年下御曹司は白衣の花嫁と極夜の息子を今度こそ! 手放さない
Chapter,3_02. 幼稚なかくれんぼの終焉
病院から逃げ出した淑乃は自分の場違いな格好に気づき、慌てて大学小ホールの裏手にあるクラブハウスへ潜り込む。かつて劇団のヘルプで何度も通ったそこには、年齢不詳の変わり者が鍵をかけずに寛いでいた。
「良かった、いた!」
「あらよしのちゃんじゃないの……こっちに来るなんてどうした? そんな破廉恥な格好で、まさかオトコに襲われた?」
「似たようなもんよ。いいから着替えちょーだい」
「ったく、衣装なら腐るほどあるから適当に見繕いなさい」
「ありがと、白炭先輩」
アートカフェ&レストランバー『ホワイトチョーク』の店長、白炭蘭は沓庭大学芸術学部を卒業後にアートを愛する学生たちのための隠れ家をオープンさせた張本人だが、店を開けていないときはたいていクラブハウスにある美術室で悠々自適に過ごしている。この、『アート集団ナヒト』のメンバーが集って制作をするための部屋はふだん鍵をかけられているが、サークルの名誉会員である白炭はこの部屋の主として認められているため、鍵を扱える立場にいるのだ。
絵画だけでなく演劇の舞台装置も制作する彼女は他サークルの舞台美術責任者としての評価も高く、衣装や小道具も器用に作るので、後輩からも一目置かれている。若い頃は舞台で食べていくことも考えていたらしいが、結局舞台は趣味の一環として学生たちと楽しみながら、料理人の主人とともにお店の経営を本業にしているという地に足の着いた生活を送っていた。
淑乃が大学に入学した当時から卒業生だった彼女だが、小柄で童顔ゆえにいまも大学生といっても通用しそうな見た目を保っている。確実に四十歳は過ぎているはずの美魔女は、今日もギンガムチェックのシャツとチノパンというラフな格好をしていた。
そんな彼女が病院のパジャマと黄緑色のビニールスリッパの淑乃の場違いな姿を前に呆れた声をあげる。
「よしのちゃん、アタシがいなかったらどうしてたのよ。病院のパジャマとスリッパなんて、パニックムービーのオープニングみたい……」
「通報されますね、さすがにこれじゃ」
乾いた笑みを浮かべながらボタンをはずしていく淑乃をちらりと見やり、白炭はやれやれと息をつく。
「前言撤回するわ。精神病棟から逃げ出してきた強迫神経症患者」
「……先輩、今日は無駄に鋭いですね。なんか変なものでも食べました?」
「おかしいのはよしのちゃんの方じゃないの? 恋なんかしないって言ってたあんたが昨日の夜はオトコ連れて隠れ家に来るし、今朝は大学病院のパジャマとスリッパで逃走劇。何があったの? トーヤくんは?」
「説明するといろいろ面倒くさいんです……」
「カウンセラーって面倒ね。他人のはなしは聞き上手なのに自分のこととなると貝みたいに口閉じちゃって」
「余計なお世話です」
衣装が入ったボックスから白衣と白いワンピースを取り出した淑乃は、そそくさと着替えながら白炭の言葉を受け流す。
「それ、サイズが小さいわよ。よしのちゃんが着るとミニスカドレスみたい」
「この上に白衣羽織るんで問題ないです……なんで白いドレスばっかりなんですか。もっとふつうの衣装ないの?」
「次回のハイスピーディームーンの演目が『七人の花嫁』なのよ。ドレスの試作品たくさん作ったんだけど監督に肌出しすぎって文句言われてさぁ、無駄になっちゃったの。せっかく形にしたのにすぐに断裁するのももったいないからしまっておいたんだけど、ちょうどよかった。よしのちゃんに免じて一着あげるわ……ってこれに白衣羽織るの?」
「白衣があればそんなに目立たないですよ。あと、このサンダル借りますね」
「なんか新米女医のコスプレになってるけど」
「白衣はコスプレ衣装じゃありません。あたしの戦闘服なんです」
うんざりした表情の淑乃をあっさり切り捨て、白炭は脱ぎ捨てられたパジャマを拾い上げていく。
「このあとどうするのよ」
「そうですね、病院に戻ります」
「へんなとこ律儀よね。逃げ出してきたのに」
「逃げたのは一時的なことです。白衣を着たら落ち着きました」
「そこ落ち着くところじゃないと思う……まったく」
困惑する白炭を無視して、淑乃は満足そうに等身大の鏡に自分の姿を映し出す。ミニスカ丈のウェディングドレスは三十二歳の自分には痛い格好だが、白衣でカバーすれば問題なし。素足にナースサンダルは病院のスリッパよりも履き心地がいいし、脱げることなく走ることができる。さきほどまでの死にたくなるような絶望感はどこへやら、鏡に映る自分はふだんの明るく楽観的な淑乃だ。
