【コミカライズ配信中!】 婚約破棄後の悪役令嬢~ショックで前世の記憶を思い出したのでハッピーエンド目指します!~
16話:片割れ
「……はぁ」
第一王子主催の夜会から一晩。
やはりまだ心の傷が癒えていなかったのだと、そう思わざるを得なかった。
セゼーク伯爵が、一種の野次馬精神で私に対して酷い言葉をわざと投げつけたことはわかっているが、彼が私の家までを馬鹿にしてきたことが本当に悔しくて、そして申し訳なかった。
私の不祥事さえなければ、クリスト家が悪く言われることもきっとなかっただろう。自分一人ならまだしも、家族にまで迷惑をかけてしまったことを改めて突きつけられて、どうしようもなく過去をやり直すことを願うしかなかった。
「哀れな人」という声が、昨日からずっと頭の中で繰り返し響き続ける。
その言葉の裏にある意味は何か、どうしてあの時の私にそれを言ったのか、誰が言ったのか。
考えたくないと思っても頭は思考を止めてくれず、あの声は繰り返され、その度に喉の奥の辺りが詰まるような気分になる。
朝食もほとんど口にできず、部屋でゆっくりしようと本を開いていたが、目は文字を滑るだけで内容を拾ってくれなかった。
何か気分転換になることでもしようかと思った時に、ドアがノックされる。
「お嬢様、お客様がお見えになっております」
「どなた?」
「お嬢様の髪飾りをお持ちの方で、セルカ様と仰る方です。昨日お嬢様にお会いしたとのことで、今エミーが確認へ向かっております」
「あぁ、確かに昨日会ったわ。支度をするから手伝ってくれる?」
「かしこまりました。失礼致します」
扉を開けて、ヘレナが入ってくる。
どのドレスにするかと聞かれて、私は少し考えた後、落ち着いた屋敷用のものを選んだ。客人ではあるけれど、なんとなくセルカに会うなら格式張ったものではない方が良い気がする。
手早く準備を終えて応接室の一つに向かうと、しばらくしてからセルカが案内されてきた。
「いらっしゃい、セルカ」
「この度はお招き預かり光栄です、アマリリス・クリスト様」
昨日とは違い、一目で上質だとわかるローブを着た彼女は、私の後ろに控えるエミーとヘレナを見て、困ったように笑った。
「早速ですが、実は内密なお話がありまして。よろしければ、侍女のお二人には席を外して頂いても?」
「二人の口の堅さは私が保証できるわ」
「……口の堅い軽いではないのです。アマリリス・クリスト様以外のお耳には、入れられない話でして」
その言葉に、ヘレナが軽く肩を強ばらせた。エミーも自然体でこそいるけれど、わずかに緊張感を漂わせる。
明らかに、何か厄介ごとがあるという口振りだ。
本来なら、ここで二人に外してもらうことは有り得ない。彼女達はただ私の身を周りを世話するだけでなく、私の貴族としての務めを補佐する役割も担っている。そこにはもちろん、交渉などの立ち合いや場合によっては助言をすることなどを含まれる。
しかし、このまま同席させていたら、セルカは絶対に話をしないだろう。
そして私の中に、彼女の話を聞かないという選択肢はなかった。
「わかったわ。エミー、ヘレナ、少し外して頂戴」
「かしこまりました。何かご用命がありましたら、部屋の外で待機しておりますので何なりと」
二人が部屋を出て行き、パタンと扉が閉じられる。
するとセルカは口元をふっと緩めた。
「聞いてもらえるんだ」
「本当に真剣な話のようだったから、この判断が妥当だと思っただけよ。……それより、今日は服装も言葉遣いもきちんとしているのね」
私がそう言うと、セルカは楽しそうに笑い声を上げた。
「実は、今お世話になっている人に公爵令嬢と会いに行くって伝えたら、もっとマシな服を着て行けって言われちゃって。言葉遣いは、侍女さん達に信用してもらえるように一応整えてた」
「もう整えなくて大丈夫なの?」
「そういうの気にする人じゃないんだろうなって思ったから。もし厳しい人だったら、昨日の時点で言ってるはずでしょ?」
「そうね、確かに」
不思議とセルカにこのような態度を取られるのは、どこか心地良かった。
昨日初めて会って、命を救ってもらって、少し会話しただけ。これを"だけ"と評して良いかはわからないが、彼女とは旧知の仲のような気がしてくる。
「改めて、昨日はありがとう。あなたがいなかったら、今私は生きていないわ」
「いえいえ。何事もなくて良かったよ」
「あなたのお陰よ、本当に。お礼にこれを」
