年下御曹司は白衣の花嫁と極夜の息子を今度こそ! 手放さない

ささゆき細雪

Chapter,3_07. 意味のある偶然の一致

 浴室を後にして、ふわふわのバスタオルに身体を包んだ淑乃は、髪から雫を垂らしたままの朔に抱きあげられた状態で二階奥に位置するアトリエに案内されていた。せめて下着くらいつけたいと望んだ淑乃だったが、暁がふれたものをふたたびつける必要もないとあっさり却下され、はだかでタオルを巻くだけの無防備な状態にされている。まるで自分が痴女になってしまったかのような羞恥心に身体を震わせる淑乃だったが、あと一時間もすれば西岡が着替えを持ってくるからそれまでの辛抱だと言い聞かせ、彼のやりたいようにさせている。それに、ノーパンノーブラで花嫁衣裳と白衣という格好よりはまだマシな気がする……たぶん。

 海が見渡せるであろう窓には遮光カーテンがかけられており、室内は真っ暗だ。ふわりと漂う油絵具の匂いとともに、画架イーゼルに立てかけられた何も描かれていない真っ白な画布カンバスがぼんやりと浮かび上がる。壁には額縁に入れられた抽象画が飾られているようだが、全体的に黒っぽくてこの明るさだと何が描かれているのか判断できない。

「ここは……?」
「いちおう俺のアトリエ」
「サクくん、絵なんて描いてたっけ」
「高校はいるくらいまでは熱心に描いてたんだけど、いまはぜんぜんだよ……いつかまた描きたいと思って、部屋だけは用意しておいたんだ。サークル時代のよしのは描くのより描かれたものを見る方がすきだったでしょ。一緒に美術館や画廊めぐるの楽しかったよね。そんなよしのに素人の俺の絵を見せても面白くないだろうなと思ったから……」
「え? そんなことないよ。なんで教えてくれなかったの?」
「いままではなす機会がなかっただけだよ……だけど、せっかくここに攫ってきたならよしのにも十五年前の俺が描いたとっておきの一作を見せたいな、って」

 そう口にしながら淑乃を抱き上げた状態で朔が勢いよくカーテンをひらく。
 太陽のひかりが部屋のなかに入り込み、壁にかけられていたおおきな絵が、淑乃のまえに現れる。
 とっておきの一作?
 それは、淑乃がもう一度間近で見たいと思っていた……

 ――極夜。

「う、そ」
「よしの?」
「きょくや、じゃないの……」

 きょくや、と弱々しく呟いて泣き出した淑乃を見て、朔は困惑する。よしの? と声をかけても彼女はぽろぽろと涙を零すばかりで何も言わない。弟に襲われたときにも泣かなかった彼女が、絵を見ただけで泣き出したことが信じられない。自分が中学生の頃に描いた絵を見て、なぜ泣いてしまったのだろう。それに絵のタイトルを教えていないのに彼女はこの絵を「極夜」だと断言した。コンクールで入賞した絵を、淑乃はどこかで見た記憶があるのだろうか。

 一方で淑乃は涙で濡れたおおきな夜色の瞳を見開き、彼が描いたという「極夜」を凝視している。
 大学に入ってサークルで鑑賞活動をはじめた頃に出逢った、淑乃の心を動かした絵だ。
 当時中学生の朔が描いたという太陽の昇らない、うつくしい夜の世界。朔がこの絵を描いていたとき、高校生の淑乃は絶望のなかにいた。大学に入ってこの絵を見つけた淑乃が、生きるためのちからをもらっていたことなど、モノクロの世界に彩りを灯してくれたことなど、きっと朔は知る由もない。

「そいえば、受賞後に返却されたんだけど、そのまましまい込むのも勿体ないからって、海堂グループと懇意にしてる沓庭マリンアートギャラリーに一年くらい俺のこの絵、置いてあったんだよね。もしかしてよしのはそこで……?」
「うん」

 きっとそうだ。淑乃は地元のギャラリーでこの絵をたしかに見たのだ。絶望のなかに描かれたひとすじの希望を。
 そして淑乃は恨んでいた過去を昇華すべく、やさしい夜に想いを馳せた。その向こうに、自分の運命のひとが隠れていたことに気づくことなく。

 ――あのときはなぜこんなにもこの絵に惹かれたのか理解できなかった。いまならわかる、この絵を描いた人物こそが、ありのままの自分を包み込んでくれる運命のひとだったからだって。