「まあ、心理療法でもあるっていうしね。メイクで自分をアゲるとか、いつもとは違う自分を演出するとか」
「そういうこと」
「よしのちゃんが元気になったならいいわ。ただ、肝心の事情がわからないわ。先日のオトコ、むかしよしのちゃんが付き合ってた海堂の御曹司の兄の方でしょう? 弟には知らせていない場所に彼を連れてきて、イチャついてたじゃない」
海堂一族の御曹司兄弟の存在は地元に長く暮らす人間に知れ渡っている。長年大学に入り浸っている白炭もまた、学生のころから海堂兄弟を遠くで観察していたひとりだ。淑乃が学生時代に朔と付き合っていたことも当然知っている。
「……そこは知らないふりしてくださいよ」
「別によしのちゃんが誰と付き合おうが文句言わないけどさ。トーヤくんのこと、ちゃんとしなさいよ」
「トーヤはわかってると思うんです……サクくんが父親だってこと」
「それで、海堂一族に息子を託して自分は逃げようなんて思ったの?」
「ニュアンス的にそんな感じ」
「そしたら弟に襲われた、と」
「そっちが先」
「……あー、つまり兄とよりを戻したらそれを快く思わない弟に襲われて病院に運ばれてそこから逃げ出した?」
「さすが先輩。よくわかりましたね」
「いやわかってないから。海堂弟は一時期劇団でも女性問題で騒がれてたからなぁ……そーかそーか。で、最後までしちゃったの?」
「それはない、です……サクくんが助けに来てくれたから」
睡眠薬を口移しで飲まされて、意識が朦朧としてきたなか、着ていた服を脱がされて……このまま流されるのはダメだと気力を振り絞って暁に向けて頭突きをしたのと同時に、朔の声がして、彼のコートに身体を包み込まれたのは覚えている。
ただ、目を覚ました場所が病院の仮眠室で、井森が心配そうに顔を覗き込んでて、その顔がかつての母親に見えて錯乱して。
記憶が一時的に過去と混在してしまった。
そして鎮静剤を打たれて一時的にあたまのなかで悪いことばかり再生されて、苦しくなったのだ。
「じゃあ、どうして逃げ出したの? 海堂兄と復縁してめでたしめでたしでいいと思うんだけど」
「……あたし、香宮のさいごのひとりだから。それで身を引いたんですよ」
「それは院時代にきいた。いまのよしのちゃんの気持ちをアタシはきいてるの」
「いま?」
「そ。あたしはひとりで生きていける、ってずっと頑張ってたよしのちゃんだから、アタシはすきなひとと結ばれてもっともっと幸せになって欲しいなぁって思うんだけどね……相手が大企業の御曹司で過去に因縁があるとなると、そこで引っかかっちゃうの? あたしが知ってるよしのちゃんはそこまで弱くないと思ったんだけど」
「先輩、買いかぶりすぎです。あたしはトーヤをまもるために強くなろうと努力しているだけ……そうじゃなきゃこんなふうに逃げ出さないでしょう?」
鎮静剤の効果が切れたからか、いまの淑乃は自己分析をするだけの余裕が持てるようになっていた。
けれど、強がっているのに疲れたのは事実で、そこから逃げ出した自分と向き合うまでには至っていない。
そんな淑乃を見て、白炭がやさしく諭す。
「パジャマから白衣に着替えて、心機一転したでしょ。ちゃんと海堂兄と話しておいで」
「……でも」
「トーヤくんだっていきなりママがいなくなっちゃったらパパがあらわれたときよりショック受けると思うし。いつまでもこんなところにいないで、病院に戻ってみなって」
きっと海堂兄、心配していると思うよ、とくすくす笑う白炭に、淑乃もこくりと頷く。
朔のことだから大学敷地内を大声で叫びながら淑乃を探しているんじゃなかろうか。かくれんぼの鬼みたいに。
それはかなり恥ずかしい。病院から逃げ出すなんて幼稚なことをしたのは淑乃の方だけど、いつまでもかくれんぼをしているわけにはいかない。白炭の言うとおりだ。
「先輩ありがと。ちょっとスッキリした」
「無理しないでちゃんと海堂兄に言いたいこと言いなね。仲直りしたらまたお店に来て、ちゃんとアタシに紹介して」
「えー」
「特製ティラミスおごってあげるからさ」
「しかたないなぁ……そのときはお酒もよろしく」
「ジンジャーエールじゃないんだ」
「たまにはいいでしょ。もう立派な大人なんだし」
「立派な大人だと思うなら、とっとと出ていきな!」
まったくもう、ああ言えばこう言うんだからと毒づきながらミニスカウェディングドレスに白衣を羽織った淑乃を部屋から追い出して、白炭は彼女のいなくなった室内でぽつりと呟く。