用意していた金貨の入った袋を取り出す。
それを押し出すと、セルカは苦笑した。
「正直、私が何もしなくても侍女さんか護衛さんが助けられてたと思うけどね」
「そう、なの?」
「爆発が起きて落っこちるタイミングで私も一緒に下がっていたんだけど、多分あの二人はそれが見えてたから飛び出すのが遅れたんだと思うよ」
護衛の彼ならまだしも、エミーまで飛び出そうとしていたのだと思うと、ゾッとする。
改めてセルカが助けてくれたことに感謝を示そうとすると、彼女が「そういえば」と口を開いた。
「あの後、無事に帰れた?」
「……夜会では一悶着あったけれど、あれから襲撃はなかったわよ」
「ちょっと待って、夜会に出たの!?」
セルカが勢い良く立ち上がり、後ろで一つにまとめられた髪が大きく跳ねた。
「えぇ、出たけれど」
「直前に死にかけたんだよ!?」
「突然欠席したら、家に迷惑がかかるもの」
「迷惑とかそういう次元の話じゃなくて…!」
セルカは言葉に詰まって眉を下げる。
どう返事すればいいかわからない私を、困ったような悲しそうな双眸で見つめた彼女は、前髪をぐしゃりと掻き上げると、溜め息をつきながら座り込んだ。
「……セルカ」
「セルカじゃないの」
「え?」
唐突な言葉に、思わず疑問の声を上げる。
「どういうこと?偽名ってこと?」
「……どこから話せば良いのかな」
鶯色の瞳が、私をしっかり見据える。
一気に真剣さを纏った彼女が息を吸った音に、私の背筋も知らず知らずの内に伸びた。
「私には、前世の記憶があるの」
「前世の……」
突拍子もないその発言に上手く相槌を打てなかったのは、私自身その前世の記憶を持っているからだ。
彼女も、この世界と酷似した『アメジストレイン』という乙女ゲームのことを知っているのかと、そう私が問いかける前にさらに言葉が重ねられる。
「そして私は前世で、キタガワアイカという名前だった」
聞き慣れないはずのその文字列が、頭の奥の靄がかかっているところを刺激した。
そういえば、前世の記憶を取り戻したとは思っていたが、私が思い出せたのは『アメジストレイン』関連のことだけ。
それをプレイしていた私は、「私」は一体何者だったのか。
「っ……」
鈍痛が頭を通り過ぎて、それを誤魔化すために紅茶を口につける。
そんな私を見つめていたセルカ━━━いやアイカと呼ぶべきか。アイカは真っ直ぐな眼差しを私に注ぎながら、まるで何かを測るようにしながら言葉を続けた。
「私には、双子の妹がいた」
「双子の、妹」
「私はこの世界に生まれた時から、キタガワアイカとしての記憶を持っていた。もちろん最初から全部思い出せていたわけじゃないけれど、それでも妹のことを片時も忘れたことはなかった。ずっと、ずっと探してた」
「……妹も転生している保証なんて、ないのに」
「確証があったの」
強くそう断言するアイカに、どうしてか胸がざわつく。
頭痛もいよいよひどくなり、思わず眉を顰めた。
「私の生まれは辺境伯領の端っこだったから、八歳の時に人がたくさん集まる王都に引っ越してきた。そこから色々あって今の雇い主に拾ってもらって、十二歳の時、偶々王城で妹を見つけた」
「……王城ということは、妹は身分が高かったのね」
「そう。孤児の私なんかじゃ近付けない雲の上の人だった。前世の記憶もなさそうだったのもあって、遠くから見守ろうと思って今まで過ごしてきた」
でも、と言うアイカに、見たことのない誰かの姿が重なる。
「ある出来事のせいで、妹は精神的に不安定になって、しかも理由はわからないけれど命も狙われた。……幸運なことに、今の私は魔法の才能に恵まれているから、自分の手で今度こそ、妹を側で守りたいと思ったの」
「守りたい……」
「そう。生まれ変わって今は血の繋がりがなくても、姉として、何よりも大切な片割れのことを守りたい」
ガンガンと記憶の蓋を打ち付けるように頭が痛む。
息が荒くなり、紅茶を再び口に付けようとしたが、手が震えてカップが落ちた。
カーペットに広がる赤茶色の染みに、視界がぼやける。
コンクリート。
広がる赤。
繋いだ手。
最後に言われた言葉。
「……"お姉ちゃん"?」
口をついて出たその呼び名は、私ではなく「私」がかつてアイカを呼んでいたもの。
そうだ。
「私」は前世では日本人として、「北川藍佳」の双子の妹として生きていた。
日本の記憶が一気に溢れ出し、目の前が真っ白になる。たくさんの映像と言葉が、ぶつかり合って渦を巻きながらぐちゃぐちゃに混ざり合い、何もかも意味を為さない。
