スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない

紺乃 藍

毒を食らわば芯まで 前編

 啓五は翌週火曜日の午後にコールセンターへ訪れる時間を設けてくれた。しかも後の予定は空けてあるので、終業までの残り時間を全て陽芽子にくれると言う。

 啓五と鳴海は設定した時間丁度にやってきたが、事前の約束通り鳴海は何も聞かされていないらしい。陽芽子の目にも、彼女がわかりやすく動揺しているのが見てとれた。

「あの、副社長……?」

 不安そうに上目遣いで上司の顔色を確認する鳴海だが、あいにく啓五も状況を理解していない。当然、彼にもこの状況を説明できるはずがない。

「お手数をおかけいたしまして申し訳ございません。どうぞこちらへ」

 困惑する二人を奥まで導く間も、陽芽子の右耳にはオペレーターである夏田と鳴海・兄の会話がモニタリングされている。例によって要求のない感想を捲し立てるその声は、聞いているだけで耳と胃が痛くなるほどの大音量だ。

 普段はハキハキと応対する元気な夏田でさえ、相手の音声を下げるボタンを連打し、心の扉をシャットダウンして相槌を打つだけのカラクリ人形になっている。他の者もそうだが、皆ストレスを限界ギリギリまで背負いこんでいる。

 お客様相談室のブースが並ぶエリアに啓五と鳴海を案内した陽芽子は、一見いつもと変わらない部署内で静かに今日の本題を切り出した。

「実はここ最近、激昂したお客様からのクレーム電話が毎日のように入っておりまして」

 その言葉に、鳴海の身体がびくっと跳ねた。啓五も自分の秘書の挙動に気付いてそちらをちらりと一瞥する。だが特に声を掛けることはなかったので、そのまま説明を続行させてもらう。

「クレーム電話は毎日二回、決まって十一時と十七時に掛かってきます。ちょうど今、本日の二回目の応対をしているところです」
「クレーム電話って、内容は? 相手から何か要求されてるのか?」
「いいえ、特にはありません」
「…………は?」

 きっぱりと答えると、啓五が間抜けな声を出した。

 だが無いものは無いのだから、そう説明するしかない。

「それはクレーム電話と言うのか?」
「判断はなんとも。ですが要求があるとすれば――社長に代われ、と」
「え……そんなことっ……!」

 陽芽子がちらりと視線を向けながら告げると、鳴海が驚きの声を上げた。けれどハッとしたように身体を強張らせると、そのまま黙り込んでしまう。

 鳴海は焦っただろう。何故なら彼女の兄はそんな要求などしていない。正確には『上司に代われ』と言ってきただけだ。

 この場合オペレーターたちの直属の上司は陽芽子なので、その要求を飲むのならば陽芽子が電話に出ればいい。

 もちろん電話に出るのは簡単なことだ。実際、今回の件に限らず、激昂した顧客に『下っ端じゃなくて上司に代われ』『責任者と話をさせろ』と要求される場合も多い。普段ならそれで陽芽子が電話口に代わることで大抵のことは収まるし、女じゃダメだと怒鳴られた場合は春岡に代われば完結する。

 けれど今回は事情が事情なので、陽芽子が電話口に代わったとて収まらないだろう。むしろ相手の攻撃が激化する可能性の方が高いと思われる。

「それで社長の代わりに俺に対応して欲しい、と?」

 考え込んでいた啓五が顔を上げて確認してきたので、えぇ、まぁ、と言葉を濁す。

 コールセンターのオペレーターから副社長に直接電話を繋ぐなど、どのマニュアルにも存在しないし、組織図から見てもあり得ない提案だ。そんな非常識なエスカレーションなどたぶん誰も聞いたことがない。