「待ってるから……今度はトーヤくんも交えて、家族三人でごはんにおいで」
「良かった、いた!」
「あらよしのちゃんじゃないの……こっちに来るなんてどうした? そんな破廉恥な格好で、まさかオトコに襲われた?」
「似たようなもんよ。いいから着替えちょーだい」
「ったく、衣装なら腐るほどあるから適当に見繕いなさい」
「ありがと、白炭先輩」
アートカフェ&レストランバー『ホワイトチョーク』の店長、白炭蘭は沓庭大学芸術学部を卒業後にアートを愛する学生たちのための隠れ家をオープンさせた張本人だが、店を開けていないときはたいていクラブハウスにある美術室で悠々自適に過ごしている。この、『アート集団ナヒト』のメンバーが集って制作をするための部屋はふだん鍵をかけられているが、サークルの名誉会員である白炭はこの部屋の主として認められているため、鍵を扱える立場にいるのだ。
絵画だけでなく演劇の舞台装置も制作する彼女は他サークルの舞台美術責任者としての評価も高く、衣装や小道具も器用に作るので、後輩からも一目置かれている。若い頃は舞台で食べていくことも考えていたらしいが、結局舞台は趣味の一環として学生たちと楽しみながら、料理人の主人とともにお店の経営を本業にしているという地に足の着いた生活を送っていた。
淑乃が大学に入学した当時から卒業生だった彼女だが、小柄で童顔ゆえにいまも大学生といっても通用しそうな見た目を保っている。確実に四十歳は過ぎているはずの美魔女は、今日もギンガムチェックのシャツとチノパンというラフな格好をしていた。
そんな彼女が病院のパジャマと黄緑色のビニールスリッパの淑乃の場違いな姿を前に呆れた声をあげる。
「よしのちゃん、アタシがいなかったらどうしてたのよ。病院のパジャマとスリッパなんて、パニックムービーのオープニングみたい……」
「通報されますね、さすがにこれじゃ」
乾いた笑みを浮かべながらボタンをはずしていく淑乃をちらりと見やり、白炭はやれやれと息をつく。
「前言撤回するわ。精神病棟から逃げ出してきた強迫神経症患者」
「……先輩、今日は無駄に鋭いですね。なんか変なものでも食べました?」
「おかしいのはよしのちゃんの方じゃないの? 恋なんかしないって言ってたあんたが昨日の夜はオトコ連れて隠れ家に来るし、今朝は大学病院のパジャマとスリッパで逃走劇。何があったの? トーヤくんは?」
「説明するといろいろ面倒くさいんです……」
「カウンセラーって面倒ね。他人のはなしは聞き上手なのに自分のこととなると貝みたいに口閉じちゃって」
「余計なお世話です」
衣装が入ったボックスから白衣と白いワンピースを取り出した淑乃は、そそくさと着替えながら白炭の言葉を受け流す。
「それ、サイズが小さいわよ。よしのちゃんが着るとミニスカドレスみたい」
「この上に白衣羽織るんで問題ないです……なんで白いドレスばっかりなんですか。もっとふつうの衣装ないの?」
「次回のハイスピーディームーンの演目が『七人の花嫁』なのよ。ドレスの試作品たくさん作ったんだけど監督に肌出しすぎって文句言われてさぁ、無駄になっちゃったの。せっかく形にしたのにすぐに断裁するのももったいないからしまっておいたんだけど、ちょうどよかった。よしのちゃんに免じて一着あげるわ……ってこれに白衣羽織るの?」
「白衣があればそんなに目立たないですよ。あと、このサンダル借りますね」
「なんか新米女医のコスプレになってるけど」
「白衣はコスプレ衣装じゃありません。あたしの戦闘服なんです」
うんざりした表情の淑乃をあっさり切り捨て、白炭は脱ぎ捨てられたパジャマを拾い上げていく。
「このあとどうするのよ」
「そうですね、病院に戻ります」
「へんなとこ律儀よね。逃げ出してきたのに」
「逃げたのは一時的なことです。白衣を着たら落ち着きました」
「そこ落ち着くところじゃないと思う……まったく」
困惑する白炭を無視して、淑乃は満足そうに等身大の鏡に自分の姿を映し出す。ミニスカ丈のウェディングドレスは三十二歳の自分には痛い格好だが、白衣でカバーすれば問題なし。素足にナースサンダルは病院のスリッパよりも履き心地がいいし、脱げることなく走ることができる。さきほどまでの死にたくなるような絶望感はどこへやら、鏡に映る自分はふだんの明るく楽観的な淑乃だ。
「まあ、心理療法でもあるっていうしね。メイクで自分をアゲるとか、いつもとは違う自分を演出するとか」
