【コミカライズ配信中!】 婚約破棄後の悪役令嬢~ショックで前世の記憶を思い出したのでハッピーエンド目指します!~

弓削鈴音

第1話:蘇った記憶

「アマリリス・クリスト、お前との婚約は破棄させてもらう!!」

 大好きな大好きな声が私の耳朶を打った瞬間、脳を電撃が伝った気がした。衝撃が背中を伝って全身に届く。
 頭がぐちゃぐちゃになって、唇が震えて、視界が滲みそうになって、足が震えて倒れそうになるのを堪えて、どうにか視線だけを上げた。
 ぼんやりと焦点の定まらない視界の中、黄金の髪が煌めく。そしてその隣の、珊瑚色。

 今すぐにでも逃げ出したいが、染み付いた社交界のマナーがそうさせない。
 私の貴族令嬢としての十八年間が、ここで後ろも向くことも、顔を下げることも許さなかった。

 前世の記憶を取り戻し、私がもう終わりだということをわかっていても。

「そして、将来の王妃であるララティーナを害したお前は罪を償え!」

 魔法学校の卒業パーティー。
 悪役令嬢である私アマリリス・クリスとは、ヒロインであるララティーナ・ゼンリルを傷つけたことで、第三王子のサーストン・ウィンドールに婚約破棄をされる。それだけでなく、愛しの彼女の前で罪を償うことを求められるのだ。



 そう、私はこの場面を知っている。

 前世の「私」、日本人として生きた「私」がプレイした乙女ゲーム『アメジストレイン』のワンシーン。サーストンルートを選択した時の山場の一つ。
 サーストンの婚約者である悪役令嬢アマリリスを断罪し、晴れて二人が婚約するための第一歩となるのがこのイベントだ。

 このあと二人が辿るであろう幸せなシーンがいくつも頭に浮かんできて、くらりと目眩がする。

「……謹んで申し上げます、第三王子殿下」

 いつの間にか私の傍らにやって来ていた兄上が、私の肩をしっかりと抱えながら、低い声を発した。そのことに、少し気が緩んで思わず体重をかけてしまう。
 心配と怒りで手に力を込める兄上に、大丈夫だと伝えようとするが、喉がカラカラで声が出ない。せめて自分でしっかり立とうと足に力を入れようとするも、私の意思とは別に震える足に力を入れられず、私はただララティーナと手を繋ぐサーストン様を見るしかなかった。

「此度の婚約は、ウィンドール王家と我がクリスト公爵家の間で取り決められたものでございます。第三王子殿下とはいえ、それを反故になさることは叶わないと存じますが」

「確かにアマリリスが俺の婚約者に相応しくあったのであれば、俺の行動は糾弾されるべきものだっただろう」

「……まるでその口ぶりですと、妹が殿下の婚約者に相応しくなかったようですが」

「あぁ、そう言っている」

「殿下っ…!」

 ギリっと兄上が歯を食いしばった音が聞こえてくる。

「他人を貶め、己の利益を優先するような女に、俺の婚約者は務まらない。それに比べて、ここにいるララティーナは心優しく誰にでも優しい━━━」

 靄がかかっている視界では、彼の姿が見えない。
 しかしそれでも脳裏には鮮明に、寄り添うサーストンとララティーナの姿が浮かんでくる。周囲からも祝福され、何よりも二人が幸せそうな……

 私にとっての、悪夢が。

 嫌だ、と子供みたいな拒絶だけが湧き出る。
 大好きなサーストン様を諦めたくはない。ずっと一緒にいたいと、隣で支えたいと思っていた。そのために勉強も怠らなかったし、令嬢として恥のないようにマナーも身につけた。
 魔法学校に入学してからもそれは変わらなかった。
 サーストン様の婚約者として、学校では片時たりとも気を抜かずに過ごした。誤解を生まぬよう、男子生徒とはほとんど話さなかった。サーストン様が生徒会長になると仰った時には副会長に立候補し、常にサーストン様の負担を取り除くように努めた。悪い虫がつかないように、周りの令嬢を牽制したりもした。ララティーナが近付いてきた時も、身の程を知るように注意をした。その注意に従わないから、軽い制裁も加えた。

 ずっとずっとずっと、全部サーストン様のために頑張ってきた。今日のシニヨンの髪型も、ベルラインのドレスも、メイクも、香水も、全てサーストン様が好きだと、気に入っていると仰っていたものだ。
 なのに、なのに。

