スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない
彼のみが知らない世界
怖い。
目が合ったから挨拶をしたのに、そっぽを向かれて無視された。
「鳴海秘書、ご機嫌ナナメだったんでしょうか?」
「ど、どうだろ……?」
一緒にお昼休憩に入っていた鈴本が、エレベーターの扉が閉じたことを確認してから首を傾げた。ちょっと面白い発見をしたように笑う彼女は、自分の存在を無視されたことも、挨拶に対する返事がなかったことも、特に気にしていないようだ。
啓五の第二秘書である鳴海は、本格的に陽芽子を敵視しているらしい。
副社長への就任日以来、社内では啓五に遭遇していない。当然その秘書である鳴海にもほとんど遭遇しておらず、接点など一切ない。それにも関わらず彼女は挨拶をした陽芽子とその部下にフンとそっぽを向き、澄ました顔のまま上階へと向かっていった。
原因は十中八九、啓五と陽芽子の関係を疑っているためだと思われる。だが陽芽子と啓五の間には、鳴海が勘繰るような関係などない。だからもし文句があるのなら、啓五に言ってほしいと思う。ただの挨拶ですら無視されるなんて、怖いから。
「副社長の秘書が挨拶すらできないとか、終わってますよね?」
「ちょ……それ本人に聞かれたらまた無視されるわよ」
「別に痛くもかゆくもないですよ~。だって私、派遣ですもん」
「え、イヤよ? 鈴が辞めることになったら、私の癒しが無くなるじゃない」
「し、室長おぉー……! 大好きいぃー!」
「あーん、鈴うぅ」
「二人ともイチャついてないで、さっさと入って下さい」
エレベーターを降りてすぐの自動ドア前でじゃれ合っていると、後ろから不機嫌な声を掛けられた。振り返ると、部下の蕪木が呆れた顔でこちらを見ている。どうやら用を足すために離席していたところらしい。
コールセンターの入口の電子ロックに三人続けて社員証をかざすと、揃って中へ足を踏み入れる。後ろからついてくる蕪木の疲労を感じ取った陽芽子は、歩きながら首だけで後ろを振り返った。
「もしかして、また来たの?」
「ええ、一回だけですが」
「ウィスも反応しない?」
「ダメですね。非通知でした」
「そう……」
淡々とした報告に、陽芽子は重いため息をついた。鈴本の顔を見ると彼女も落胆の表情を見せているし、まだ半日しか経っていないのに蕪木もひどく疲れた顔をしている。
けれどその気持ちはよくわかる。正直関わりのない副社長秘書の冷たい態度よりも、こちらの方が何倍も疲労する。
コールセンターに勤めていると、時折出会うことがある厄介な案件。非通知で日に何度もかかってくる『いやがらせ』の無言電話だ。
*****
「陽芽子、今日は元気ないな」
疲労の理由の一つはあなたですよ。と言えるはずもなく、陽芽子は乾いた笑いで啓五の言葉を聞き流した。
彼は知らないのだろう。自分の秘書が他の女性社員に冷たい視線を向けて密かに牽制していることなど。その睨み顔が実はとっても怖いことを。
本音を言えばそちらで改善してほしいところだが、あえて啓五本人に申告することでもない。言わなければ、知らない世界の話なのだから。
再びIMPERIALで出会ったことをきっかけに、啓五と会う回数が格段に増えてしまった。陽芽子が火曜日の仕事終わりにIMPERIALへ足を運ぶ理由は、月曜日と火曜日の仕事の辛さを一時的に忘れ、残りの三日間をお酒の勢いで乗り切るための、いわば中間助走だ。本当は週の真ん中がいいが、水曜日は環が出勤しない曜日である。
だから環と他愛のない雑談をするために火曜日を選んでいたのに、ここ最近ずっと啓五に割り込まれている気がする。とは言え、慣れたルーティンを崩してまで現在の曜日から他の曜日に変える気持ちもない。
結果、いつもの席で甘いカクテルを飲んでいると、隣に啓五がやってくる火曜日を三回ほど繰り返していた。
「仕事、忙しいのか?」
「えっと……いつも通りと言えば、いつも通りです、けど……」
労うような言葉を掛けられ、陽芽子は曖昧な笑みを浮かべた。
陽芽子の心配をしてくれるのは嬉しいが、むしろ啓五の方が忙しいのではないだろうか。ただでさえ経営者は多忙だと思われるのに、彼はまだ就任して数ヶ月だ。
