スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない
うわさの彼女(啓五視点)
「おーい、副社長~」
急にドアが開いたので何事かと驚く。しかしよく考えれば、ノックもせずに副社長室へ入室してくる人など社内に一人しかいない。
幼少から呼び慣れているはずの下の名前ではなく、ちゃんと役職で呼んできたのはいい。けど中の様子も確認せずに入って来て、もし来客があったらどうするつもりなのかと呆れてしまう。
「啓五、ライター持ってねぇ?」
叔父である怜四が、ガタイのいい身体から右手を挙げて問いかけてくる。直前まで『副社長』と呼んでいたのに、あっさり下の名前に呼び変えて。
手にしていた書類をデスクの上に放り投げて、はぁ、と重い息を吐く。組織的に言えば啓五の唯一の上司である『社長』のお気楽な言動に、集中力を乱されたから。
「持ってるわけないだろ。俺、煙草吸わないって」
「吉本は? アイツなら持ってるだろ?」
「確認して参りますので、少々お待ちください」
傍にいた秘書の鳴海が、啓五の傍を離れて頭を下げる。そのまま部屋続きになっている秘書執務室へと消えた背中を見て、啓五はそっと感心した。
啓五のサポート役として配属された吉本と鳴海は、実に優秀な秘書である。啓五の思惑に先回りすることはあれど、遅れをとることはほとんどない。
最初は秘書なんて二人も必要ないと思っていたが、実際に動き出してみればありがたいことこの上ない。今も啓五が処理しなければならない書類は鳴海が準備し、最終チェックは隣の部屋で吉本が行っている。秘書一人で準備と確認を行う場合と比較すれば、速さは倍以上違うし、三人が携わることでミスも確実に潰していける。
これなら今日も早く終われる。
と思った矢先に怜四の来訪。
ため息を吐くしかない。
怜四は喫煙者だが、彼の秘書二人には喫煙習慣がない。そのためどこかにライターを置き忘れると、束の間の一服も出来なくなってしまうらしい。さてどうしたものかと考えた結果、啓五の秘書の吉本が愛煙家であることを思い出し、ここへやって来たようだった。
「あれが鳴海か」
啓五の傍へ歩み寄って来た怜四が興味深げに頷くので、啓五は静かに首を捻った。
「知ってんの?」
「そりゃ知ってるだろ。二年前に俺の秘書になるのを拒否したヤツなんだから」
「……は?」
さらりと告げられた情報に驚き瞠目する。
秘書になるのを拒否した? ――そんな事が可能なのだろうか。
会社という組織の中では、よほど理不尽ではない限り業務命令に従う必要がある。もちろんクラルス・ルーナ社は社員を問答無用で服従させるような悪辣な企業ではないが、秘書課に所属していて秘書業務を拒否するというのはどういうことだろう。
「いや、それは別にいいんだけどな」
考え込み始めた啓五の憂いを打ち消すように、怜四がひらひらと手を振る。
そんなことより、と強制的に話を収めた怜四が、別の話題を切り出してきた。
「お前、社内恋愛中ってマジ?」
「はぁ?」
思いも寄らない質問をされて、思わず言葉が裏返る。また下らない冗談でも聞かされるのかと思って油断していたからか、驚いた拍子に椅子から転がり落ちそうになった。
「なんで知ってんの?」
「そりゃ、風の噂だろ。ま、俺もさっき耳にしたトコだけど」
啓五のデスクに寄りかかってニヤニヤ笑う叔父と数秒見つめ合い、再び深いため息を吐く。
まさか噂になっているとは思わなかった。というより、啓五と陽芽子の関係を知っている人間が社内にいるとは思わなかった。
啓五と陽芽子は、会社の中では全く遭遇しない。偶然会えないかと思って廊下やエレベーターではついその姿を探してしまうが、どうやら彼女は業務開始から終了までコールセンターから出てこないらしい。
唯一昼食のときは食堂へ赴いているようだが、陽芽子が昼食を摂るのは十三時半から十四時半とかなり遅い時間のようだ。
社内で会う事はない。
だから完全に、失念していた。
「誰も知らないと思ってた。ほんと、噂ってすげーな」
最初にこの部屋に陽芽子を呼び出した時に、彼女が逃走しようと必死だった心境も、頑なに誘いに乗らなかった理由も、今なら理解できる。陽芽子は社内恋愛で噂になることが面倒くさいことだと、知っていたのだろう。
ということは、陽芽子は過去に社内恋愛の経験があるということか。それはそれで面白くない。啓五はまだスタートラインにすら立てていないのに。
つい小さな舌打ちをすると見ていた怜四に大笑いされてしまい、余計に面白くない気分を味わう。
「女子社員も多いからな。そういう話は回んの早いぞー」
「なんでだよ。社内で一緒になることなんてほとんどねぇのに」
「……ん?」
ところが怜四は、啓五の不満を聞くと不思議そうに首を傾げた。疑問の音を聞いた啓五も、つい同じ音を出してしまう。
「あ? ちょっと待て、相手は鳴海じゃないのか?」
「は?」
首を傾げた怜四の問いかけに、再び間抜けな声が出た。
……鳴海?