「私」の笑い声が、不安げな声が、悲しそうな声が、泣き声が、同時に私を包む。私を塗り潰すように、氾濫する情報と感情が押し寄せる。
私と「私」の境界線が曖昧になる。
第三王子殿下に、攻略対象の一人のサーストンに婚約破棄をされたイベントの時の衝撃が比でないくらいに、頭が割れるように痛む。
何かに手をついた感触がするが、今ものを触っているのが自分なのか、それとも私でない別の誰かなのかさえわからなくなる。そんな中でも、走馬灯のように「私」の記憶は流れ続ける。
いくつもの場面が飛び交う中、眼前に無機質な灰色が物凄い速さで迫り、ぶつかると思った瞬間甲高い耳鳴りが響く。
「……っは」
全てが弾けて、目の前に机と茶器が映った。無意識の内に呼吸を止めていたようで、急に息を吸い込んでクラクラする。
視界に白い星がちらついて、体から力が抜けた。崩れ落ちそうになる体を支えていたのは、机の上に大きく乗り出したアイカだった。
「大丈夫?」
「……なん、とか」
「ごめん、私が急に言ったせいで。息は整った?」
「えぇ」
ゆっくりと手が離されて、ソファに沈み込む。
「……ごめんなさい。少し、時間をくれない?」
「もちろん。外そうか?」
「そこで少し待っていて」
断りを入れて、ゆっくり目を閉じた。
真っ暗な瞼の裏に、二人の人影が現れる。
一人は、豪奢なドレスに身を包み、長い銀髪を靡かせる貴族令嬢。
もう一人は、紺のブレザーを着て、黒髪をまとめた高校生。
二人の私。
容姿も、生い立ちも、住む世界も全く違う「私達」。
昨日までだったら、日本での記憶を一部取り戻していたとはいえ、私が誰かと聞かれたら迷いなくアマリリス・クリストだと答えていただろう。なぜなら日本での体験は断片的で、記憶もそこに付随する感情もほとんどなかったからだ。
しかし、かつて私の人生の中核にいた片割れと出会って、あの頃の記憶が鮮明に、私自身の思い出として蘇った。貴族令嬢の私の中に、女子高校生の私が入り混じる。
今の私と過去の私。
全く異なる二人なはずなのに、どちらも紛れもなく私だ。
「……」
でも。
この私は、今ここに生きている私は、アマリリス・クリストだ。
大切な家族と、尽くしたい家と、守らなくてはいけない使用人や職人たちがいる。
前世の記憶を取り戻したとはいえ、大事な人々への想いは変わらない。むしろ、あの頃の後悔が、この想いを強くしている。
「……ねぇアイカ」
「うん。何?」
「あなたが私にどうして欲しいかはわからないけれど、一つだけ伝えさせて欲しいの」
一度息を吐く。
「私は、もうあなたの妹としては生きていない。命を救ってくれたことは本当に感謝しているし、今のあなたとも仲良くしたいとは思っているわ。でも、私はこのクリスト公爵家の長女として、今まで家に支えてもらった分の恩返しをしたいの」
「……こんな気はしてたよ」
アイカが笑みを漏らした。
「本当は、二人で一生暮らしていける分くらいの稼ぎはあるから、どこか郊外に家でも買おうかなって思ってたんだよ。貴族生活に疲れたって言い出したら、私が逃そうとか思ってて」
「それも楽しそうね」
「本気だから。……命が狙われてるかもしれない状況で人が大勢集まるところに出なくちゃいけないのが貴族なら、そんなの辞めればいいのにって思うよ。だから前世のことを思い出したら、付いてきてくれるかなって」
その言葉に、私は即座に返答できなかった。
実際、「お姉ちゃん」と一緒に二人でどこかへ逃げてしまいたいと思わなかったわけではない。昨日夜会で言われたことも相まって、貴族社会にうんざりしている自分もいる。
けれど。
「まだ戦いたいって顔してる」
「え?」
「……前世で戦えなかった分も、戦って。今世も前世も逃げっぱなしの私が言えたことじゃないけど」
アイカはそう言って、机の上に置かれたままの金貨の袋を私の方に押し返す。
「このお金はいいよ」
「でも」
「前世なんて知らない方が幸せだったはずなのに、私が自分のために無理矢理思い出させて、辛い思いをさせた。……というか、多分これからさせることになると思う。だから、あの時助けたのでそれをチャラにしてくれたら嬉しいなって。ダメかな」
「駄目なわけないじゃない。……そもそも、一部は思い出してたの。全ての記憶を取り戻すのも、時間の問題だったはずよ」
「え、そうだったの?」
目を丸くするアイカに頷く。