社内報によると、啓五はルーナ・グループの各社に所属経験があるが取締役へ就任した経歴はない。まだ慣れない仕事に追われている時期のはずなのに、火曜日の二十一時になると自然な動作で陽芽子の隣に座ってくるのが単純にすごいと思う。
(努力家……なんだろうなぁ)
カルーア・ミルクに口をつけながら、ちらりと隣に視線を移す。啓五の顔に疲労の一つでも浮かんでいるのなら、早く帰って寝ることを促す材料になると思ったのに。
そろりと顔を上げると、啓五の方も陽芽子の顔をじっと見つめていることに気が付いた。
「え……えっと……?」
いつからこちらを見ていたのだろうか。カウンターに頬杖をついた啓五は、陽芽子がカクテルを口にする様子をずっと眺めていたらしく、視線が合うと嬉しそうな笑顔を向けられてしまった。
鋭い目が柔らかく微笑む。
その表情の意味がわからない。
「あの、副社長……」
「陽芽子」
あんまりじっと見ないで欲しいと言っておきたくて口を開いたが、直前に言葉を遮られた。
「プライベートで副社長って呼ぶの止めようか?」
冷たい印象を受けるほどまで声のトーンが落ちたことに気が付き、慌てて口を噤む。
陽芽子がそうであるように、啓五にとっても今はプライベートの時間だ。役職で呼ばれることは不快に感じるのかもしれない。
それに個人情報にも関わる。会話を聞いた他の客に、啓五が『副社長』であることが知られてしまうとトラブルの原因になる可能性がある。自分の思慮の浅さを恥じて素直に
「申し訳ありません」
と頭を下げた瞬間、
「俺の方が年下だから、敬語もダメ」
と悪戯っぽい声が落ちてきた。
思考が停止した頭を持ち上げて懸命に言葉の意味を考えたが、結局理解できずに『は?』と間抜けな声が出た。
「最初のときみたいに接して?」
「いえ、それは……」
唐突に突き付けられた無茶な要求に、ついたじろいでしまう。
最初というのは、啓五の正体を知らずに軽い口調で話し、下の名前に『くん』を付けて呼んでいたときのことだ。啓五は陽芽子に、あの夜のように接してほしいと要求してくる。
けれどそれは無理な話だ。彼が自社の副社長だと知ってしまった以上、軽い口調で話しかけることは出来ないし、下の名前を馴れ馴れしく呼ぶことも出来ない。
ルーナ・グループに名を連ねる経営陣はほぼ全員の名字が『一ノ宮』なので、名字で呼ぶこともややこしい。となると下の名前に役職をつけるのが最も間違いのない呼び方なのだが、啓五は役職では呼ぶなという。
「じゃなきゃ、白雪姫って呼ぶけど」
「!?」
難しい要求に頭を抱えていると、何故かさらなる制限が加えられてしまう。唖然として啓五の顔を見上げても、彼は笑顔を浮かべるのみ。
「あと俺も敬語を使わせて頂きますけど、よろしいですか? 白雪姫」
「お、なんか一気に下僕っぽくなったな、啓」
やり取りを見て笑いを堪える環にニヤリと笑顔を向けた啓五が、再び陽芽子の方へ向き直る。
他人に丁寧な言葉を使う機会があまりないのか、敬語だとしても少しおかしな言い回しだ。しかし陽芽子を混乱させるためなら、破壊力としては十分である。
「どうなさいますか、白雪姫? 俺はどちらでも構いませんけど」
「わかった! 啓五くん! お願いだから、その口調と呼び方やめて!!」
陽芽子のことを白雪姫と呼んで喜ぶ啓五に、陽芽子はあっさりと白旗を上げた。啓五の目の前に手のひらを突き付けて彼の発言を断ち切ると、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「ははっ……俺の勝ちだな?」
その表情は部下に対する揶揄いでもあり、親しい友人に向ける悪戯でもある。
「陽芽子」
半ば諦めた心地で肩を落としていると、ふと啓五に名前を呼ばれた。
つい『なんですか?』と聞きそうになるが、咄嗟に
「……なに?」
と、言い直す。
啓五との間に壁を作ると、白雪姫なんて恥ずかしいあだ名で呼ばれる可能性がある。副社長から家来のような口調で話しかけられる可能性がある。そんなことは許されないし、いたたまれないし、恥ずかしいから、回避しなくてはいけないと必死だったのに。
啓五はただただ、陽芽子をからかいたいだけのようだ。
「いや、焦ってんのが可愛いな、って思って」
「!?」
そうやって蜜夜の記憶を呼び起こすような事を言うのも、止めてほしいのに。
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