スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない
スノーホワイトは恋に落ちない
白木 陽芽子、三十二歳。
知らない場所で目覚めたときの第一声が、
「わー……まつげながーい……」
だとは自分でも驚きだ。すぐに『いや、もっと他に言うことあるでしょ』と思ったが、実際は他に何も思いつかなかったのだから仕方がない。
視線を彷徨わせて現在の状況を確認する。少し身体がだるくて頭が痛いが、記憶はちゃんとある。隣で今も寝こけている整った顔と長いまつげの持ち主にされた、昨晩のあれやこれもしっかり記憶している。やたらと『可愛い』と連発されたことを思い出して、つい恥じ入ってしまう。
酒の勢いだったとは言え、ずいぶん思い切ったことをしてしまった気がする。三十二歳といういい歳をして! と思わないことも無いが、逆にそれなりに人生経験を積んだいい歳だから、羽目を外したくなったのかもしれない。
自分でそう結論付けると、腰に絡みつく腕をそうっと外してベッドを出る。未だに眠っている啓五を起こしてしまわないように。
脱がされて放り投げられていた下着とバッグの中のメイク道具を手にして、バスルームに向かう。脱衣場の端に用意されていたアメニティから必要なものを選んで浴室へ入ると、シャワーのコックをキュ、と捻った。
一回分のクレンジングでメイクの残りを撫で落としながら、もう長い間『可愛い』とか『綺麗だ』なんて言われていなかったことを思い出す。半年も付き合ってきた恋人にフラれたのはつい一週間ほど前なのに、元恋人からの褒め言葉はほとんど記憶に残っていない。
背中まであるセミロングの髪を温水で洗い流し、シャンプーを手のひらで泡立てる。シトラスの香りのきめ細かな泡の中に、自分が現在置かれている状況を俯瞰した。
陽芽子は二十三歳になる歳に今の会社に入社し、最初の二年は経理部にいた。その後三年目で異動になってからはずっと同じ部署で、現在すでにお局状態。いや、お局どころか鬼上司の位置付けだ。
自分で言うのも自意識過剰だと思うが、部下には慕われていると思う。ただ、他部署の人は陽芽子の扱いに困っている節がある。
ボディーソープで全身を撫でながら、二週間ほど前に立ち聞きしてしまった噂話を思い出す。それは偶然耳にした、陽芽子を『毒りんごで死なない白雪姫』だと評価する女子社員からの悪口だ。その場で大きなお世話だと言ってやりたかったけれど、波風を立てたくはないので聞かなかったふりをした。
温水で十分に身体を温めて髪の水気を絞ると、良質なタオルで全身に流れる水滴を吸い取る。そんな嫌なことばかり思い出しているはずなのに、あまり気分が落ち込んでいないのは、きっと啓五のお陰だろう。
ドライヤーの轟音に紛れて、またあの甘ったるい囁きが聞こえた気がする。陽芽子の身体も反応も感情も認めてくれるような、強い眼差しと優しい言葉が。
「なんか……恥ずかしい」
あんなにいっぱい『可愛い』なんて言われた経験はない。啓五は一晩に同じ台詞を何回呟いたのだろう。気まぐれや冗談だとしても、恥ずかしくはないのだろうか。言われているこっちはかなり恥ずかしかったと言うのに。
そんな事を考えながら、髪の乾燥と簡単なメイクを済ませてバスルームを出る。扉が開く音に反応したのか、それとも最初から起きていたのか、ベッドに近付くと啓五がのそりと身体を起こした。
「陽芽子」
まだ少し眠そうな低い声で名前を呼ばれる。聞きなれたはずの自分の名前にさえ、身体がぴくっと反応してしまう。昨日たくさん名前を呼ばれた状況を、無意識のうちに思い出してしまう。
「ごめんなさい。起こしちゃった?」
「いや、いいよ。いま何時?」
平静を装いながら笑顔を作ると、啓五が時間を訊ねてきた。
改めて見回すと部屋はかなり広い造りで、ずいぶんな贅沢を味わっているのだと気が付く。
サイドボードに嵌め込まれている木製の時計を確認すれば、現在の時刻は午前十時。一般的なビジネスホテルならもうチェックアウトの時間だ。