「そういうこと」
「よしのちゃんが元気になったならいいわ。ただ、肝心の事情がわからないわ。先日のオトコ、むかしよしのちゃんが付き合ってた海堂の御曹司の兄の方でしょう? 弟には知らせていない場所に彼を連れてきて、イチャついてたじゃない」
海堂一族の御曹司兄弟の存在は地元に長く暮らす人間に知れ渡っている。長年大学に入り浸っている白炭もまた、学生のころから海堂兄弟を遠くで観察していたひとりだ。淑乃が学生時代に朔と付き合っていたことも当然知っている。
「……そこは知らないふりしてくださいよ」
「別によしのちゃんが誰と付き合おうが文句言わないけどさ。トーヤくんのこと、ちゃんとしなさいよ」
「トーヤはわかってると思うんです……サクくんが父親だってこと」
「それで、海堂一族に息子を託して自分は逃げようなんて思ったの?」
「ニュアンス的にそんな感じ」
「そしたら弟に襲われた、と」
「そっちが先」
「……あー、つまり兄とよりを戻したらそれを快く思わない弟に襲われて病院に運ばれてそこから逃げ出した?」
「さすが先輩。よくわかりましたね」
「いやわかってないから。海堂弟は一時期劇団でも女性問題で騒がれてたからなぁ……そーかそーか。で、最後までしちゃったの?」
「それはない、です……サクくんが助けに来てくれたから」
睡眠薬を口移しで飲まされて、意識が朦朧としてきたなか、着ていた服を脱がされて……このまま流されるのはダメだと気力を振り絞って暁に向けて頭突きをしたのと同時に、朔の声がして、彼のコートに身体を包み込まれたのは覚えている。
ただ、目を覚ました場所が病院の仮眠室で、井森が心配そうに顔を覗き込んでて、その顔がかつての母親に見えて錯乱して。
記憶が一時的に過去と混在してしまった。
そして鎮静剤を打たれて一時的にあたまのなかで悪いことばかり再生されて、苦しくなったのだ。
「じゃあ、どうして逃げ出したの? 海堂兄と復縁してめでたしめでたしでいいと思うんだけど」
「……あたし、香宮のさいごのひとりだから。それで身を引いたんですよ」
「それは院時代にきいた。いまのよしのちゃんの気持ちをアタシはきいてるの」
「いま?」
「そ。あたしはひとりで生きていける、ってずっと頑張ってたよしのちゃんだから、アタシはすきなひとと結ばれてもっともっと幸せになって欲しいなぁって思うんだけどね……相手が大企業の御曹司で過去に因縁があるとなると、そこで引っかかっちゃうの? あたしが知ってるよしのちゃんはそこまで弱くないと思ったんだけど」
「先輩、買いかぶりすぎです。あたしはトーヤをまもるために強くなろうと努力しているだけ……そうじゃなきゃこんなふうに逃げ出さないでしょう?」
鎮静剤の効果が切れたからか、いまの淑乃は自己分析をするだけの余裕が持てるようになっていた。
けれど、強がっているのに疲れたのは事実で、そこから逃げ出した自分と向き合うまでには至っていない。
そんな淑乃を見て、白炭がやさしく諭す。
「パジャマから白衣に着替えて、心機一転したでしょ。ちゃんと海堂兄と話しておいで」
「……でも」
「トーヤくんだっていきなりママがいなくなっちゃったらパパがあらわれたときよりショック受けると思うし。いつまでもこんなところにいないで、病院に戻ってみなって」
きっと海堂兄、心配していると思うよ、とくすくす笑う白炭に、淑乃もこくりと頷く。
朔のことだから大学敷地内を大声で叫びながら淑乃を探しているんじゃなかろうか。かくれんぼの鬼みたいに。
それはかなり恥ずかしい。病院から逃げ出すなんて幼稚なことをしたのは淑乃の方だけど、いつまでもかくれんぼをしているわけにはいかない。白炭の言うとおりだ。
「先輩ありがと。ちょっとスッキリした」
「無理しないでちゃんと海堂兄に言いたいこと言いなね。仲直りしたらまたお店に来て、ちゃんとアタシに紹介して」
「えー」
「特製ティラミスおごってあげるからさ」
「しかたないなぁ……そのときはお酒もよろしく」
「ジンジャーエールじゃないんだ」
「たまにはいいでしょ。もう立派な大人なんだし」
「立派な大人だと思うなら、とっとと出ていきな!」
まったくもう、ああ言えばこう言うんだからと毒づきながらミニスカウェディングドレスに白衣を羽織った淑乃を部屋から追い出して、白炭は彼女のいなくなった室内でぽつりと呟く。
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