年下御曹司は白衣の花嫁と極夜の息子を今度こそ! 手放さない

ささゆき細雪

Chapter,4_04. 背後から照らされた月に沈む星

 朔と思いがけない午前デートを過ごした淑乃は、ランチを食べた後、休診日の診療所へ戻り、誰もいないカルテ庫からカルテを取り出していた。
 まずは海堂陽二郎が気をつけろと警告した木瀬省三について知る必要がある。香宮の断罪にかかわった当事者で、朔に婚約者を選んだ男。朔が婚約者に逃げられたことで一方的に失望し、陽二郎へすり寄ってきたのはなぜか。そして朔を個人的に恨んでいる、という意味……
 診療所へは新規患者として登録されているが、もともと大学病院の精神科外来を通院していたらしく、紹介状が添付されていた。

「休みの日なのに熱心だねえ」
「あ。篠塚先生、お疲れ様です」

 ぬっと背後から現れた篠塚はくたびれた白衣を着ていた。木曜日の午前に大学病院で診察をしている彼は、午後から調べたいことがあると報せてきた淑乃のことを慮って、様子を見に来てくれたらしい。

「先日の患者さんのカルテを確認しているのかな?」
「あ、はい。海堂陽二郎さんが代理でいらした」
「木瀬さん?」
「篠塚先生、ご存じなんですか?」
「病院で何度か顔を見たことがあるよ……ふだんは院長先生が相手されるから、向こうは僕のこと知らないだろうけど」

 苦虫を嚙み潰したような表情を見せる篠塚に、淑乃は意外だと目をしばたかせる。

「海堂グループの初代を裏で支えた腹心とか重鎮って言われているけれど、いまじゃ過去の権力に縋っているだけのかわいそうなひとだよ」
「……そう、なのですか」

 どこか哀愁のこもった彼の声音に、淑乃は躊躇いながらも、カルテを読み上げる。

「木瀬省三、八十三歳。三年ほど前より記憶障害、認知機能障害、見当識障害を発症。昨年秋より上記中核症状のみならず幻覚・徘徊・抑うつ等の周辺症状BPSDが顕著となり、精神科専門医受診とプライマリケアを余儀なくされるようになる。各種スケールによる検査および画像検査、頭部MRI・CTの結果を踏まえアルツハイマー型認知症との診断。現状は投薬治療と週に三回のグループホームで行われる訓練にて症状の悪化を遅らせているが、改善は見られず。向精神薬との併用は原則不可だから、この先は非薬理学的介入でどうにかするしかない……か」

 かつては創業者とともに沓庭を拠点に第一線で活躍。戦後の高度経済成長期を味方に会社を成長させ、多くの関連企業を傘下に収め、海堂グループを不動のものとした実力者。初代亡き後は一の長男で朔の父親にあたる明夫の傍について後継の育成に励んでいたという。八年前まで本社役員を担い、その後は子会社会長として悠々自適な生活を送っていたらしい。
 五年前に妻に先立たれてからは隠居の身となったが、彼の影響力は残されていたとされる。だが、認知症を発症しているおじいちゃんが、過去の権力にすがるためだけに会社を混乱させるようなことを行うだろうか? 彼の親族や婚約者の一族もかかわっているのでは……?

 ――そういえばあたしはまだ、婚約者が何者であったかを訊いていない。知る必要がないから教えられていないだけ、なんだろうけど。

「淑乃ちゃん? 何を考えているのかな」
「木瀬さんは五年ほど前にサクくんに婚約者を紹介しています。その婚約者について、知ることができれば……」
「そうだね、本人に確認するのがいちばんだと思うよ。ただ」

 篠塚の声が低くなる。
 まるでその人物が何者かを知っているかのような口ぶりで。

「なぜ朔くんが貴女に伝えていないのか、考えてからでも遅くはないよ」


   * * *


 診療所をあとにした淑乃は、ふだんより一時間ほど早く灯夜を迎えに行った。

「こんばんは、香宮ですけど」
「あ、トーヤくんのお母さん! お疲れ様です」

 沓庭サポートセンターの指導員、三澤理絵に迎えられ、淑乃は息子の姿を探す。
 いた。ランドセルのなかへ強引にプリントを突っ込んでいる。律儀に課題をこなしていたのだろう。ちゃんと揃えてからいれればいいのに、と呆れながら見つめていた淑乃だったが、早く母親のもとへ向かいたくて仕方がなかった灯夜はそそくさと帰り支度をして彼女の前へ駆けていく。

