年下御曹司は白衣の花嫁と極夜の息子を今度こそ! 手放さない

ささゆき細雪

Chapter,4_01. もうひとつの太陽が報せる負の遺産

 五月中旬、緑の木々が青々と茂る診療所で、淑乃ははふ、と欠伸をする。

「香宮先生、カウンセリングルームお願いします」
「あ、はいっ!」

 婚前旅行を経て更に愛を深めた朔と淑乃は灯夜に冷やかされながらも睦まじい日常へと戻っていた。朔が淑乃のマンションに泊まることも増え、必然的に同じベッドで眠るようになった。週末には三人で朔の父親のもとへ挨拶に行くことも決まり、その際に今後のはなしをすることになっている。婚約破棄から一年経たずにこぶつきの学生時代の恋人とよりを戻し、結婚を決めた朔のことを、父親はどう思っているのだろう。反対はされていないようだが、不安は残っている――けれど淑乃はもう、このとろけるほどに甘い恋から抜け出せない。

「お待たせしました、専属カウンセラーの香宮で……」
「ご無沙汰してたね、香宮の」
「へっ!?」

 淑乃をご指名だという新規の患者が待っているそちらへ向かえば、思いがけない人物が悠々と椅子に腰掛けていた。
 カルテには見慣れない名前が書かれており、別人のカルテを持ち出したのかと焦った淑乃だったが、それすら想定内だとでも言いたそうに「まあまあ」と紳士が笑う。

 ――彼はアカツキくんとは違う、月の裏側のもうひとつの太陽。

「失礼しました……海堂、陽二郎さんですね」
「俺のこと、朔から訊いたんだ?」
「アカツキくんに代わって、日本へ戻ってくるというはなしなら……どうしてこちらへ?」
「なあに、香宮のさいごのひとりである君に、ちょっとしたお節介だよ」

 白衣姿の淑乃に怯むことなく、陽二郎は単刀直入に告げる。
 十二年前に母の墓前で対峙したときと変わらない彼の言葉を前に、淑乃は凍りつく。
 あれから十二年も経っているのに、陽二郎の姿はほとんど変わっていない。そこだけ時間が止まってしまったかのように、彼は若々しい。

「子どもを隠して育てていたんだってね。兄さんからそのはなしをきいたときは驚いたよ」
「それは」
「まあ、過去のはなしをいまさら蒸し返すのもアレだな。今日は君と未来のはなしがしたい」
「未来……?」

 ――このひとはどこまで知っているのだろう?
 訝しむ淑乃を安心させるかのように、陽二郎が口をひらく。

「俺は別に君と朔の結婚に反対しているわけではない。むしろ放っておいたら人間味が消えちまう朔には君みたいな女性ヒトが必要だと思っている」

 彼の榛色の瞳は暁を彷彿させる。けれど暁よりも深みのある、落ち着いた瞳の色だ。
 淑乃は焦げ茶に近い榛色の双眸を凝視して、彼が嘘をついているようには見えないと判断し、言葉を返す。

「あの……香宮の出自は障壁になりますか?」
「なるかもしれないし、ならないかもしれない。君が赤子の頃の出来事をいまさらどうこう言う物好きもそういないだろう。初代社長の海堂一も既に故人だ。潰された香宮の一族に固執するほど兄さんも姉さんも暇じゃない」
「サクくんのおじい様……?」
「初代なら、彼が中学校に入ったころに亡くなっているよ。あの頃は次に誰がトップに立つかで揉めてね。ひとまず世代交代ってことで朔と暁の父親が社長の座についてそれを姉さんが補佐して、事業を引き継いだのがいまのK&D」

 後継者争いは一の長男である明夫がおさめたことになっている。だが、水面下では彼に反発する派閥が暗躍しており、当時中学生の朔もその波に飲み込まれてしまったのだという。彼は自分が利用されることを拒み、逃避するように部屋に引きこもって絵を描くことで、父親の妨げにならないよう、ほかの派閥を刺激しないよううまく立ち回っていたという――そこで生まれたのが「極夜」……朔が暗闇のなかで希望を信じて精一杯描いた絵だったのだ。