どうしてそこで鳴海が出てくる?
「いや、違うけど」
「……」
確かに一緒にいることは多いが、それは鳴海が啓五の秘書だからだ。業務上共にいるというだけで、もちろん付き合っているからではない。
啓五としては当たり前のことだが、怜四は怪訝な顔をする。その表情を見る限り、怜四の中では『啓五の噂の相手は鳴海』という事になっていたようだ。たぶん彼だけではなく、この噂を知る全員の中で。
「……はーん、なるほど。わざと流してんのか。やることが小賢しいねぇ」
怜四が唐突に合点がいったように頷く。さらに穏やかではない言葉ばかりを羅列し、クククと喉で笑う。
「お前、狙われてんだなぁ」
「……誰に?」
意味不明のことばかり言う怜四の顔を見上げる。狙われてる、と言われ最近観たスパイ映画のワンシーンを思い出す。脳内で見知らぬ男に狙撃される自分の姿を想像して『何でだよ』と思ったが、怜四の表情は愉快そうだった。
「それで? 別のヤツと付き合ってんの?」
啓五の質問には一切答えず、巧妙に話をすり替えてきた怜四にはほとほと呆れてしまう。だが正直なところ、鳴海と噂になっていることよりもそちらの方が由々しき問題だった。少なくとも啓五にとっては。
「今のとこ、完全に俺の独り相撲だよ」
「へえぇ」
言わなくてもいい報告をすると、怜四が興味津々と言った様子で感嘆した。瞬間的に余計なことを話してしまったと思ったが、すでに後の祭りだ。
一ノ宮怜四という人は、他人から情報を引き出すのが天才的に上手い。目線、唇の動き、手足の動き、姿勢、相槌、声の抑揚、言葉選び、間合い。これらを自在に操って相手の心の隙間にスルリと入り込んでくる。その能力がずば抜けている。
そのせいか、彼を前にすると言わなくてもいいことをつい口にしてしまう。上手く誘導されていると気付いているのに、あっさり心情を吐露してしまう。
「……恋愛話なんて、自分の息子とすればいいだろ」
「ヤダヨ。あいつらの相手するんの疲れるし、つまんねーもん。それに比べれば啓五は素直で楽なんだけどなぁ」
「楽って言うな」
甥を相手に失礼だろう。
いや、甥だからこそ明け透けにものを言うのかもしれないが。
「でもお前、変わったよ。少し前までは目付き悪いだけのクソガキだと思ってたからなー」
「悪かったな」
怜四の昔を懐かしむような言葉を聞いて、啓五もつい無愛想な言葉を返してしまう。だが粗雑な言葉とは裏腹に、怜四は人情深い人だ。実の息子だけではなく、甥のことまで気にかける度量がある。
けれどその事実に気が付いたのは、つい最近のこと。副社長という安定した地位に就くまでは、啓五もがむしゃらだった。自分でも心に余裕がないことを自覚できるほど、周囲の人間を敵視していた。
それほど焦っていたのだと思う。自分に負けそうになっていたのだと思う。
「まあ、俺も……今までは自分の目、あんまり好きじゃなかったな」
今までは。
陽芽子がこの眼を褒めるまでは。
でも今は違う。陽芽子が褒めてくれた日を境に、驚くほど気持ちが楽になった。実際にはさほど珍しくもない、けれど一ノ宮にいる限り疎まれ続けるこの特徴的な目を、陽芽子なら受け入れてくれる気がして。
「へえ、運命のお姫様に出会ったワケか」
また数か月前の夜にトリップしていると、怜四の楽しげな声が聞こえてきた。
「それなら尚更、お前が守ってやんねぇと」
「だから何が?」
怜四は、狙われてるとか、守るとか、意味がわからない事ばかりを言う。もし啓五が知らない何らかの事情を知っているのなら、ちゃんと教えて欲しい。知らないことには対処のしようがない。
そう思ってさらに踏み込もうとした瞬間、隣の秘書執務室から鳴海が戻ってきた。
鳴海の姿を確認した怜四は、突然奇妙なほど静かになってしまう。それに気付いた啓五も、同じく黙るしかない。
怜四の言動は不可解だった。そこに不安を植え付けられ、不満と違和感を覚える。だが結局は何も聞けず、ライターを受け取って去っていく後ろ姿をじっと見送るだけだった。
急にドアが開いたので何事かと驚く。しかしよく考えれば、ノックもせずに副社長室へ入室してくる人など社内に一人しかいない。
幼少から呼び慣れているはずの下の名前ではなく、ちゃんと役職で呼んできたのはいい。けど中の様子も確認せずに入って来て、もし来客があったらどうするつもりなのかと呆れてしまう。
「啓五、ライター持ってねぇ?」
