年下御曹司は白衣の花嫁と極夜の息子を今度こそ! 手放さない
Chapter,2_13. おじさんと番犬と消えた淑女
目を覚ましたとき、灯夜を見つめていたのは母親ではなく、ひとりの男性だった。どこかで見たような記憶はあれど、寝起きの灯夜は思い出せずにいる。暁おにいちゃん? それにしては髪と瞳の色が黒いし、老けている感じがする。
自分の父親であることなど夢にも思わず、暁よりも年配の疲れ切った表情の青年を前に灯夜は不躾に問いかける。
「おじさん、誰?」
* * *
「……実の息子におじさんって呼ばれた」
「そりゃあそうでしょう。灯夜くんは貴方のことを知らないんですから」
がっくりと肩を落とす朔を見て、篠塚がくすくす笑う。マンションのエントランスで顔を合わせて以来、彼はなにかと朔を気にかけてくれる。暁が「よしのさんが篠塚先生にとられちゃう」と騒いでいたのは単純に灯夜が暁よりも篠塚の方がパパっぽいと口にしていたからで、彼自身はそこまで淑乃に執心というわけではないらしい。
ただ、仕事の同僚として淑乃たちを家族のように大切に想っているというのは事実で、暁の行き過ぎた干渉を避けるために自分が障壁の役割を担っていたことは認めている。病院の母子寮からオートロックのあるマンションへ住む場所を移させたのも篠塚で、淑乃がひとり出かける用事があるときは自らすすんで灯夜と留守番に興じていたという。そのこともあって、灯夜は彼のことをパパと呼んでいるのだろう。
「……篠塚先生は」
「僕は淑乃ちゃんの番犬みたいなものですよ。暁くんと違うのは、彼女が僕にお願いしてきたってことかな」
「番犬」
篠塚は淑乃と灯夜が生活するスペースに暁が入り込まないよう傍で見張っていたのだと笑う。その代わり、同じ間取りを持つ彼の部屋には留守番をしている灯夜の遊び相手として何度か入れていたそうだ。
「淑乃ちゃんが灯夜くんを一人で育てていたのはDV夫から逃げたからだと……暁くんは彼女を追う兄の手下だと思っていたんです。はじめのうちは」
「手下、って……」
「DV夫の素質があるのは暁くんの方だったみたいですね」
どこか棘のある篠塚の言い方に、朔も複雑な気持ちになる。
「あのとき貴方に逢えてよかった。貴方が機転を利かせてくれなければ……」
「それは俺の方からも言いたいです」
「だけど僕は兄弟喧嘩の仲裁に間に合わなかったよ」
「……それは仕方ないです」
淑乃をぎりぎりのところで救い出した朔だったが、暁を追い出した後、どうすればいいか途方に暮れていたのも事実である。そこへ飄々と現れたのが、マンションの大家で五階に住んでいた淑乃の同僚、精神科医の篠塚だ。淑乃の部屋のオートロックが人為的に効かなくなったことをシステムが感知したため、渋々乗り込んできたのだというが、実際のところは兄弟の修羅場に興味津々だったらしい。
ところがそこで彼が見たのは子ども部屋で死んだように眠る灯夜とコートに包まれたまま眠っている淑乃を大切に抱え込んで立ち尽くしていた朔の姿。すでに淑乃をめぐる兄弟喧嘩は終わっており、暁の姿は消えていた。
朔は篠塚が来たことで我に却り、何が起きたのかをわかる範囲で説明した。篠塚は暁が持っていた薬を飲まされて乱暴されそうになった淑乃を痛ましそうに見つめ、念の為病院に連れていくよう指示した。
朔は淑乃と離れ難く感じたが、過去に襲われた経験を持つ彼女が同じ目に遭ったショックで取り乱す可能性を示唆され、彼に従った方が良いと判断する。そのまま篠塚の車で緊急外来まで連んでもらい、彼女を病院に預けてきたのである。
「淑乃ちゃんのことはまかせて。目が覚めたら井森から連絡するように言ってあるから。貴方だって知っているでしょう? 彼女が強いこと」
「強い、というよりは強がっているように感じますけど……」
「それでも灯夜くんをここまでひとりで育てたんだ。暁くんのアプローチにも屈しないで、貴方のことを想いつづけながら。それは強がりでもなんでもない」