「朝食は終わってるか。ここの、美味いんだけどな」
「そうなんだ」
くあぁ、と猫みたいな欠伸を噛み殺す啓五の呟きに、感心して頷く。その台詞から彼が以前もこのホテルを利用したことがあることと、チェックアウトの時間にさほど焦っていないことが窺い知れた。
陽芽子は啓五の正確な年齢を知らないが、言動からはかなり遊び慣れた様子が感じられる。女性をホテルに誘うことに物怖じしないことからも、女性を丁寧に扱うことからも。
うーん、侮れない。
なんて苦笑していると、急に啓五の手が伸びてきた。気付くより先に腕を引っ張られ、そのままポスンと裸の腕に抱かれてしまう。
「えっ、ちょ……何!?」
「陽芽子。昨日……すげー可愛かった」
唐突に告げられた言葉に、びっくりよりも恥ずかしいの方が早かった。思わず顔が熱くなる。
「っ、あ……りがと……?」
「照れてんの? 可愛いな」
目線を合わせないように顔を背けると、つむじの辺りにくすくすと笑う声が落ちてきた。だからなんでそんなに『可愛い』ばかり言うのだろう。恥ずかしくは、ないのだろうか。
恐らく真っ赤になっているであろう顔を隠すため、さっさとベッドから降りようとした。しかし逃げようとした動きを読んでいたのか、陽芽子の次の行動は簡単に妨げられた。
「陽芽子」
名前を呼ばれて顔を上げる。
昨日、散々見つめ合ったはずの三白眼と再び目が合うと、そこに僅かな熱が宿っていると気が付いた。
「俺の恋人にならない?」
「……へ?」
ふと耳に届いた言葉に、思わず変な声が出た。
たっぷり三秒は見つめ合う。
ぱちぱちと瞬きをする。
それから思わず、笑ってしまう。
モデルかアイドルなんじゃないかと思うほどの強い存在感と目力を持つくせに、意外な冗談を言うものだから。
「えー、思ってないでしょ」
「いや……結構、本気なんだけど」
怪しい間を残したままポツリと呟く言葉に、直前まで感じていた恥ずかしさはあっという間に消えてしまう。成人男性に対して失礼だとは思うが、可愛いなぁ、なんて思ってしまう。
「俺は絶対に浮気なんてしないから」
さらに続けられたその口調は、少しだけ必死だった。そして啓五が必死な理由にもすぐに気が付く。
「ふふっ……啓五くんは、優しいね」
啓五は陽芽子の失恋の傷を癒して、励まそうとしてくれる。陽芽子が恋愛に対する前向きな姿勢と自信を取り戻すために協力してくれる。その気持ちが嬉しい。
「でも大丈夫だよ。昨日いっぱい慰めてもらったから、もう元気出た」
陽芽子は昨日、その優しさに十分に甘えた。背中を押されて、癒された。だからもう心配しなくても大丈夫だ。
「ありがと。また頑張って、恋してみるね」
「………そう」
最後の呟きが本気でつまらなさそうに聞こえたのは、きっと陽芽子の気のせいだった。
*****
啓五に支払いは不要だと言われたので、それが男のプライドなのだろうと思い、黙って受け取ることにした。シャワーを浴びると言う彼と部屋で別れて、エレベーターで一階に降りる。
途中までは浮かれ気分の陽芽子だったが、扉が開いた瞬間、ロビーの空気感が自分の知るビジネスホテルのものとはかなり異なると気が付いた。
やけに広い開放感のあるエントランス。こちらに気付いて、にこりと笑顔を浮かべながら頭を下げるコンシェルジュ。土曜日の午前、けれど決して早い時間ではないのに仕事用スーツ姿の自分……明らかに場違いな存在であることはすぐに理解する。
慌ててロビーから外へ出たところで気が付いてしまう。首を動かしてホテルの名前を確認した陽芽子は、驚きのあまりその場で三センチほど飛び上がった。
国内でも有数のハイエンドホテル。一般庶民が思いつきで急に宿泊できるような場所ではない紛れもない高級ホテル。陽芽子はただの一般庶民だが、ホテルの格付けぐらいは理解している。
(あの人、いったい何者……?)
―――なんだか、狐につままれた気分だ。
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