「朔は初代から会社を継ぐことを心から望まれていて、遺言にもそれらしき一文が記されていたんだが、なんせまだ中学生だし、息子もふたりいるというわけで初代の要望は叶えられなかった」
「……中学生で、社長?」

 どうやら淑乃が知る朔と、陽二郎が語る朔の姿は乖離しているようだ。
 朔が仕事のはなしをしないのは、自分と同じで守秘義務があるからだと考えていた。
 けれどもそれは不自然なことではないかと陽二郎は淑乃に問いかける。
 表情を硬くする淑乃に気づいたのか、彼は案ずるように言葉をつづける。

「辛ければ朔に伝えても構わないよ。君のためなら彼は……」
「いえ。カウンセリングの内容をカウンセラー自らはなすことは行いません。たとえそれがサクくんにまつわる話題であっても!」

 きりっと瞳を眇めて淑乃が言い返すのを見て、陽二郎がほう、とどこか安心したように口角をあげる。

「じゃあ、ここから先はオフレコってことで頼む。なんせ俺たちからすればこれは既に終わったはなしなんだ。けれど、それを是としない人間が朔個人を恨んでいる」
「はい……恨みデスカ?」

 なんだか物騒な言葉を耳にしてしまった気がする。淑乃は朔が恨みを買われているという陽二郎の言葉に、表情を改める。

「朔に婚約者がいたことは知っているな」
「ええ。でも、それは花嫁が逃げたんですよね」
「俺が逃がした」
「…………ええ?」

 さっきまで凍りついていた淑乃の表情が驚きで動き出す。それを見て陽二郎はくすくす笑う。

「だから言っただろ。俺は君と朔が結ばれることを心から望んでいるって……けど、そのカルテの――木瀬省三きせしょうぞうという男は違う。香宮の娘と結婚するという情報はまだ渡っていないが、君と子どもの存在を知ったら、君たちを害そうとするかもしれない」
「……はい?」

 そういえば陽二郎はわざとこの名前でカウンセリングを受けに来たのだった。淑乃は改めてカルテ情報を確認して、瞠目する。保険証のコピーには後期高齢者と記されていた。

「あの、ずいぶんお年を召してらっしゃる方ですね……」
「この診療所の受付スタッフには俺が代理で訪れたことを伝えている。なんせご高齢ですから」

 つまりこのカルテは偽名でもなんでもなく、実在する人物の情報なのかと淑乃は納得する。それもよりによって朔を恨んでいるご老人だという。
 ……けど、親族でもなんでもない男がなぜ、代診に訪れたのだろう? 首を傾げる淑乃に、陽二郎が種明かしをする。

「彼は初代、海堂一の腹心だった男だ。一が死んだ後、明夫を補佐する傍らで朔を叩き上げた老獪だが、この数年で認知症がすすんでね。いまじゃ海堂グループの負の遺産さ」
「……それで、当診療所に?」
「君に逢いに行くのにちょうどいい口実だと思って。あ、これ朔には内緒な」

 言ったらぜったいほかの病院紹介されるだろうからと笑い、陽二郎は淑乃に小声で呟く。まるで口説き言葉のようだなと困惑する淑乃の反応を楽しそうに見ている。

「木瀬は、朔の父親に代わって彼の婚約者を選んだ男だ。結婚式が失敗したことがショックだったらしく、朔から俺に鞍替えしてきた」
「はい?」

 次から次へとあらわれる陽二郎の情報を前に、淑乃はたじろぐ。
 なにがちょっとしたお節介だ。地雷を埋めに来ているようにしか思えない。辛かったら朔に伝えてもいいと言いながら、オフレコで頼むよと図々しく語るところも憎たらしい。
 部屋の掛け時計を見上げて、時間だと促せば、彼は「ありがとう、はなしをきいてくれてスッキリしたよ」と朗らかな笑顔を見せる。なんと禍々しい笑顔だ。とはいえ患者である手前、淑乃も笑顔で彼を見送る。
 扉が閉まる直前に陽二郎はにやりとほくそ笑む。そして、淑乃を試すような囁きを残して姿を消す。


「ちなみに彼、香宮の家を破滅に追い込んだ残党だから」

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