「なっ…!?」

 兄上の狼狽える声で、沈んでいた意識が浮上した。会話が全部耳を通り抜けていたらしい。サーストン様の言葉を聞き逃すなんて、と思った途端に、もう意味がないのだとやるせない気持ちに襲われた。

 それよりも、兄上は何をこんなに慌てているのだろうと、鈍い思考を巡らせる。思い出したくないと私が叫ぶ中、「私」がこの後に悪役令嬢に待ち受ける仕打ちを思い出す。

「さぁ、切るがいい」

 サーストン様が懐から短剣を取り出し、床に落とした。
 鞘に入ったままのそれが立てた鈍い音に、聴衆と化した卒業生やその関係者が息を呑む音がここまで聞こえてくる。
 サーストン様は短剣を踏みつけると、足でスライドさせる。

 銀色で装飾の施された黒い鞘と、そこに収められた短剣が、私の目の前で止まった。

「これは……」

 兄上が震える。
 そうだろう。だってこれは、私が婚約後の初めてのサーストン様のお誕生日に送ったものなのだから。

 今でもそらんじることができる。何度も何度も、兄上だけでなく家族や侍女に自慢をしたのだから。今日だって、大事なその手紙を朝出かける前に一読したほどだ。
 今この場でもはっきりと、文面だけでなくまだ拙さの残るその字の癖も、記憶の中から描き出せる。まだ婚約したばかりの私が手紙で贈り物の希望を尋ねたところ、こう返ってきたのを。


 ━━あなたを守れる剣を。わたしはまだ未熟な身ですが、いずれあなたも国をも守れる王子へと成長してみせます。どうかそれを、一番近くで見守っていてください。


 あぁ、もうどうでもいい。
 視界がいよいよ滲んで、壁につけられた照明具の光がやけにユラユラし始める。

 アマリリス、と兄上が私の肩を押さえるのを丁寧に振り払い、床に落ちた短剣を拾う。
 私の髪の色に合わせて、黒い鞘に銀色で風の意匠を施してもらった。風はルーヴァン王家、そして我が国の象徴だから、少し気恥ずかしさと畏れ多さもあったけれど、それ以上にサーストン様に喜んで欲しいという気持ちが強かった。

「……なんだ、怖気ついたか」

 視線を落としたまま動かない私に痺れを切らしたのか、サーストン様に声をかけられる。苛立っていらっしゃるのでは、と肩が震えた。

「ただ……ただ、昔を思い出していただけです」

 掠れるような声を絞り出す。

「昔、か」

「わたくしが、この短剣を差し上げた際のこと、覚えていらっしゃいますか…?」

 それは、私の最後の足掻きのようなものだった。
 「私」がこんなの意味がないと、それよりも短気な彼を怒らせる前に済ませた方がいいと訴えかけてくるのを無視して、ひりつく喉から震えながらもどうにかそう尋ねる。

「…………そもそもそれがお前から受け取ったものだったことさえ忘れていた」

 な、と衝撃で頭が真っ白になる。

「覚えていたなら持ち歩かなかったものを。……まぁいい。最後の土産だ。持って帰るといい。自分の髪ごとな」

 周りから、悲鳴に近い息の音が漏れた。

「俺がまだ寛大な処置で許している今の内に早くしろ」

 ダンと片足を踏み出した音が静まり返った会場に響く。
 その紺碧の双眸の中に揺れる強い光に、私は思い知らざるを得なかった。

 あぁ、本当に、本当にこの方は、私を嫌っているのだと。

「お待ちください殿下!ご自分が何を仰っているのかわかっているのですか!?」

「愛する女のためにアマリリスを断罪することの何が悪い」

「アマリリスを、我が公爵家をなんだとお考えか!?」

 兄上が声を荒げた瞬間、サーストン様の気配が大きく膨れ上がった。
 ガタガタと窓が揺れ、置いてあるグラスが倒れ始め、天井に取り付けられている特大のシャンデリアが嫌な音を立てる。

