スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない

紺乃 藍

恋と愛を結んで 前編

 言った。
 確かにデートをすると約束はした。

 でもこんな状況なんて想定していない。

 夜景が美しいホテルの最上階レストランの特等席に座らされて、一品の料理名が三行にもなる料理を次々と並べられ、値段のついていない高級ワインを注がれる状況なんて想像できるはずがない。

 服装は気にしなくていいと言われたので『まさか』とは思ったが、ちゃんと落ち着いた印象のワンピースを選んでよかったと思う。啓五の言葉を鵜呑みにしていたら、今ごろ仕事あがりのくたびれたスーツ姿でこの場所に座っていたのだ。改めてその状況を想像すれば、冷や汗しか出てこない。

「口に合わなかった?」
「ううん……すごく美味しいよ」

 運ばれてくる料理は見た目も鮮やかで美しく、どれも感嘆するほどに美味しい。口に合わないのではなく、食べるのが勿体なくてただただ恐縮しているだけだ。

 そんな陽芽子の困惑を感じ取っているはずなのに、啓五の表情はずっと楽しそうなままだ。まるで陽芽子の反応も味わうような笑顔を向けられ、また少しだけ照れてしまう。

 啓五の態度はいつも余裕たっぷりだ。
 陽芽子よりも、年下のはずなのに。

「そう言えば飲んでる姿はよく見るけど、食べてるとこ見るの初めてだね」

 余裕と言えば、彼の食事の席での振る舞いは驚くほどスマートだ。高級なホテルレストランに入ったところで何をしていいのかわからない陽芽子と違い、オーダーも食事の手順も手慣れている。

「啓五くん、食べるの上手」
「そりゃ一ノ宮の家に生まれてナイフとフォークが扱えないようじゃ、いい笑い者だろ」
「あ、そっか……」

 言われてみれば、啓五は食品を扱うクラルス・ルーナ社の副社長で、一ノ宮の御曹司だ。食に関する英才教育を受けて育つ一ノ宮の人間が、テーブルマナーもままならないようではお話にならないのだろう。

 対する陽芽子はごく一般的な家庭の育ちだ。カトラリーの使い方はわかるが、使う順番や置く場所などは正直そこまで自信がない。

「私、いい歳してテーブルマナーとかあんまりよくわかんないから、気後れしちゃう」
「そんなの、これから覚えればいいんだよ」

 不安を覚える陽芽子とは正反対に、啓五の回答はごくあっさりとしたものだった。『俺がいくらでも教えるから』と笑う顔を見て、啓五の恋人になると、デートはこういうお洒落なお店ばかりに行くのかもしれないと気付く。それはすごいプレッシャーだろうなぁ、と他人事のように苦笑してしまう。

 けれど目の前に最後のデザートを用意されると、難しい思案はあっと言う間に消えていった。

「わぁ、美味しい……!」
「陽芽子、甘いもの好きだもんな」
「うん!」

 濃厚なチョコレートケーキとスフレチーズケーキ、ふわふわのホイップクリームに、甘酸っぱいベリーソースとフレッシュなフルーツ。ジュエリーのようにキラキラと輝く甘味をひとつずつ味わっていると、見ていた啓五にまた笑われてしまう。

 ディナーには遅い時間のためか客はまばらだが、デザートひとつではしゃぐなどみっともない。気付いた陽芽子はひとり恥じて静かになった。

「これで餌付けは成功したな」

 慌てて黙ったのに、陽芽子の様子を見つめる啓五はただ嬉しそうだ。

「さて、じゃあ次行くか」
「え? ど、どこに……?」

 食後のコーヒーを飲み終えて立ち上がった啓五が、にやりと笑う。

 ワンピースに合わせて慣れないミュールを履いている陽芽子は、あまり遠くまでは歩けない。もし何処かへ行くなら近場がいいなんてワガママを口にする前に、啓五がそっと手を差し出してきた。





   *****





「わぁ、きれい……! 可愛い……!」

 連れてこられた場所は、遠いどころか同じホテルの中にある小さなアクアリウムだった。普段は一般開放もされているようだが、閉館時間を過ぎているため客はおろか受付の人さえいない。

 支配人から許可をもらっているから入っても大丈夫だと話す啓五に、陽芽子はひそかに驚いた。しかし冷静に考えれば、いま食事をしたレストランもルーナ・グループのひとつであるグラン・ルーナ社の経営店だ。と言うことは、一ノ宮の人間ならばホテル側に多少の融通が利くのかもしれない。

