スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない

紺乃 藍

スノーホワイトは恋を認めない

 歩きながら環に連絡をいれた啓五が、店に戻らず会計を済ませてしまったことには驚いた。だがそれよりも、啓五の住む場所が会社の傍にある高級マンションだったことの方がよほど驚いた。

 啓五はその建物の高層階にある一室へ入るなり、陽芽子の身体を抱きしめて強引に唇を重ねてきた。

「っ、……啓五くん……! まって……!」

 慌てて身体を押し返すと、息継ぎのために一瞬は待ってくれる。でもすぐに長い指に顎先を掬いとられ、制止も聞かずに激しいキスが繰り返される。貪るように、待てが出来ない犬のように。

「ん……、やっ……」
「陽芽子……」

 離れた唇に名前を呼ばれると、全身から力が抜けてしまう。足元がおぼつかずフワリとよろめくと、啓五がそっと身体を支えてくれた。

 けれど陽芽子を見つめる瞳はあの日と同じ。まるで餌を前にした肉食動物のよう。

「好きだ」

 ふいに、そして明確に呟く。
 低い声と陽芽子を見つめる表情は、切ないほどに必死だった。

「陽芽子が、好きなんだ」

 黒い輝きに囚われていると、再び愛の言葉を重ねられてしまう。その響きに心臓を射抜かれ、鼓動が重く甘だるい音を立てる。


 本当は陽芽子も、啓五が向けてくれる特別な感情に気が付いていた。それが自分の勘違いじゃないことも心のどこかで理解していた。恋愛で失敗してばかりの冷えた心を救い上げ、そっと包み込んでくれる優しさが嬉しかった。

 けれど今の啓五が恋に現を抜かしている状況にないことはわかっている。まだ副社長に就任したばかりの大事な時期であることも、今後目指したい高みがあることも知っている。

 しかし陽芽子には啓五を待っていられない。彼のように恋愛を後回しにする時間も、悠長に恋愛を楽しむ余裕もない。はやく結婚したいと思っているのだから、次に恋をするなら結婚願望のある男性を選びたい。

 啓五が望んでくれるのは嬉しい。でも一時的な関係で終わるなら、これ以上は止めておくべきだ。お互いの為を思うなら、お互い別の相手と恋に落ちるべき。わかっているのに。

「陽芽子も、俺のこと嫌いじゃないだろ?」

 真剣な声で核心をつく確認をされて、思わず言葉に詰まる。

 啓五も見抜いている。陽芽子の気持ちを理解している。啓五が陽芽子を好いてくれるように、陽芽子も啓五を好いていることを。嫌いどころか、もう戻れないぐらいに惹かれていることを。

 可愛いと褒められることも、週に一度の他愛のない時間も、喜怒哀楽の感情を共有できることも、好きだと言ってくれるその想いも、本当はとても嬉しい。

 自分の気持ちは自覚している。
 けれど、理性が邪魔をする。

「ごめんなさい。私、啓五くんと付き合うわけには……」

 啓五は雲の上の存在だから。
 結婚したい陽芽子と違って、結婚願望のない年下の男性だから。

 一時的なものじゃない。陽芽子は自分だけに本気になってくれる人がいい。だからこの恋は認めない……諦めたいのに。

「私のこと、本当に好きって言ってくれる人がいいの」
「だから、言ってるだろ?」

 手のひらの中に啓五の指がするりと入り込み、恋人のように繋がれる。けれど優しい触れ合いに反して、その力は強くて激しい。そのままドアの上へ腕を押さえつけられ、陽芽子の行動を阻止する言葉ばかりを紡がれる。

「俺は、陽芽子が好き」
「んっ……」
「……好きなんだ」

 耳に落とされたキスがだんだん下へと降りていく。そのくすぐったさに身を捩る合間にも、頬や首筋を辿っていく啓五の唇は直球で明確な言葉を囁く。

「なぁ……陽芽子が欲しい『本当の』好きとか愛って何? それって、年齢が一番大事?」

 陽芽子の葛藤を見抜いたのか、啓五が不機嫌に問いかけてきた。心の中どころか未来まで見通しているような鋭い瞳が、退路を静かに塞いでいく。陽芽子の逃げ道に鍵をかけて、その鍵穴を潰すような問いかけばかりを注ぎ込む。