「あの婚約破棄の時に、前世でやった『アメジストレイン』と重なって、それで」
「……なんだっけ、それ」
そういえば、姉はゲームに興味がなかった。私が乙女ゲームをやっていることは知っていただろうけれど、わざわざタイトルまで確認することはしていなかった。
「乙女ゲーム。偶然だと思うのだけれど、この世界に生きている人たちが登場するの」
「変な偶然だね」
「本当に。神様の悪戯なのかしら」
「そんなことするくらいなら、もっと私たちに得があることして欲しかったけどね」
アイカは肩をすくめて立ち上がる。
「そろそろお暇するよ。侍女さん達も心配してるだろうし」
「また来て頂戴。ゆっくりお茶でもしましょう。いつでも歓迎だから」
「うん。何か困ったことがあったら……あー、連絡先はちょっと教えられないけど、多分しばらく王都にはいるよ」
「そういえば、今仕事は何をやっているの?」
扉に手をかけ、今にも出て行こうとするアイカに尋ねる。
彼女は振り返って苦笑した。
「一応研究者。まぁ、ちょっと魔法ができるだけの一般人だよ」
「……そう」
完全な嘘ではないだろうけれど、今アイカが着ているのは一般人が手に入れられるようなローブでもないし、彼女の魔法の腕もかなり高いはずだ。
明らかに焦点をずらした回答だけれど、特に問い詰める必要性は感じなかった。
きっとこれから何度も会える。
今世では友人として、ゆっくり仲を深めていけばいいのだから。
「見送るわ、アイカ。……あ、セルカと呼んだ方がいいのかしら」
「アイカって呼んで。見送りは大丈夫だよ」
アイカはフードを被り、ヒラヒラと手を振った。
「またね、アマリリス」
「えぇ、また」
胸の奥の、深く沈む息苦しさを押し殺し、私は笑顔を浮かべ、手を小さく振り返した。
第一王子主催の夜会から一晩。
やはりまだ心の傷が癒えていなかったのだと、そう思わざるを得なかった。
セゼーク伯爵が、一種の野次馬精神で私に対して酷い言葉をわざと投げつけたことはわかっているが、彼が私の家までを馬鹿にしてきたことが本当に悔しくて、そして申し訳なかった。
私の不祥事さえなければ、クリスト家が悪く言われることもきっとなかっただろう。自分一人ならまだしも、家族にまで迷惑をかけてしまったことを改めて突きつけられて、どうしようもなく過去をやり直すことを願うしかなかった。
「哀れな人」という声が、昨日からずっと頭の中で繰り返し響き続ける。
その言葉の裏にある意味は何か、どうしてあの時の私にそれを言ったのか、誰が言ったのか。
考えたくないと思っても頭は思考を止めてくれず、あの声は繰り返され、その度に喉の奥の辺りが詰まるような気分になる。
朝食もほとんど口にできず、部屋でゆっくりしようと本を開いていたが、目は文字を滑るだけで内容を拾ってくれなかった。
何か気分転換になることでもしようかと思った時に、ドアがノックされる。
「お嬢様、お客様がお見えになっております」
「どなた?」
「お嬢様の髪飾りをお持ちの方で、セルカ様と仰る方です。昨日お嬢様にお会いしたとのことで、今エミーが確認へ向かっております」
「あぁ、確かに昨日会ったわ。支度をするから手伝ってくれる?」
「かしこまりました。失礼致します」
扉を開けて、ヘレナが入ってくる。
どのドレスにするかと聞かれて、私は少し考えた後、落ち着いた屋敷用のものを選んだ。客人ではあるけれど、なんとなくセルカに会うなら格式張ったものではない方が良い気がする。
手早く準備を終えて応接室の一つに向かうと、しばらくしてからセルカが案内されてきた。
「いらっしゃい、セルカ」
「この度はお招き預かり光栄です、アマリリス・クリスト様」
昨日とは違い、一目で上質だとわかるローブを着た彼女は、私の後ろに控えるエミーとヘレナを見て、困ったように笑った。
「早速ですが、実は内密なお話がありまして。よろしければ、侍女のお二人には席を外して頂いても?」
「二人の口の堅さは私が保証できるわ」
「……口の堅い軽いではないのです。アマリリス・クリスト様以外のお耳には、入れられない話でして」
その言葉に、ヘレナが軽く肩を強ばらせた。エミーも自然体でこそいるけれど、わずかに緊張感を漂わせる。
明らかに、何か厄介ごとがあるという口振りだ。
本来なら、ここで二人に外してもらうことは有り得ない。彼女達はただ私の身を周りを世話するだけでなく、私の貴族としての務めを補佐する役割も担っている。そこにはもちろん、交渉などの立ち合いや場合によっては助言をすることなどを含まれる。