叔父である怜四が、ガタイのいい身体から右手を挙げて問いかけてくる。直前まで『副社長』と呼んでいたのに、あっさり下の名前に呼び変えて。
手にしていた書類をデスクの上に放り投げて、はぁ、と重い息を吐く。組織的に言えば啓五の唯一の上司である『社長』のお気楽な言動に、集中力を乱されたから。
「持ってるわけないだろ。俺、煙草吸わないって」
「吉本は? アイツなら持ってるだろ?」
「確認して参りますので、少々お待ちください」
傍にいた秘書の鳴海が、啓五の傍を離れて頭を下げる。そのまま部屋続きになっている秘書執務室へと消えた背中を見て、啓五はそっと感心した。
啓五のサポート役として配属された吉本と鳴海は、実に優秀な秘書である。啓五の思惑に先回りすることはあれど、遅れをとることはほとんどない。
最初は秘書なんて二人も必要ないと思っていたが、実際に動き出してみればありがたいことこの上ない。今も啓五が処理しなければならない書類は鳴海が準備し、最終チェックは隣の部屋で吉本が行っている。秘書一人で準備と確認を行う場合と比較すれば、速さは倍以上違うし、三人が携わることでミスも確実に潰していける。
これなら今日も早く終われる。
と思った矢先に怜四の来訪。
ため息を吐くしかない。
怜四は喫煙者だが、彼の秘書二人には喫煙習慣がない。そのためどこかにライターを置き忘れると、束の間の一服も出来なくなってしまうらしい。さてどうしたものかと考えた結果、啓五の秘書の吉本が愛煙家であることを思い出し、ここへやって来たようだった。
「あれが鳴海か」
啓五の傍へ歩み寄って来た怜四が興味深げに頷くので、啓五は静かに首を捻った。
「知ってんの?」
「そりゃ知ってるだろ。二年前に俺の秘書になるのを拒否したヤツなんだから」
「……は?」
さらりと告げられた情報に驚き瞠目する。
秘書になるのを拒否した? ――そんな事が可能なのだろうか。
会社という組織の中では、よほど理不尽ではない限り業務命令に従う必要がある。もちろんクラルス・ルーナ社は社員を問答無用で服従させるような悪辣な企業ではないが、秘書課に所属していて秘書業務を拒否するというのはどういうことだろう。
「いや、それは別にいいんだけどな」
考え込み始めた啓五の憂いを打ち消すように、怜四がひらひらと手を振る。
そんなことより、と強制的に話を収めた怜四が、別の話題を切り出してきた。
「お前、社内恋愛中ってマジ?」
「はぁ?」
思いも寄らない質問をされて、思わず言葉が裏返る。また下らない冗談でも聞かされるのかと思って油断していたからか、驚いた拍子に椅子から転がり落ちそうになった。
「なんで知ってんの?」
「そりゃ、風の噂だろ。ま、俺もさっき耳にしたトコだけど」
啓五のデスクに寄りかかってニヤニヤ笑う叔父と数秒見つめ合い、再び深いため息を吐く。
まさか噂になっているとは思わなかった。というより、啓五と陽芽子の関係を知っている人間が社内にいるとは思わなかった。
啓五と陽芽子は、会社の中では全く遭遇しない。偶然会えないかと思って廊下やエレベーターではついその姿を探してしまうが、どうやら彼女は業務開始から終了までコールセンターから出てこないらしい。
唯一昼食のときは食堂へ赴いているようだが、陽芽子が昼食を摂るのは十三時半から十四時半とかなり遅い時間のようだ。
社内で会う事はない。
だから完全に、失念していた。
「誰も知らないと思ってた。ほんと、噂ってすげーな」
最初にこの部屋に陽芽子を呼び出した時に、彼女が逃走しようと必死だった心境も、頑なに誘いに乗らなかった理由も、今なら理解できる。陽芽子は社内恋愛で噂になることが面倒くさいことだと、知っていたのだろう。
ということは、陽芽子は過去に社内恋愛の経験があるということか。それはそれで面白くない。啓五はまだスタートラインにすら立てていないのに。
つい小さな舌打ちをすると見ていた怜四に大笑いされてしまい、余計に面白くない気分を味わう。
「女子社員も多いからな。そういう話は回んの早いぞー」
「なんでだよ。社内で一緒になることなんてほとんどねぇのに」
「……ん?」
ところが怜四は、啓五の不満を聞くと不思議そうに首を傾げた。疑問の音を聞いた啓五も、つい同じ音を出してしまう。
「あ? ちょっと待て、相手は鳴海じゃないのか?」
「は?」
首を傾げた怜四の問いかけに、再び間抜けな声が出た。
……鳴海?