「……俺は何も知らなかったんです。彼女が子どもをひとりで生んだことも、暁に七年間も監視されていたことも」
「それでも彼女は貴方の存在に支えられていたはず。そうじゃないと僕の求婚を断った理由にならない」
「はぁ……って、求婚!?」
朗らかに「契約結婚しませんか、って提案したんですけど断られちゃいました」と口にする篠塚を前に、朔は目を白黒させる。結婚云々は半ば暁の被害妄想だと思った朔だったが、実際に求婚をほのめかしていたとなると彼が誤解していてもおかしくはない。
「ひとりで灯夜くんを育てると決意していた彼女に父親の利便性を説いても頷いてくれませんでした。けれど、暁くんの監視が外れるまで番犬になってほしいと、それまでなら灯夜くんにパパと呼ばせても構わないからと淑乃ちゃんが頼んできたんです」
「……よしのが?」
「ええ。灯夜くんのほんもののパパは自分とはとうてい身分のつりあわないひとで、彼は大事な局面に立たされているから、彼が無事に立場を強固なものにして自分ではない女性と結ばれるまではこの状況を耐えないといけない。ときが来れば、暁くんの監視はなくなるからと……」
けれどそのときは来なかった。そのかわり、淑乃は想いつづけていた暁の兄で灯夜の父親である朔とよりを戻した。身を引いた淑乃を今度こそ手放さないと決意した朔の事情を知らなかった篠塚だったが、あの夜を境に暁が焦りだしたことには気づいていたという。
「それじゃあ、篠塚先生は俺のことをご存知で」
「職場の淑乃ちゃんを見ていればわかりますよ。あと、灯夜くんも教えてくれましたから」
「彼が?」
「淑乃ちゃんは灯夜くんにあの夜誰と逢っていたか、ちゃんと伝えています。暁くんのお兄さんで、ママがずっとすきなひとだって」
――ママがずっとすきなひと。
「灯夜くんは賢い子です。こうしてみると仕草とか雰囲気が貴方によく似ていますね。やはり遺伝子がなせる技なんでしょうかね。ふだんはおとなしいけれど妙に鋭いところがあって……母親が浮かれていることを不安そうにしてましたよ」
「ああ」
おじさん、と呼ばれて何も言えなくなった朔だったが、もしかしたら灯夜は自分を試していたのかもしれない。自分と同じ真っ黒な髪と瞳を持つおじさんが、何者なのか気づかないふりをして。
そんな灯夜もいまは篠塚の後輩医師に連れられて病院の小児科で検査を受けている。暁が淑乃につかった睡眠薬を灯夜にもつかったのではないかと篠崎が心配したからだ。成分が残っていないか確認するだけだというが、問題なければ昼には戻ってくるだろう。
住人二人がいなくなった淑乃の部屋で朔は篠塚の言葉を反芻する。
「よしのが、浮かれていた……?」
「はい」
と、そこへ電子音が響く。篠塚がポケットから携帯電話を取り出し素早く通話ボタンを押せば、甲高い女性の声が虚空に溶ける。
『篠塚先生、井森です……よし……香宮先生、意識を取り戻しました』
篠塚の携帯から聞こえる井森の声が伝えてきたのは、淑乃が覚醒したという報せ。
『けど……ショック状態にあったからか、取り乱してしまって』
篠塚の表情が凍りつき、朔を気の毒そうに見つめる。想像していたよりも悪いことが起きている? 朔が篠塚の携帯を奪い取り、「もしもし?」と低い声でかわれば、井森が『海堂さん?』と驚きの声をあげ黙り込む。
「よしのは無事なのか!?」
「朔くん」
『……身体は問題なかった、です』
「じゃあ」
『一時的に記憶が混濁していたみたいで……鎮静剤を投与して、落ち着いたんですけど目をはなした隙に、ふらりといなくなっちゃったんです! まだ安静にしていないといけないのに……』
「――探してくる」
『へ?』
携帯電話を篠塚に手渡した朔はそのまま慌てて身支度を整え、唖然とする篠塚と電話の向こうにいる井森を置いて、弾丸のように部屋を飛び出していた。
意識を取り戻した淑乃が病院から姿を消した――なぜ?
