年下御曹司は白衣の花嫁と極夜の息子を今度こそ! 手放さない

ささゆき細雪

Chapter,4_05. 月のために動く極光と巡る星

 マンションに戻った淑乃は、ふだんよりも言葉数が少ないのを灯夜に心配されながらも、夕飯の支度と息子の入浴と就寝準備を終わらせ、午後九時にはひとりの時間を確保した。久しぶりの、朔のいない夜。淋しいけど日曜日にはまた逢えるのだから、と淑乃は思惟に耽る。

 ――過去の婚約者のことをサクくんがあたしに伝えたくなかったのは、あたしの家族を壊した祖父同様に、彼もまた同じことをしていたから?

 三澤理絵の異母妹が、朔の元婚約者だった。
 彼女は執事とともに結婚式当日に海外へ逃亡、その後どうなったのかは向こうの家族すら知らないのだという。たぶん、陽二郎に訊けば教えてくれそうな気はするが、淑乃はそこまでして朔の元婚約者のことを知りたいとも思わなかった。家を捨てるという壮大な判断をした彼女は、時代錯誤な政略結婚から逃げることで、朔の目を覚まさせたのかもしれない。
 向こうも朔との結婚にも乗り気ではなかった、結婚したところで別れるのは誰の目から見ても明らかだった、とまで言わせるほどの冷めた関係だったらしいが、それならばなぜふたりは婚約させられたのだろう。

 ――やっぱりお金かな。結果的に工務店をK&Dは吸収して、土地や違約金も手に入れているんだよね。

 篠塚一族は沓庭でも有数の大地主として名を馳せているが、ここ数年は良い噂をあまりきかない。勝ち目のない不動産投資に金をつぎ込んだ結果、不景気による不動産減収もあいまって資金ぶりが悪化したという。本家の人間はいまも一部の土地を切り売りしてどうにか凌いでいる現状なんですよと、分家の三男坊である篠塚が淑乃に愚痴ったことがあったのを思い出す。
 同僚で医師の資格を持つ篠塚は本家一族とは距離を置いているというが、それでも同じ苗字だからかよく患者に誤解されている。自分は病院勤務とマンションの家賃収入だけで充分だから、これ以上手広くすることはないし、ほかの親族から金を無心されても応えるつもりはないと言い切っていたが、本家の没落っぷりはイヤでも耳に入ってくるのだろう……沓庭から全国で成功したK&Dの海堂家の御曹司と結婚する予定だった娘が逃げ出したなどという醜聞も含めて。

「……あれ?」

 こんな時間に電話の着信が来ている。市外局番が記されている見覚えのない番号だ。誰からだろうと不審に思いながら通話ボタンを押す、と。

「夜分遅くに申し訳ございません、香宮さまでよろしかったでしょうか」
「――あなたは……西岡さん?」

 電話の主は先日、朔が紹介してくれた海堂本家の管理人だった。
 老紳士は元社長秘書だったというだけあってキリっとした態度で淑乃に告げる。

「申し上げます。坊ちゃ……朔さまが――……!」


   * * *


 平屋建ての古風な日本建築を誇る海堂本家はしんと静まり返っていた。かつては幼い朔と暁の兄弟が暮らしていた邸にいま暮らしているのは彼らの父親の明夫とその妹である光子のふたりだけ。
 今夜はふたりとも東京本社に泊まりで出かけているから、ここには朔と管理人の西岡以外誰もいない。
 朔は久々に本家に戻り、かつて与えられた自分の部屋で書類と格闘していた。

 ――よしのとの結婚を反対しているのは、木瀬派の人間か? だが、あいつらは……

 木瀬省三。朔を神童だと祭り上げた重鎮は、創業者の死後、彼の思想を色濃く受け継いだ朔を社長にしようと考えていた。まだ義務教育も終えていない彼を海堂グループのトップに据え置くという信じがたい創業者の遺言は却下され、朔の父親である明夫が二代目を引き継いだが、木瀬はそれでも朔を会社経営にかかわらせた。
 明夫も彼の才には気づいていたが、機械的なところのある彼を気味悪がる人間もいた。部活や友人たちとの遊びに現を抜かす弟の暁とは異なり、朔は一族が携わる仕事に夢中になっていったからだ。

 人間らしさのない、このままでは過労死しそうな彼に気づいたのは陽二郎だった。彼のお節介で朔は淑乃と出逢い、はじめての恋を知った。
 木瀬は人間らしくなった朔に戸惑っていた。やがて彼は本社を退き、子会社の会長職に就いたため、その後彼と仕事をともにすることはなくなったが、何かしら顔を合わせることは多かった。なぜなら退職後も海堂本家の敷地にほど近い場所に居を構えていたからだ。
 その姿はまるで腰ぎんちゃくのようだと暁にも呆れられていたほど。不気味な木瀬の朔への執着は、淑乃に振られたと認識した五年ほど前、木瀬に紹介された婚約者を受け入れたことでいったんは落ち着いたが、結婚式が失敗に終わったことでふたたび表に出るようになっていた。
 なぜ朔だけを目の敵にしているのかはわからない。