どうしてそこで鳴海が出てくる?
「いや、違うけど」
「……」
確かに一緒にいることは多いが、それは鳴海が啓五の秘書だからだ。業務上共にいるというだけで、もちろん付き合っているからではない。
啓五としては当たり前のことだが、怜四は怪訝な顔をする。その表情を見る限り、怜四の中では『啓五の噂の相手は鳴海』という事になっていたようだ。たぶん彼だけではなく、この噂を知る全員の中で。
「……はーん、なるほど。わざと流してんのか。やることが小賢しいねぇ」
怜四が唐突に合点がいったように頷く。さらに穏やかではない言葉ばかりを羅列し、クククと喉で笑う。
「お前、狙われてんだなぁ」
「……誰に?」
意味不明のことばかり言う怜四の顔を見上げる。狙われてる、と言われ最近観たスパイ映画のワンシーンを思い出す。脳内で見知らぬ男に狙撃される自分の姿を想像して『何でだよ』と思ったが、怜四の表情は愉快そうだった。
「それで? 別のヤツと付き合ってんの?」
啓五の質問には一切答えず、巧妙に話をすり替えてきた怜四にはほとほと呆れてしまう。だが正直なところ、鳴海と噂になっていることよりもそちらの方が由々しき問題だった。少なくとも啓五にとっては。
「今のとこ、完全に俺の独り相撲だよ」
「へえぇ」
言わなくてもいい報告をすると、怜四が興味津々と言った様子で感嘆した。瞬間的に余計なことを話してしまったと思ったが、すでに後の祭りだ。
一ノ宮怜四という人は、他人から情報を引き出すのが天才的に上手い。目線、唇の動き、手足の動き、姿勢、相槌、声の抑揚、言葉選び、間合い。これらを自在に操って相手の心の隙間にスルリと入り込んでくる。その能力がずば抜けている。
そのせいか、彼を前にすると言わなくてもいいことをつい口にしてしまう。上手く誘導されていると気付いているのに、あっさり心情を吐露してしまう。
「……恋愛話なんて、自分の息子とすればいいだろ」
「ヤダヨ。あいつらの相手するんの疲れるし、つまんねーもん。それに比べれば啓五は素直で楽なんだけどなぁ」
「楽って言うな」
甥を相手に失礼だろう。
いや、甥だからこそ明け透けにものを言うのかもしれないが。
「でもお前、変わったよ。少し前までは目付き悪いだけのクソガキだと思ってたからなー」
「悪かったな」
怜四の昔を懐かしむような言葉を聞いて、啓五もつい無愛想な言葉を返してしまう。だが粗雑な言葉とは裏腹に、怜四は人情深い人だ。実の息子だけではなく、甥のことまで気にかける度量がある。
けれどその事実に気が付いたのは、つい最近のこと。副社長という安定した地位に就くまでは、啓五もがむしゃらだった。自分でも心に余裕がないことを自覚できるほど、周囲の人間を敵視していた。
それほど焦っていたのだと思う。自分に負けそうになっていたのだと思う。
「まあ、俺も……今までは自分の目、あんまり好きじゃなかったな」
今までは。
陽芽子がこの眼を褒めるまでは。
でも今は違う。陽芽子が褒めてくれた日を境に、驚くほど気持ちが楽になった。実際にはさほど珍しくもない、けれど一ノ宮にいる限り疎まれ続けるこの特徴的な目を、陽芽子なら受け入れてくれる気がして。
「へえ、運命のお姫様に出会ったワケか」
また数か月前の夜にトリップしていると、怜四の楽しげな声が聞こえてきた。
「それなら尚更、お前が守ってやんねぇと」
「だから何が?」
怜四は、狙われてるとか、守るとか、意味がわからない事ばかりを言う。もし啓五が知らない何らかの事情を知っているのなら、ちゃんと教えて欲しい。知らないことには対処のしようがない。
そう思ってさらに踏み込もうとした瞬間、隣の秘書執務室から鳴海が戻ってきた。
鳴海の姿を確認した怜四は、突然奇妙なほど静かになってしまう。それに気付いた啓五も、同じく黙るしかない。
怜四の言動は不可解だった。そこに不安を植え付けられ、不満と違和感を覚える。だが結局は何も聞けず、ライターを受け取って去っていく後ろ姿をじっと見送るだけだった。
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