しかし、このまま同席させていたら、セルカは絶対に話をしないだろう。
そして私の中に、彼女の話を聞かないという選択肢はなかった。
「わかったわ。エミー、ヘレナ、少し外して頂戴」
「かしこまりました。何かご用命がありましたら、部屋の外で待機しておりますので何なりと」
二人が部屋を出て行き、パタンと扉が閉じられる。
するとセルカは口元をふっと緩めた。
「聞いてもらえるんだ」
「本当に真剣な話のようだったから、この判断が妥当だと思っただけよ。……それより、今日は服装も言葉遣いもきちんとしているのね」
私がそう言うと、セルカは楽しそうに笑い声を上げた。
「実は、今お世話になっている人に公爵令嬢と会いに行くって伝えたら、もっとマシな服を着て行けって言われちゃって。言葉遣いは、侍女さん達に信用してもらえるように一応整えてた」
「もう整えなくて大丈夫なの?」
「そういうの気にする人じゃないんだろうなって思ったから。もし厳しい人だったら、昨日の時点で言ってるはずでしょ?」
「そうね、確かに」
不思議とセルカにこのような態度を取られるのは、どこか心地良かった。
昨日初めて会って、命を救ってもらって、少し会話しただけ。これを"だけ"と評して良いかはわからないが、彼女とは旧知の仲のような気がしてくる。
「改めて、昨日はありがとう。あなたがいなかったら、今私は生きていないわ」
「いえいえ。何事もなくて良かったよ」
「あなたのお陰よ、本当に。お礼にこれを」
用意していた金貨の入った袋を取り出す。
それを押し出すと、セルカは苦笑した。
「正直、私が何もしなくても侍女さんか護衛さんが助けられてたと思うけどね」
「そう、なの?」
「爆発が起きて落っこちるタイミングで私も一緒に下がっていたんだけど、多分あの二人はそれが見えてたから飛び出すのが遅れたんだと思うよ」
護衛の彼ならまだしも、エミーまで飛び出そうとしていたのだと思うと、ゾッとする。
改めてセルカが助けてくれたことに感謝を示そうとすると、彼女が「そういえば」と口を開いた。
「あの後、無事に帰れた?」
「……夜会では一悶着あったけれど、あれから襲撃はなかったわよ」
「ちょっと待って、夜会に出たの!?」
セルカが勢い良く立ち上がり、後ろで一つにまとめられた髪が大きく跳ねた。
「えぇ、出たけれど」
「直前に死にかけたんだよ!?」
「突然欠席したら、家に迷惑がかかるもの」
「迷惑とかそういう次元の話じゃなくて…!」
セルカは言葉に詰まって眉を下げる。
どう返事すればいいかわからない私を、困ったような悲しそうな双眸で見つめた彼女は、前髪をぐしゃりと掻き上げると、溜め息をつきながら座り込んだ。
「……セルカ」
「セルカじゃないの」
「え?」
唐突な言葉に、思わず疑問の声を上げる。
「どういうこと?偽名ってこと?」
「……どこから話せば良いのかな」
鶯色の瞳が、私をしっかり見据える。
一気に真剣さを纏った彼女が息を吸った音に、私の背筋も知らず知らずの内に伸びた。
「私には、前世の記憶があるの」
「前世の……」
突拍子もないその発言に上手く相槌を打てなかったのは、私自身その前世の記憶を持っているからだ。
彼女も、この世界と酷似した『アメジストレイン』という乙女ゲームのことを知っているのかと、そう私が問いかける前にさらに言葉が重ねられる。
「そして私は前世で、キタガワアイカという名前だった」
聞き慣れないはずのその文字列が、頭の奥の靄がかかっているところを刺激した。
そういえば、前世の記憶を取り戻したとは思っていたが、私が思い出せたのは『アメジストレイン』関連のことだけ。
それをプレイしていた私は、「私」は一体何者だったのか。
「っ……」
鈍痛が頭を通り過ぎて、それを誤魔化すために紅茶を口につける。
そんな私を見つめていたセルカ━━━いやアイカと呼ぶべきか。アイカは真っ直ぐな眼差しを私に注ぎながら、まるで何かを測るようにしながら言葉を続けた。
「私には、双子の妹がいた」
「双子の、妹」
「私はこの世界に生まれた時から、キタガワアイカとしての記憶を持っていた。もちろん最初から全部思い出せていたわけじゃないけれど、それでも妹のことを片時も忘れたことはなかった。ずっと、ずっと探してた」
「……妹も転生している保証なんて、ないのに」
「確証があったの」
