込んでるからさ」
『……まあ、どう解釈するかは、主様にお任せします。字引は、意見をしないので』
「はは、またそれかよ」
俺は笑うと、アニを首から外して、ていねいにシャツでくるんだ。服を脱ぎ、最後に帽子に手をかける。
「……」
素早くそれを外すと、ほとんど同時に、タオルを頭からかぶった。
「……俺しか、いないのにな」
お湯は熱過ぎず、ぬる過ぎずのちょうどいい温度だった。先にかけ湯を……しようと思ったが、手桶がない。ええい、ここは公衆浴場か?マナーなんかないようなもんだろ。気にするか。
「ふ、ううぅ……」
湯につかると、今日の疲れが染み出していくようだった。昼間はあちこち走り回ったからなぁ。
「……闇の魔力、か」
お湯に浮かびながら考える。アニに言われるまで、考えもしなかった。だが、そう考えると、納得のいくところもある。あの魔法を受けたとき、俺は昔のことを思い出した。より正確に言えば、過去の辛い記憶、辛い感情を鮮明に呼び起こされたんだ。こっちに来て、あの骸骨剣士に切られてからは、すっかり感じなくなった気持ちだった。だが、消えたわけじゃなかった。確かに俺の内には、あの暗い感情が残っていたわけだ。
「思い出した、ってことなのかな……」
振り返ってみれば、確かにここ最近、心に影が落ちる事が多かった気がする。そのせいで、敏感になっていたのだろうか。だから、俺の過去に触れるものに、過剰に反応してしまったのか。もちろん、だからと言って開き直ることはできないが……
「くそ……せっかく、自由になれたのに」
これじゃあ、昔の繰り返しだ。マスカレードめ、とんでもない置き土産をしていきやがった。
俺はお湯をすくうと、顔にパシャリとかけた。水滴が頬を伝うが、気分は晴れない。俺は思い切って、頭から湯につけた。ぶくぶくと、鼻から息を吐く。この息と一緒に、俺の中の黒い感情も、お湯に溶けてしまえばいいのに。
俺はしばらくの間、そうして湯に沈んでいた。だがじきに苦しくなって、結局は顔を上げてしまった。
「ぶはっ」
大きく息を吸って、肺に空気を送り込む……何をやっているんだか。こんなことしても、解決するわけないのに。早くものぼせているのかもしれない。俺は乱暴に顔をこすってから、目を開けた。すると目の前に、裸の少女が立っていた。
つづく
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