朔はあたまをフル回転させながら淑乃が向かいそうな場所を脳内で羅列していく。大学病院、医学部棟、診療所、大学院、小ホール、芸術学部棟、理学部棟、そして学生寮――そこからまだ大学敷地内にいるはずだと推測した朔は、一目散に走り出す。
彼女の無事を祈りながら。
自分の父親であることなど夢にも思わず、暁よりも年配の疲れ切った表情の青年を前に灯夜は不躾に問いかける。
「おじさん、誰?」
* * *
「……実の息子におじさんって呼ばれた」
「そりゃあそうでしょう。灯夜くんは貴方のことを知らないんですから」
がっくりと肩を落とす朔を見て、篠塚がくすくす笑う。マンションのエントランスで顔を合わせて以来、彼はなにかと朔を気にかけてくれる。暁が「よしのさんが篠塚先生にとられちゃう」と騒いでいたのは単純に灯夜が暁よりも篠塚の方がパパっぽいと口にしていたからで、彼自身はそこまで淑乃に執心というわけではないらしい。
ただ、仕事の同僚として淑乃たちを家族のように大切に想っているというのは事実で、暁の行き過ぎた干渉を避けるために自分が障壁の役割を担っていたことは認めている。病院の母子寮からオートロックのあるマンションへ住む場所を移させたのも篠塚で、淑乃がひとり出かける用事があるときは自らすすんで灯夜と留守番に興じていたという。そのこともあって、灯夜は彼のことをパパと呼んでいるのだろう。
「……篠塚先生は」
「僕は淑乃ちゃんの番犬みたいなものですよ。暁くんと違うのは、彼女が僕にお願いしてきたってことかな」
「番犬」
篠塚は淑乃と灯夜が生活するスペースに暁が入り込まないよう傍で見張っていたのだと笑う。その代わり、同じ間取りを持つ彼の部屋には留守番をしている灯夜の遊び相手として何度か入れていたそうだ。
「淑乃ちゃんが灯夜くんを一人で育てていたのはDV夫から逃げたからだと……暁くんは彼女を追う兄の手下だと思っていたんです。はじめのうちは」
「手下、って……」
「DV夫の素質があるのは暁くんの方だったみたいですね」
どこか棘のある篠塚の言い方に、朔も複雑な気持ちになる。
「あのとき貴方に逢えてよかった。貴方が機転を利かせてくれなければ……」
「それは俺の方からも言いたいです」
「だけど僕は兄弟喧嘩の仲裁に間に合わなかったよ」
「……それは仕方ないです」
淑乃をぎりぎりのところで救い出した朔だったが、暁を追い出した後、どうすればいいか途方に暮れていたのも事実である。そこへ飄々と現れたのが、マンションの大家で五階に住んでいた淑乃の同僚、精神科医の篠塚だ。淑乃の部屋のオートロックが人為的に効かなくなったことをシステムが感知したため、渋々乗り込んできたのだというが、実際のところは兄弟の修羅場に興味津々だったらしい。
ところがそこで彼が見たのは子ども部屋で死んだように眠る灯夜とコートに包まれたまま眠っている淑乃を大切に抱え込んで立ち尽くしていた朔の姿。すでに淑乃をめぐる兄弟喧嘩は終わっており、暁の姿は消えていた。
朔は篠塚が来たことで我に却り、何が起きたのかをわかる範囲で説明した。篠塚は暁が持っていた薬を飲まされて乱暴されそうになった淑乃を痛ましそうに見つめ、念の為病院に連れていくよう指示した。
朔は淑乃と離れ難く感じたが、過去に襲われた経験を持つ彼女が同じ目に遭ったショックで取り乱す可能性を示唆され、彼に従った方が良いと判断する。そのまま篠塚の車で緊急外来まで連んでもらい、彼女を病院に預けてきたのである。
「淑乃ちゃんのことはまかせて。目が覚めたら井森から連絡するように言ってあるから。貴方だって知っているでしょう? 彼女が強いこと」
「強い、というよりは強がっているように感じますけど……」
「それでも灯夜くんをここまでひとりで育てたんだ。暁くんのアプローチにも屈しないで、貴方のことを想いつづけながら。それは強がりでもなんでもない」
「……俺は何も知らなかったんです。彼女が子どもをひとりで生んだことも、暁に七年間も監視されていたことも」
「それでも彼女は貴方の存在に支えられていたはず。そうじゃないと僕の求婚を断った理由にならない」