強くそう断言するアイカに、どうしてか胸がざわつく。
頭痛もいよいよひどくなり、思わず眉を顰めた。
「私の生まれは辺境伯領の端っこだったから、八歳の時に人がたくさん集まる王都に引っ越してきた。そこから色々あって今の雇い主に拾ってもらって、十二歳の時、偶々王城で妹を見つけた」
「……王城ということは、妹は身分が高かったのね」
「そう。孤児の私なんかじゃ近付けない雲の上の人だった。前世の記憶もなさそうだったのもあって、遠くから見守ろうと思って今まで過ごしてきた」
でも、と言うアイカに、見たことのない誰かの姿が重なる。
「ある出来事のせいで、妹は精神的に不安定になって、しかも理由はわからないけれど命も狙われた。……幸運なことに、今の私は魔法の才能に恵まれているから、自分の手で今度こそ、妹を側で守りたいと思ったの」
「守りたい……」
「そう。生まれ変わって今は血の繋がりがなくても、姉として、何よりも大切な片割れのことを守りたい」
ガンガンと記憶の蓋を打ち付けるように頭が痛む。
息が荒くなり、紅茶を再び口に付けようとしたが、手が震えてカップが落ちた。
カーペットに広がる赤茶色の染みに、視界がぼやける。
コンクリート。
広がる赤。
繋いだ手。
最後に言われた言葉。
「……"お姉ちゃん"?」
口をついて出たその呼び名は、私ではなく「私」がかつてアイカを呼んでいたもの。
そうだ。
「私」は前世では日本人として、「北川藍佳」の双子の妹として生きていた。
日本の記憶が一気に溢れ出し、目の前が真っ白になる。たくさんの映像と言葉が、ぶつかり合って渦を巻きながらぐちゃぐちゃに混ざり合い、何もかも意味を為さない。
「私」の笑い声が、不安げな声が、悲しそうな声が、泣き声が、同時に私を包む。私を塗り潰すように、氾濫する情報と感情が押し寄せる。
私と「私」の境界線が曖昧になる。
第三王子殿下に、攻略対象の一人のサーストンに婚約破棄をされたイベントの時の衝撃が比でないくらいに、頭が割れるように痛む。
何かに手をついた感触がするが、今ものを触っているのが自分なのか、それとも私でない別の誰かなのかさえわからなくなる。そんな中でも、走馬灯のように「私」の記憶は流れ続ける。
いくつもの場面が飛び交う中、眼前に無機質な灰色が物凄い速さで迫り、ぶつかると思った瞬間甲高い耳鳴りが響く。
「……っは」
全てが弾けて、目の前に机と茶器が映った。無意識の内に呼吸を止めていたようで、急に息を吸い込んでクラクラする。
視界に白い星がちらついて、体から力が抜けた。崩れ落ちそうになる体を支えていたのは、机の上に大きく乗り出したアイカだった。
「大丈夫?」
「……なん、とか」
「ごめん、私が急に言ったせいで。息は整った?」
「えぇ」
ゆっくりと手が離されて、ソファに沈み込む。
「……ごめんなさい。少し、時間をくれない?」
「もちろん。外そうか?」
「そこで少し待っていて」
断りを入れて、ゆっくり目を閉じた。
真っ暗な瞼の裏に、二人の人影が現れる。
一人は、豪奢なドレスに身を包み、長い銀髪を靡かせる貴族令嬢。
もう一人は、紺のブレザーを着て、黒髪をまとめた高校生。
二人の私。
容姿も、生い立ちも、住む世界も全く違う「私達」。
昨日までだったら、日本での記憶を一部取り戻していたとはいえ、私が誰かと聞かれたら迷いなくアマリリス・クリストだと答えていただろう。なぜなら日本での体験は断片的で、記憶もそこに付随する感情もほとんどなかったからだ。
しかし、かつて私の人生の中核にいた片割れと出会って、あの頃の記憶が鮮明に、私自身の思い出として蘇った。貴族令嬢の私の中に、女子高校生の私が入り混じる。
今の私と過去の私。
全く異なる二人なはずなのに、どちらも紛れもなく私だ。
「……」
でも。
この私は、今ここに生きている私は、アマリリス・クリストだ。
大切な家族と、尽くしたい家と、守らなくてはいけない使用人や職人たちがいる。
前世の記憶を取り戻したとはいえ、大事な人々への想いは変わらない。むしろ、あの頃の後悔が、この想いを強くしている。
「……ねぇアイカ」
「うん。何?」
「あなたが私にどうして欲しいかはわからないけれど、一つだけ伝えさせて欲しいの」
一度息を吐く。
「私は、もうあなたの妹としては生きていない。命を救ってくれたことは本当に感謝しているし、今のあなたとも仲良くしたいとは思っているわ。でも、私はこのクリスト公爵家の長女として、今まで家に支えてもらった分の恩返しをしたいの」