 あぁ、怒らせてはいけないのに。
 これではますますゲーム通りだと、「私」が嘆いた。

「……自分の家が偉いことが重要か?身分があることが大切か?公爵家の生まれであることが誇らしいか?」

 静かに畳み掛けるサーストン様に、兄上は反論する隙も与えられない。

「王族であることが尊いか?魔力が強いことが素晴らしいか?容姿が優れていることが必要か?」

「何、を」

「王子と婚約することがそれほどに大事か?っ……俺を本当に見ていたとお前たちは言えるのか!?」

 サーストン様の感情の荒ぶりと共に、風によって吹き飛ばされたいくつかの食器が割れた音が耳を刺した。
 ほとんどの参加者は反射的に障壁魔法で身を守ったようだったが、その余裕がない私はふらついて膝をつく。

 もうすでに、私が嫌われている、ということはわかっていた。信じられないし受け入れられないけれど、「私」の記憶もあって、そう考えるしかなかった。

 けれど、本当に少しだけ。ほんの少しだけ期待を捨てきれなかったのだ。
 サーストン様が私にこんな態度を取るのは、ララティーナのせいで、あくまで一過性のものだと。まだ、私にも可能性はあると。

 そんな甘い願いも、粉々に砕け散ってしまった。

 兄上に対するそのセリフで、私は確信せざるを得なかったのだ。サーストン様が、私を誤解していること。その誤解が解けないとこと。
 ……そして、サーストン様の心がララティーナにあることを。

 ララティーナはありのままのサーストン様を肯定した。そんな彼女の優しさに触れたサーストン様は、彼女と恋に落ちた。

 よくある内容だと、そう思う。前世の記憶を辿るまでもない。我が国で出回っている恋愛小説でもよくある筋書きだ。
 そんな作品で、元々の婚約者が悪役として描かれるのも珍しいことではない。

 ……この私の悲劇もありふれたものなのだと考えると、涙が溢れそうになる。

「リリィ!!」

 兄上が声をあげて近付こうとするが、強風でそれもままならない。ふらつく足取りで近付こうとするのに私が静かに首を振ると、ぐしゃっと顔を歪めてその場で止まった。

「もう一度言う。……ララティーナを傷付けたその罪を償え、アマリリス。その髪を自ら切り落とすことで」

 風のせいか、それともその冷たい声のせいか。体が傾きそうになるのを、気力だけでどうにか耐える。
 せめて、サーストン様の願い……おそらく最後になるだろうこの願いを叶えたいと、その一心で鞘から短剣を抜いた。
 抜いた途端、鞘が風に乗ってどこかへ行ってしまう。視界から消えていく黒に、どうしてか胸が詰まった。

「さぁアマリリス」

 早くしろ、と催促する声が耳の中でほわんと反響する。
 その声に従うように、私はしっかりと手に力を込めた。

 その短剣は、ギラリと光を反射する。
 やけに生々しいそれを震える手で目線の高さまで持ち上げた。

「……っ、はっ」

 柄から離した左手で、後ろでまとめられている髪を解く。
 髪留めが取れた途端、荒々しい風にさらわれて一瞬視界が自分の髪に覆われた。
 どうにかそれを宥めて、長く伸ばした髪を手で一つにする。全てが収まらず、一回では無理だろうと半分に分けた。

「……」

 絹のような銀。
 生まれてから今の今まで、毛先を整える以外は切ったことのない私の髪。
 光の筋のようだと、川のせせらぎのようだと、星の軌跡のようだと、家族はみんな褒めてくれた。手入れをしてくれる侍女も、すれ違う執事や使用人も、みんな素敵だと微笑んでくれた。

 今日の朝、髪を結ってくれた彼女たちの優しい顔を思い出すと、少し申し訳なくなる。
 でも、これがサーストン様の望みだというのなら。

「っ……」

 美しく長い髪は貴族令嬢の証、命だと初めに言い出したのは誰だろう。

 少なくとも我が国の貴族社会において、手入れされた髪というのが女性の一つの価値であることは事実だ。
 その髪を切るのは、よほどのことが起きたということを意味する。考え得るものとしては、家族や伴侶の死、大病への罹患、大魔法の触媒としての使用。

 そして、私の場合に当てはまるのは、贖罪。

「……お慕いしておりました、サーストン様」

 もう二度とこのように言葉を交わせることはないだろう。だからそれだけ告げて、ギュッと目を閉じる。

 息を吸って一気に力を込めた瞬間。

「……なっ」

「え…?」

 キーンという甲高い金属音が鳴り響き、会場中の風が止んだ。

「【コミカライズ配信中!】 婚約破棄後の悪役令嬢~ショックで前世の記憶を思い出したのでハッピーエンド目指します!~」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「恋愛」の人気作品

コメント

コメントを書く