「年下の言うことは、本気にしてもらえない?」
「そんな、こと……」
「陽芽子より年上だったら、俺に惚れてくれんの?」
「……」

 つい言葉に詰まってしまう。だが本当は、啓五の言う通りだ。

 年齢を理由に相手の気持ちを拒否するなんて、やっていることは陽芽子の元恋人と同じ。『若い子がいい』なんて辛辣な言葉をかけられて傷付いた経験があるくせに、今は自分が『年齢』を理由にしている。

 矛盾している。わかっている。

「……ごめんね」

 それでも陽芽子は頷けない。今ここで啓五の気持ちを受け入れても、いつか彼が離れて行く気がして。陽芽子じゃない誰かを選ぶ気がして。

 今度は耐えられる気がしない。いや、もっと大きなダメージを受けると思う。こんなにも情熱的に欲してくれる人にさえ『やっぱり他の人が好き』なんて言われたら――

 啓五の身体を押し返し、身体を離そうとする。手遅れになる前に、彼の瞳から逃れるために。

「逃げんの?」
「っ……!」

 逃亡を感じ取ったのか、啓五の行動は早かった。再び正面から強く抱きしめられ、耳元に唇を寄せられる。

「ちゃんと俺の本気を知って――教えるから」
「え……だ、だめ……! ……まって……!」

 熱さと冷たさが混ざり合った声が鼓膜の奥に響く。低く掠れた声と鋭い視線に危険な甘さを感じたが、逃亡の暇も制止の暇も与えられず再び唇を重ねられた。

「んぅ……っ」

 唇の上を辿る舌の感触はやわらかいのに、空気を奪う温度は凶暴なまでに激しい。先ほどまでは陽芽子の息継ぎや制止を受け入れてくれる態度を感じられたのに、今はただ飢えた獣に夢中で喰われている気分を味わう。

「ふ、……ぁっ」

 ねっとりと這う舌から、ほろ苦いコーヒーリキュールの味とアルコールの香りがする。スーツの裾をぎゅっと握ると、その様子に気付いた啓五はすぐに唇を離してくれる。けれど陽芽子が何かを言う前に、また唇が重なる。優しく激しく、何度も、食い尽くすように。

 本気を、覚え込ませるように。

「ゃ、あ……まっ」

 啓五の手が後ろに回る。背中に触れた指が腰の上を撫で、更に下へと降りていく。熱を持った指先がブラウスの裾から中へ滑り込むと、肌を直接撫でられる感覚に身体がぴくっと跳ねた。

 啓五の手が何をしようとしているのかを知ると、甘いキスに溺れていた身体に、突然力が戻ってくる。スーツの裾を掴んでいた手を、互いの身体の間へ捻じ込ませる。

「待って……ってば!!」

 腕に力を入れると、すぐに身体は離れた。けれど不満そうな顔をした啓五の黒い瞳からは灼熱の温度が消えていない。言葉の通り、啓五は『本気』なのだと思い知る。

 だから再び抱きしめられる前に、言葉ではなく態度で意思表示をする。陽芽子も本気にならなければ、成人男性である啓五の本気には勝てないだろうから。

 啓五の顔に両手をのばしてその頬を包み込む。陽芽子から頬を撫でて触れてきたことに嬉しそうな顔をしたが、それは本当の一瞬だけ。

 油断している啓五の額に、自分の額を勢いよく押し付ける。
 ごんっ、と鈍い音が鳴る。
 押し付けるというより、頭突きかもしれない。

「……いて。……え、何すんの?」

 突然の陽芽子の攻撃に驚き身体を離した啓五が、目を大きく見開く。何が起きたのかすぐにはわからなかったらしく、左手で額をさすっている。

「『何すんの?』」

 何もわかっていないような顔をする啓五の表情を見て、陽芽子はむぅっと頬を膨らませた。

「それはこっちの台詞でしょ!?」

 何するの、は陽芽子の台詞だ。

 確かに啓五が必死に愛情を伝えてくれるのは嬉しいし、その本気は伝わっている。

 けれど春岡との電話を切った直後から、何かを言おうとする度に唇を塞がれてしまう。啓五の感情表現は一方通行で、言いたいことがあるのに何も言わせてもらえない。陽芽子の話をまったく聞いてくれない。