「このホテルに水族館があるなんて知らなかった」
「まぁ、水族館ってほど大きくはないけどな」

 半円筒状のトンネルの中で呟くと、後ろをついてくる啓五の苦笑いが反響して聞こえた。

 二人の声だけで満たされた空洞は、ライトアップされた青色と水色の光で彩られている。幻想的なブルーがひしめき合う空間で悠然と泳ぐ魚を眺めながら、陽芽子はここ数日ずっと考えていた疑問をそっと口にした。

「啓五くん、怒ってないの……?」
「ん? 何が?」

 陽芽子の問いかけに、啓五がゆっくりと首を傾げる。

 まるで心当たりがないような仕草をされるが、陽芽子は啓五に謝らなくてはいけないことがあった。そのことはデートの日付を決めてから今日までの間に何度も何度も考えていたことで、例え啓五に嫌われても伝えなければいけないと思っていたことだ。

「ごめんね……騙し討ちみたいに巻き込んだことと、啓五くんを利用しちゃったこと」
「ああ、なんだ。そんな事?」

 陽芽子は自分の都合を優先して、啓五の想いを利用した。業務においては誰も不利益を被らないように最大限の配慮をしたが、啓五の恋心を知っていて利用するという意味では最低の選択をしたと思っている。

 春岡には『副社長を招く方法については一任させて欲しい』と告げただけなので、啓五が来訪に応じてくれた理由が『賭けに勝った褒美』だとは思ってもいないだろう。

 けれど当事者である啓五はもう知っているはず。春岡から真相を説明されて全ての事情を理解した今なら、一連の流れの中で陽芽子が啓五の感情と賭けの褒美を利用したことにも、気が付いたはずだ。

 だから怒られて、嫌われて、陽芽子への告白をなかったことにされることも覚悟していた。しかし啓五には全く気にした様子がない。

「怒られるのは、むしろ俺の方だろ」

 それどころか啓五の方が酷いことをしたような顔をする。鋭利な印象を与える瞳に憂いの色を纏わせ、陽芽子の心情を窺うような眼を向けてくる。その瞳と見つめ合うと、また言葉が出て来なくなる。

「悪かった……鳴海のこと。もう少し早く気付いてれば、陽芽子たちにあんな苦労をさせることはなかったのに」
「え……ううん。あれは別に、啓五くんが悪いわけじゃないもの」

 そう、啓五が悪いわけではない。鳴海は一ノ宮という玉の輿を狙っていただけで、啓五は彼女の欲目に巻き込まれただけだ。啓五が指示した訳ではないのだし、何も知らなかった彼に責任があるとは思えない。

「みんなもちゃんとわかってるから、大丈夫」

 それは陽芽子だけではなく、部下たちも、春岡も、隣で聞いていたシステムサポート係やギフトセンターのメンバーも理解している。啓五に非がないことは全員が分かっているのだから、啓五が謝る必要はないし、責任を感じる必要もないと思う。

 それならば、お互いにこれ以上同じ謝罪を繰り返すのも野暮なのだろうと思う。

 啓五はデートの日付を決めるやり取りをするときも、今も、陽芽子の都合を最優先に考えてくれる。陽芽子の不安を取り除くように、優しい笑顔を向けてくれる。だから彼がまだ自分を好きでいてくれるのだと、理解してしまう。

 啓五の温度を再認識すると、また気恥ずかしさを覚えた。その甘やかな感情を誤魔化すように、青色と水色の幻想世界へ視線を向ける。

「大変さから解放されたせいか、ここ数日みんなの気が緩んでて困ってるんだ」

 無言電話から数えると約三ヶ月もの間、陽芽子の部下たちは過度なストレス環境下に身を置いていた。今回の件について啓五が鳴海をどのように処したのかは聞いていないが、きっと鳴海の兄にも状況が伝わったのだろう。ことが露呈した翌日から、悪質な無言電話やクレーム電話はパタリと姿を消した。

 その反動からか、陽芽子の部下たちはこの数日間気が抜けたようにぼんやりとしていて、仕事に全く身が入っていない。もちろんそれでミスをするようなことはないが、来週になっても腑抜けた状態が続くのなら喝を入れなおさなければいけないと思っていたところだ。

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