「はぁ……って、求婚!?」
朗らかに「契約結婚しませんか、って提案したんですけど断られちゃいました」と口にする篠塚を前に、朔は目を白黒させる。結婚云々は半ば暁の被害妄想だと思った朔だったが、実際に求婚をほのめかしていたとなると彼が誤解していてもおかしくはない。
「ひとりで灯夜くんを育てると決意していた彼女に父親の利便性を説いても頷いてくれませんでした。けれど、暁くんの監視が外れるまで番犬になってほしいと、それまでなら灯夜くんにパパと呼ばせても構わないからと淑乃ちゃんが頼んできたんです」
「……よしのが?」
「ええ。灯夜くんのほんもののパパは自分とはとうてい身分のつりあわないひとで、彼は大事な局面に立たされているから、彼が無事に立場を強固なものにして自分ではない女性と結ばれるまではこの状況を耐えないといけない。ときが来れば、暁くんの監視はなくなるからと……」
けれどそのときは来なかった。そのかわり、淑乃は想いつづけていた暁の兄で灯夜の父親である朔とよりを戻した。身を引いた淑乃を今度こそ手放さないと決意した朔の事情を知らなかった篠塚だったが、あの夜を境に暁が焦りだしたことには気づいていたという。
「それじゃあ、篠塚先生は俺のことをご存知で」
「職場の淑乃ちゃんを見ていればわかりますよ。あと、灯夜くんも教えてくれましたから」
「彼が?」
「淑乃ちゃんは灯夜くんにあの夜誰と逢っていたか、ちゃんと伝えています。暁くんのお兄さんで、ママがずっとすきなひとだって」
――ママがずっとすきなひと。
「灯夜くんは賢い子です。こうしてみると仕草とか雰囲気が貴方によく似ていますね。やはり遺伝子がなせる技なんでしょうかね。ふだんはおとなしいけれど妙に鋭いところがあって……母親が浮かれていることを不安そうにしてましたよ」
「ああ」
おじさん、と呼ばれて何も言えなくなった朔だったが、もしかしたら灯夜は自分を試していたのかもしれない。自分と同じ真っ黒な髪と瞳を持つおじさんが、何者なのか気づかないふりをして。
そんな灯夜もいまは篠塚の後輩医師に連れられて病院の小児科で検査を受けている。暁が淑乃につかった睡眠薬を灯夜にもつかったのではないかと篠崎が心配したからだ。成分が残っていないか確認するだけだというが、問題なければ昼には戻ってくるだろう。
住人二人がいなくなった淑乃の部屋で朔は篠塚の言葉を反芻する。
「よしのが、浮かれていた……?」
「はい」
と、そこへ電子音が響く。篠塚がポケットから携帯電話を取り出し素早く通話ボタンを押せば、甲高い女性の声が虚空に溶ける。
『篠塚先生、井森です……よし……香宮先生、意識を取り戻しました』
篠塚の携帯から聞こえる井森の声が伝えてきたのは、淑乃が覚醒したという報せ。
『けど……ショック状態にあったからか、取り乱してしまって』
篠塚の表情が凍りつき、朔を気の毒そうに見つめる。想像していたよりも悪いことが起きている? 朔が篠塚の携帯を奪い取り、「もしもし?」と低い声でかわれば、井森が『海堂さん?』と驚きの声をあげ黙り込む。
「よしのは無事なのか!?」
「朔くん」
『……身体は問題なかった、です』
「じゃあ」
『一時的に記憶が混濁していたみたいで……鎮静剤を投与して、落ち着いたんですけど目をはなした隙に、ふらりといなくなっちゃったんです! まだ安静にしていないといけないのに……』
「――探してくる」
『へ?』
携帯電話を篠塚に手渡した朔はそのまま慌てて身支度を整え、唖然とする篠塚と電話の向こうにいる井森を置いて、弾丸のように部屋を飛び出していた。
意識を取り戻した淑乃が病院から姿を消した――なぜ?
朔はあたまをフル回転させながら淑乃が向かいそうな場所を脳内で羅列していく。大学病院、医学部棟、診療所、大学院、小ホール、芸術学部棟、理学部棟、そして学生寮――そこからまだ大学敷地内にいるはずだと推測した朔は、一目散に走り出す。
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