 でもその非常識な提案には、理由もあるし意味もある。

「ただ、いきなり副社長が出ると相手も驚かれると思うので、秘書の鳴海さんに出て頂く方がよろしいのではないかと」

 笑顔を貼り付けて告げた一言に、鳴海の顔色がわかりやすく曇った。

 彼女もまさか、慕っている上司に内緒で連れられてきた場所が自社のコールセンターで、しかもその理由が身内の暴言の処理をさせられる為だとは予想もしていなかったはずだ。

「それは許可できない」

 一方の啓五は、まだ状況を理解していない。眉根を寄せて不快感を示す顔を、陽芽子もじっと見つめ返す。

「これはコールセンター業務に携わる者の仕事だろ。いくら俺の秘書とは言え、易々と他職域を侵すことには賛同しかねる」
「……」

 ―――正しい意見だ。

 そう。副社長という重要な立場にある人が、他人の提案や意見に簡単に頷くようでは困る。

 もちろん場合によっては周りの意見に耳を傾けることも重要だし、以前陽芽子も『部下の話を聞いてあげなきゃ』と啓五に詰め寄ったことがある。

 しかしそれは必要に応じて参考意見を取り入れるという意味であって、周囲の要求のすべて聞き入れろという話ではない。

 啓五の言う通り、他職種に就く人間が他の業務に足を踏み込むことは、不要な軋轢を生む原因になる。状況次第では『仕事を横取りされた』『業務を押し付けられた』といった負の感情を生み出すこともあるので、判断は慎重にならなければいけない。

 陽芽子の提案はあっさり断られたが、心のどこかで啓五の経営者としての素質にホッとする。上に立つものはその見極めを間違えてはいけない。与えられた業務や任務を、決められた範囲から逸脱することがないように管理するのも上司の務め。

 だからこの判断は想定の範囲内だ。

「わかりました。それではこちらで対処いたします」

 それでも陽芽子は、啓五をしっかりと利用する。自分でもお客様相談室の『魔女』の呼び名に相応しいずるい振る舞いだと思うが、綺麗ごとでは大事な部下を守れないことも知っている。

 目礼を残しその場でくるりと踵を返す。

「春岡課長」

 そしてそのまま、少し離れたところで様子を窺っていた春岡へと足を向ける。

「申し訳ありませんが、やはり課長にお願い……」
「……陽芽子」

 歩き出した瞬間、啓五に手首を掴まれて行動を制限された。同時に放たれた声の低さと鋭さに、一瞬背中がふるっと痺れる。

 けれど危険な微熱はすぐに追い出してしまう。今は、啓五の感情にあてられている場合ではない。

(やっぱり、乗ってきた)

 思惑通りだ。啓五は春岡を必要以上に敵視していることは理解していた。彼は陽芽子の上司を『恋敵』だと思い込んでいる。陽芽子が既婚者である春岡に想いを寄せていて、報われない片想いをしていると誤解している。

 もちろんそれは啓五の勝手な勘違いで実際にそんな事実はないが、彼の中ではそういうことになっているらしい。

 だから啓五では話にならないと態度を翻して春岡を頼る陽芽子の姿は、さぞ面白くないことだろう。その様子を見た啓五が焦燥感を覚えて何かしらの行動に出ることは陽芽子にも想像できた。それどころか嫉妬心に火がついて、マニュアルや常識という規範を刹那的に飛び越えてくれることを期待した。

 その反応は予想以上だった。

 腕を掴まれたので振り返ってみると、啓五は端正に整った顔を苦々しく歪ませて陽芽子の目をじっと見つめていた。

 その顔には、自分以外の男性を頼ることが面白くないとはっきり書いてある。ましてどう足掻いても達成できないお願いごとならばともなく、彼が一声命じるだけで叶えられるお願いごとなのだ。

 啓五の感情を利用していることは自覚している。だから後になって、陽芽子が彼の恋心を利用したことを知られるのが怖い。今は懸命に掴んでくれるこの手を離されて、ずるくて卑怯だと言われてしまうのが怖い。

 いつの間にか声を聞くだけで安心するほどに、週に一回の逢瀬だけではなくもっと会いたいと思うほどに、今すぐこの腕を握り返してしまいたいと思うほどに惹かれている。

 啓五に、恋をしている。

 それでも陽芽子は、逃げ出せない。守らなくてはいけないものを捨てられない。

 この問題を穏便に解決すれば、部下たちはストレスや不快感から解放される。春岡の負担も軽減できる。鳴海の過ちも止めらえる。啓五も管理責任を問われずに済むし、有能な秘書を失わずに済む。

 それですべてが丸く収まるなら、陽芽子が失恋するだけで終わる方がいいから。

 ずるい大人でごめんね。
 なんて心の中で苦笑したのに。

 陽芽子が思うほど、啓五は扱いやすい男ではなかった。陽芽子が思うよりもずっと、啓五の頭の中は陽芽子のことでいっぱいだったらしい。

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