「ママおかえり!」
「ただいま。宿題やっていたの? えらいわね」
「えへへ。ママはもう身体大丈夫なの? お、パパが仕事で疲れてるって言っていたけど」
「もう大丈夫。心配してくれてありがとうね」

 おじさん、と言いそうになったのを慌ててパパと口にする灯夜を見て、淑乃は微笑ましい気持ちになる。
 その様子を不思議そうに見つめていた理絵が、「パパ?」と目を白黒させている。灯夜が「ん」と頷いて、彼女に小声で呟いた。

「ママ、もうすぐパパと結婚する」
「ちょ、トーヤ!」

「え、っと……どのパパさんですか?」

 向こうも突然の告白に驚いているのだろう。そうでなければどのパパだなんて口にするわけがない。
 灯夜は顔を真っ赤にする母親を前に、嬉しそうに告げる。

「暁おにいちゃんの、おにいちゃん」
「それって……海堂、朔さん?」

 正直に口にした灯夜を前にああああ、と淑乃が口をパクパクさせている。
 だが、てっきり暁か篠塚のことだろうと思っていた理絵はその思いがけない名前に、表情を曇らせていた。
 彼女の表情の些細な変化に気づいてしまった淑乃は、何か不安要素でもあるのだろうかとつい首を傾げてしまう。
 けれど息子はそんな母親たちの姿に気づくことなく嬉しそうに報告をつづけている。

「うん。僕のほんとうのパパ!」
「そうだったの……それで、さいきんの灯夜くんはいつも楽しそうにしていたのね」

 どこか納得した表情で、淑乃に向き直り、おめでとうございますと口にする理絵の表情はすでに笑顔に戻っていた。
 彼女が一瞬見せたあの顔はなんだったのだろうと不思議に思いながら、淑乃は困惑した表情で理絵に伝える。
 結婚するというはなしはしているが、これから向こうへ挨拶に行くこと、入籍は挨拶が終わってからになること、準備ははじめているものの結婚式についてもまだ日程を決めていないことなど……まるで言い訳のように細々と口にする淑乃を前に、理絵がああ、と共感するように首肯する。

「そうですよね……沓庭の海堂一族は一筋縄ではいかないことで有名ですから。わたしが言うことじゃないとは思うんですけど」
「――え」
「あら、ご存じなかったですか? わたしの実家、沓庭で工務店経営していたんですけど……いろいろあって」

 お金もすっからかんになっちゃったからあっさり海堂グループの傘下に吸収されちゃってね、とからから笑う理絵を前に、淑乃は驚愕する。
 海堂グループが工務店を吸収する。どこかで、聞いたことのある話だ。
 けれど、彼女が口にするそれは、淑乃が知っている騒動とは別のもののようで……

「それって、三十年前の?」
「え? 篠塚工務店のことですよ? ほんの一年くらい前です。結婚式が失敗した腹いせに潰されたってはじめのうちは騒いでたけど、花嫁いもうとが逃げたのはうちの落ち度だから仕方ないんです。それに、いまの方が給与が良くなったこともあって文句言ってたのも最初だけだったかな。いまじゃ海堂サマサマって……」
「いもうと?」
「わたしは前妻の娘なんでとっとと嫁に出されちゃったんですけど、ひとまわりとしのはなれた母親違いの妹がいるんです……いや、いた、って言った方がいいのかしら」
「まさか……」

 ふふ、と淋しそうに笑う理絵を見て、確信する。
 彼女もまた、海堂一族によって実家をめちゃくちゃにされたひとりだったのだと。

「そうです。かつて、わたしの異母妹いもうとは、海堂朔さんの婚約者でした」

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