「いやって言ってるのに、無理矢理キスするし! 待ってって言ってるのに全然待ってくれないし! だめって言ってるのにその先は言わせてくれないし!」

 不満と不安が押し寄せる。溜め込んでいた感情を一気にまくし立てる。その様子を見た啓五は、ぽかんと口を開けて陽芽子の顔を見つめてくる。そんな啓五を、さらに強めの口調で叱る。

「啓五くん、副社長なんでしょ!? 秘書や部下の話、ちゃんと聞いてあげてるの!?」
「え……いや、聞いてるけど……」
「うそ! 聞いてないでしょ!? そうやって何でも自分の思い通りになると思ったら大間違いなんだから! 人の上に立って会社を背負っていくつもりなら、ちゃんと周りの話も聞いてよね!?」
「あ……え……ご、……ごめん?」

 陽芽子の指摘は的外れかもしれない。啓五は全てを自分の思い通りにしたいと思っているわけではなく、周りの意見もちゃんと聞いているのかもしれない。陽芽子が知らないだけで、仕事中の啓五は完璧な副社長なのかもしれない。

 それでも言っておきたかった。
 ちゃんと伝えておきたかった。
 話を、聞いて欲しかった。

 心配そうに顔を覗き込んできた啓五と視線を合わせないように、俯いたままで息を吐く。呼吸と思考を整えて、ぽつりと呟く。

「……私、無理強いする人きらい」
「!! いや、その……わ、悪かった……! ごめん!」

 ふいっとそっぽを向くと、啓五が慌てて謝罪してきた。しかし謝られても視線は意地でも合わせない。

 けれどそれは、啓五に対して怒っているからではなく。

「……少しだけ、待ってほしいの」

 視線を合わせたら絆されてしまいそうだから。その瞳に見つめられて、また『好きだ』と言われたら『うん』と頷いてしまいそうだから。冷静な判断が出来なくなってしまうから。

「啓五くんのこと、嫌いじゃないよ。でも私、結婚のこと真面目に考えなきゃいけない年齢なの」
「……陽芽子」

 陽芽子は現在、三十二歳。親にも結婚を促されているし、出産のことも考えなければいけない年齢に差し掛かっている。恋愛を楽しんで終わるだけの関係に、もう長い時間を使うことは出来ない。簡単には決断できない。

「もちろん、気持ちは嬉しいけど」

 本当は啓五が向けてくれる気持ちが嬉しい。好きだと言って、可愛いと囁いて、ただの上司に本気で嫉妬する。陽芽子に向けてくれる感情が本物であることはわかっている。

 けれど啓五は年下で、一ノ宮の御曹司で、今はまだ結婚願望がない。そんな啓五と付き合うなら、陽芽子には考えなければいけないことがある。

「少しだけ、考えさせて欲しいの」

 ちゃんと考えたいと思う。
 自分がどうしたいのか、どうするのが正解なのか。

 もう啓五に向けられる好意に気付かないふりなんてしないから。

「……わかった」

 陽芽子の懇願に、啓五もしぶしぶだが納得してくれた。静かに頷く声を聞いて、陽芽子もようやく顔を上げる。

 本当は啓五も今すぐ答えが欲しいと思う。じっと見つめる瞳も、甘い口付けも、優しい言葉も、陽芽子が好きで好きで仕方がないと教えてくれる。独占したいと言っている。

 ふと啓五の顔が耳元に近付く。そして低く囁く声が、陽芽子のすべてをまたゆるやかに追い詰める。

「まぁ、断られても諦めるつもりないけど」

 断っても追いかけると宣言されてしまい、思わず身体が硬直する。それも本気だと直感する。

 顔を離して見つめ合った啓五が、更に不満そうな顔でぼそりと呟いた。

「あと、春岡由人は既婚者だからな」
「知ってるわよ! ただの上司だってば!」

 ……やっぱり啓五は、人の話をちゃんと聞くべきだ。

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