「それって、泣くほどのこと?」
「だ、だって……」

 まさかこんなところでふたたびまみえることが叶うなんて。
 感極まった淑乃は朔にあたまを撫でられながらひたすら泣きつづける。

「サクくんが描いたなんて、知らなかった。けど、あたしはずっと……サクくんは極夜みたいなひとだと、思っていたんだよ。っく。あたし、サクくんのこの絵でようやくすべての感情を取り戻せた気がするんだ。ぶわっ、て鳥肌が立ったの。哀しい辛い悔しいだけじゃない、純粋な喜びと、ささやかな幸せと……運命の悪戯でサクくんに出逢えたから、トーヤを身籠る奇跡が起き、て……ぜんぶ、繋がっているんだな、って……えっぐ、ごめん、何言いたいのかぜんぜんわからないよね」
「泣きながら必死に説明しなくても……俺の絵が、よしのの琴線にふれていたことはすごくわかったから。そっか、シンクロニシティか」
「そう、意味のある偶然の一致シンクロニシティ!」

 淑乃にとって朔が描いた「極夜」は、暗闇を彷徨っている自分をいつだってやさしく導いてくれる。
 そして朔にとっての「極夜」もまた、一日中太陽のひかりが届かない夜というだけではなかったのだろう。

 社長の有力な後継候補としての重圧、月の裏側へ追いやっても彼を脅かす太陽の名を冠するふたりのライバル……当時十五歳の彼が描いた世界は極限の夜。大胆につかわれたジェットブラックの絵の具がすべてを飲み込もうとしているように見えるが、周囲にはネイビーやブルーグレイなどの青みがかった色も散りばめられており、繊細な空の様子が描かれている。
 果ての見えない拡い宇宙のなかでも手を伸ばせば希望に届くというメッセージ性の込められた、ひとすじのオーロラと星の煌めき。
 不安に押しつぶされそうななかで描かれたであろう彼の、不器用ながらも実直な生き方に通じる作品だと、改めて淑乃は思った。

「ありがとうサクくん。この絵を描いてくれて」

 涙を拭いながら、淑乃は申し訳なさそうに朔の肩を叩く。抱っこされた状態だと、絵を間近で眺められないと暗に言われて彼は渋々彼女を床のうえへおろす。素足のまま、よたよたと歩いて絵の前へ立った淑乃は、あらためて自分の人生に影響を与えた絵を前に、両手を拡げる。はらりとバスタオルが床に落ちても、彼女は気にすることなく、そのまま夜を抱きしめるように腕を曲げて、動きを止めた。

「よし、の?」
「本物だ……なんだかごめんね、ひとりで盛り上がっちゃって」
「そんなことないよ。俺も、よしのが俺の絵で感情を取り戻せたってきくことができて、嬉し……」

 淑乃が自分の絵のまえではだかを晒している。
 その神々しくも倒錯的な姿に、朔は思わず呟いていた。

「きれいだ」
「サクくん? あ……」

 慌ててタオルを取り上げて身体に巻こうとするが、朔に奪われ、はだかのままきつく抱きしめられてしまう。

「なんだか女神に許されたような気分だ。このままここで貴女を抱きたい」
「何言ってる……ンっ」
「はだかのまま絵の前に立つ貴女に欲情したんだ」
「ちょ、ちょっとサクく……」
「いまだけ……俺だけの芸術作品になって?」

 アトリエのカーテンタッセルをひょいと取ってきた朔は、彼女の両腕を固定して、絵が飾られている壁とは反対側の壁のフックに彼女を吊るす。さきほど縛ってもいい、と口にした淑乃を試すかのような彼の行動に彼女の鼓動が早まっていく。

「サクくん」
「愛してるよ。これまでもこれからも。俺はよしののことだけをずっと……」
「ひぁ、あ……ン」

 まるで女神を崇めるかのように跪かれ、愛の言葉とともに全身を撫でられ、つま先立ちの淑乃の身体が悦びに震える。

「よしの。貴女にとって俺が極夜なら、貴女は俺にとっての極光オーロラだ。その輝きが、俺を何度でも蘇らせてくれるから……ッ」


 極夜の絵が見える壁際で、彼によってふたたび啼かされた淑乃は、そのまま甘い、夢を見る。

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