「……こんな気はしてたよ」
アイカが笑みを漏らした。
「本当は、二人で一生暮らしていける分くらいの稼ぎはあるから、どこか郊外に家でも買おうかなって思ってたんだよ。貴族生活に疲れたって言い出したら、私が逃そうとか思ってて」
「それも楽しそうね」
「本気だから。……命が狙われてるかもしれない状況で人が大勢集まるところに出なくちゃいけないのが貴族なら、そんなの辞めればいいのにって思うよ。だから前世のことを思い出したら、付いてきてくれるかなって」
その言葉に、私は即座に返答できなかった。
実際、「お姉ちゃん」と一緒に二人でどこかへ逃げてしまいたいと思わなかったわけではない。昨日夜会で言われたことも相まって、貴族社会にうんざりしている自分もいる。
けれど。
「まだ戦いたいって顔してる」
「え?」
「……前世で戦えなかった分も、戦って。今世も前世も逃げっぱなしの私が言えたことじゃないけど」
アイカはそう言って、机の上に置かれたままの金貨の袋を私の方に押し返す。
「このお金はいいよ」
「でも」
「前世なんて知らない方が幸せだったはずなのに、私が自分のために無理矢理思い出させて、辛い思いをさせた。……というか、多分これからさせることになると思う。だから、あの時助けたのでそれをチャラにしてくれたら嬉しいなって。ダメかな」
「駄目なわけないじゃない。……そもそも、一部は思い出してたの。全ての記憶を取り戻すのも、時間の問題だったはずよ」
「え、そうだったの?」
目を丸くするアイカに頷く。
「あの婚約破棄の時に、前世でやった『アメジストレイン』と重なって、それで」
「……なんだっけ、それ」
そういえば、姉はゲームに興味がなかった。私が乙女ゲームをやっていることは知っていただろうけれど、わざわざタイトルまで確認することはしていなかった。
「乙女ゲーム。偶然だと思うのだけれど、この世界に生きている人たちが登場するの」
「変な偶然だね」
「本当に。神様の悪戯なのかしら」
「そんなことするくらいなら、もっと私たちに得があることして欲しかったけどね」
アイカは肩をすくめて立ち上がる。
「そろそろお暇するよ。侍女さん達も心配してるだろうし」
「また来て頂戴。ゆっくりお茶でもしましょう。いつでも歓迎だから」
「うん。何か困ったことがあったら……あー、連絡先はちょっと教えられないけど、多分しばらく王都にはいるよ」
「そういえば、今仕事は何をやっているの?」
扉に手をかけ、今にも出て行こうとするアイカに尋ねる。
彼女は振り返って苦笑した。
「一応研究者。まぁ、ちょっと魔法ができるだけの一般人だよ」
「……そう」
完全な嘘ではないだろうけれど、今アイカが着ているのは一般人が手に入れられるようなローブでもないし、彼女の魔法の腕もかなり高いはずだ。
明らかに焦点をずらした回答だけれど、特に問い詰める必要性は感じなかった。
きっとこれから何度も会える。
今世では友人として、ゆっくり仲を深めていけばいいのだから。
「見送るわ、アイカ。……あ、セルカと呼んだ方がいいのかしら」
「アイカって呼んで。見送りは大丈夫だよ」
アイカはフードを被り、ヒラヒラと手を振った。
「またね、アマリリス」
「えぇ、また」
胸の奥の、深く沈む息苦しさを押し殺し、私は笑顔を浮かべ、手を小さく振り返した。
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9,448
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2.4万
-
-
1,000
-
1,512
-
-
148
-
315
-
-
18
-
1
-
-
9
-
2
-
-
2.1万
-
7万
-
-
135
-
159
-
-
17
-
7
-
-
78
-
446
-
-
11
-
15
-
-
5
-
10
-
-
8,191
-
5.5万
-
-
194
-
334
-
-
28
-
3
-
-
186
-
802
-
-
1.3万
-
2.2万
-
-
159
-
267
-
-
13
-
2
-
-
6,681
-
2.9万
-
-
2,534
-
6,825
-
-
116
-
17
-
-
614
-
1,144
-
-
67
-
59
-
-
15
-
5
-
-
33
-