 ――けど、歯向かうものはちからで圧倒させるしかないんだ。こんな姿、よしのに見せたくなかったんだけどな。

 社長御曹司として自分に近づいてきた人間は幼い頃からごまんといた。近寄りがたい空気を醸し出して、心を閉ざしひとりでいることを選んだ朔と、すべてを受け入れ他者を気まぐれに傷つけていた暁の対照的な兄弟は、まさしく月と太陽のように見えただろう。幼い頃の朔は太陽のない世界に逃げ込みたかった。夜のちからは太陽すら陰らせる。淑乃は「極夜みたいにやさしい」と朔のことを言ってくれるが、そう評してくれたのは彼女だけだ。あの「極夜」の絵はすべてを内包せよという自戒の念も込めたものだったから。

 ――俺は、変わったのだろうか。

 子どもをひとりで産み育てている淑乃を見た瞬間、凍りついていたなにかが溶けだした。
 過酷な星の下に生まれた香宮のさいごのひとり。父親が犯した罪と祖父によって、家族をバラバラにされた彼女は、滅多に自分から願いを口にしない。朔はもっと求めて欲しいと常々思っている。たくさん甘やかしてとろとろにしたい。たとえ周りが反対しようが、手放すことは叶わない。
 だって淑乃はプロポーズを受け入れてくれた。朔のために身をひいて、灯夜をひとりで育てることを決めた彼女が、ようやく自分の元に帰ってきたのだ、いまさら一部の人間に反対されようが妨害されようが朔の決意は翻るわけがない。

「あった」

 そして取り出した書類を手に、はぁとため息をつく。
 彼らを黙らせるための唯一の証明。
 説得させるには、これしかない。

「公にされて困るようなものとは思えないけどなぁ……」
「おやおや、何をコソコソしているのかね」
「――っ」

 ひとの気配などなかったはずなのに、朔は亡霊でも見てしまったかのように顔を歪ませる。
 ケタケタと嗤う男の声はしわがれており、庭先で鳴く螻蛄の声に似ていた。
 そういえば、蒸し暑いしどうせ誰もいないからと部屋を開けっぱなしにして作業していたのだ。朔は自分の失態に気づき、青褪める。

「いまさら、その家について調べるなんて、無駄なことを」
「……それでも、お前たちを黙らせることくらいはできるだろう? 木瀬」
「儂は悪くない! 悪いのは――なんじゃ! 調子に乗りやがって! ――なぞ、海堂の歯車として死に物狂いで働いてれば良かったのに! お前なのか! 不吉な夜の息子めっ!」

 しゃんとした立ち姿の老人が手に持っていたのは、場違いな――錆びついた鉈だった。
 木瀬から逃れようと慌てて縁側に出たものの、凶刃は朔の背中を一閃する。

「うぉおおおおおーっ!」

 月夜の下で背中から血を流し、獣のように吠える朔と、なおも彼を害そうと血走った瞳の木瀬が追い詰める。鉈を持つ手が震えている。先ほどまでの威勢は若き虎の咆哮の前に消え去っていた。哀れな老人は朔の姿に圧倒されていた。その隙に鉈を奪い取り、彼を地面に押さえつける。
 ぜいぜいと息を切らしながらも、冷静な朔は邸に残っているもうひとりに向けて、大声を振り絞る。

「にぃしぃおぉかぁあ!」

 朔の大声に、西岡が事情を把握し即座に木瀬を確保する。意味不明な言葉を口にしていた彼は、自分が心酔していた創業者の孫を傷つけたことに気づいたのか、いやいやと幼子のように首を振った後にぷつりと糸が切れたように虚脱してしまった。警察に引き渡すまえに病院へ運ぶ必要がありそうだなと冷静に考える朔もまた、背中が熱を持ったようにあつくなっていることに気づき、「……痛ぇ」と呻きだす。

「すでに警察と救急には連絡済みです。どうかご無理なさらず……!」
「俺は、大丈夫だから――を……頼んだ」

 ――意識が遠のいていく。
 こんなところで。よしのに怒られてしまう。
 ようやくすべての駒が揃ったのに、彼女を手に入れる前にくたばってどうする。

「よ……し、の」

 俺はこんなところで死ぬような人間じゃないぞと心配する西岡に笑いかけながら、朔はゆっくり、瞳を閉じた。

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