48
-
-
1,652
-
4,503
-
-
4,314
-
8,491
-
-
14
-
8
-
-
31
-
48
-
-
16
-
6
-
-
1,528
-
2,265
-
-
614
-
221
-
-
16
-
0
-
-
56
-
129
-
-
56
-
28
-
-
14
-
1
-
-
1,013
-
2,162
-
-
1,301
-
8,782
-
-
17
-
2
-
-
164
-
253
-
-
4
-
0
-
-
2
-
20
-
-
17
-
2
-
-
10
-
46
-
-
2,799
-
1万
-
-
6,044
-
2.9万
-
-
78
-
310
-
-
31
-
9
-
-
17
-
14
-
-
42
-
14
-
-
30
-
35
-
-
6,199
-
2.6万
-
-
161
-
757
-
-
5
-
1
-
-
62
-
89
-
-
5
-
0
-
-
13
-
0
-
-
2
-
1
-
-
16
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12
-
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4
-
2
-
-
6,675
-
6,971
-
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4,194
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7,854
-
-
2,860
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4,949
-
-
3,224
-
1.5万
-
-
218
-
165
-
-
11
-
1
-
-
86
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288
-
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23
-
3
-
-
15
-
3
-
-
65
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-
-
89
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-
-
7
-
15
-
-
4
-
1
-
-
2
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1
-
-
6
-
45
-
-
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-
157
-
-
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-
6,237
-
3.1万
-
-
7,474
-
1.5万
-
-
408
-
439
-
-
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5,228
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-
29
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52
-
-
270
-
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-
-
220
-
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83
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51
-
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-
-
34
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32
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