スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない
現実世界に神などいない
うららかな陽の光を受けた木々の間から、桃色に染まった小さな欠片がはらはらと舞い降りてくる。アスファルトのところどころに落ちている桜の花びらから視線を上げると、陽芽子は勤務する会社のエントランス前でゆっくりと深呼吸をした。
月曜の朝なのに、不思議と気分がすっきりしていて清々しい。
その理由はわかっている。自分でも驚くほど、今回は失恋から立ち直るのが早かったから。悲しい気持ちをさっぱりと忘れて、新たな心境で新年度を迎えることが出来たから。失恋したこと自体すっかり忘れてしまうほど、今の気分は晴れやかだ。
株式会社クラルス・ルーナ。
入口の上に掲げられた社名を一瞥すると、そのまま歩を進めてエレベーターを待つ社員の列に並ぶ。とは言えまだ早い時間なので、さほど待たずに搭乗できるだろう。
クラルス・ルーナ社の母体であるルーナ・グループは農水産物の生産や加工、食品の製造・販売、飲食店およびホテル内レストランの経営、輸入食品の販売や自社製品の輸出など、食と名の付く業界に幅広く参入する巨大企業だ。
系列四社のうち、クラルス・ルーナ社は主に食品の製造・販売を担っている。とくにプライベートブランドの加工食品・菓子・飲料などの製品は、スーパーやデパートの食品売り場、ドラックストアやコンビニエンスストアに行けばどこでも入手できるほど有名なものばかり。
陽芽子の所属部署は、その製品パッケージに書かれている電話番号の向こう側―――コールセンター内のお客様相談室だ。
しかも肩書はお客様相談室、室長。役職で言えば係長に相当するが、部署名がお客様相談『室』なので便宜上『室長』と呼ばれている。
「おはようございます、室長」
「おはようございます~」
「おはよう。二人とも早いね」
IDカードでロックを解除してコールセンター内へ足を踏み入れると、部下の蕪木と鈴本が既に出社して雑談を交わしていた。同時に声を掛けられたのでまとめて返事をすると、二人がブースの仕切り越しに顔を見合わせた。
「室長、機嫌いいですね?」
「何かいい事あったんですかぁ?」
自分では特に感情を表現したつもりはない。けれど部下たちには目聡く悟られてしまったようで、興味津々な様子で話しかけられた。
「別に何もないわよ」
笑顔を浮かべて適当に誤魔化す。二人は不思議そうに首を傾げていたが、陽芽子が何も言わずにいるとそのうちまた雑談に戻っていった。
いつもの空気に軌道修正できたことを確認すると、ほっと胸を撫で下ろす。自分のデスクに腰を落ち着けながら、あまり感情を表に出さないようにしなければ、と再度気を引き締める。
精神統一を図ったあとは、朝の作業を開始する。やることは先週のチェックや今日の予定の確認などルーティーン化されたものばかり。けれど今日は年度の初めなので、いつもより少しだけやることが多く、おまけに新年度の朝礼にも出席しなければいけない。
お客様からの要望を聞き受ける『お客様相談室』、通信販売の操作案内やポイント制度の補助を担う『システムサポート係』、季節の品や冠婚葬祭の品など贈答物への問い合わせを担当する『ギフトセンター』の三部門を合わせた『コールセンター』は、陽芽子の部下を含めて正社員より派遣社員が多い。
しかも定刻になると電話回線を開けるので、基本的に部署長以外は朝礼への出席を免除される。だから通常は、コールセンター課長である春岡以外は朝礼に出る必要はない。
けれど今日ばかりはそうもいかない。
何故なら本日付で、新しい副社長が就任する予定になっているから。
経営陣が変わるのであれば、最低でも役職に就いているものは朝礼に出席するというのが、暗黙の了解となっている。よって今日は、陽芽子も朝礼に出席しなければならない。
確認作業をしているうちに朝礼の時間が近付いてきたらしく、課長の春岡から声を掛けられた。
「おはよう、白木」
「春岡課長。おはようございます」
「ん? 白木、何かいい事あったのか?」
また言われた。
普通に返答したつもりだったのに、上司にまで楽しげに問いかけられて、陽芽子は言葉に詰まった。それでも一応『いいえ』と笑顔を浮かべるが、仕切りの向こうから蕪木と鈴本がまたこちらの様子を見ていることに気が付いた。
もう、ほっといて欲しいのに。
*****
システムサポート係長の機械オタク男子野坂 と、ギフトセンター長の温和なマダム澤本と共に、四人で大ホールへ足を運ぶ。立ち位置が決まっているわけではないので揃って適当な壁際に立っていると、間もなく朝礼が始まった。
代表取締役社長である一ノ宮 怜四氏は、明朗快活な語り口調と要点をおさえた内容の挨拶で、いつも話が短い。社員たちの忙しさも把握しており、延々と無駄話が続けられないのはありがたい限りだ。
例のごとく新年度の挨拶をさらっと済ませると、続いて新しく就任するという副社長と立ち位置を交代する。
陽芽子は登壇する新副社長の後ろ姿を遠い場所から眺めて、ひとりで微笑ましい気分になった。事前に聞いていた通り新副社長はまだ若い年齢らしい。若々しさだけではなく、初々しささえ感じられる。
微笑ましい。
なんて思ったのはほんの数秒だけ。
「えっ」
登壇して振り返った新副社長の顔を確認した瞬間、陽芽子の口から驚きの声が漏れた。
そのまま悲鳴を上げそうになって、慌てて自分の口をパッと押さえる。それとほぼ同時に心臓がどきどきと大きな音を立てはじめた。
―――え。まさか……
いやいや……だって……
何? ―――ド、ドッキリ?
誰が陽芽子を脅かせて得をすると言うのだろう。わかってはいるのに、口元を押さえたままどこかにカメラがあるのではないかと視線を彷徨わせてしまう。ありもしない事を考えてしまうのも、無理はない。
登壇して振り返った人物は、確かに見たことがある顔。発した声と名前は確かに聞き覚えのある音。
「本日よりクラルス・ルーナ社の代表取締役副社長に就任しました、一ノ宮 啓五です」
丁寧な口調でマイク越しに告げられた言葉に、陽芽子の全身からサッと血の気が引いた。
ケイゴ。
三日前の金曜の夜、恋に破れて失意の底にいた陽芽子を慰めてくれた人。鋭い瞳と低い声とは裏腹に、優しい言葉と丁寧な指遣いで陽芽子のひび割れた心を潤してくれた人。もう会うこともないと思っていた、一夜の相手。その人と似た姿で、偶然にも同じ名前。
いや、違う。偶然の一致じゃない。姿が似ていて、名乗った名前がたまたま同じだった訳ではない。遠目でも見間違えるはずがない。
陽芽子はもう気が付いている。登壇して本日より副社長に就任すると述べた人が、紛れもなく陽芽子と一夜を過ごした、あの『啓五』だということに。
何故なら彼は、会員制バーのVIPルームから降りてきた。身に着けるものはオーダーメイドの、高級で上質なものだった。庶民が簡単に宿泊できるとは思えない高級ホテルをごく当たり前のように利用していた。ルーナ・グループ全社の経営を己の一族のみで行う『一ノ宮』の者に共通する特徴と同じく、名前に漢数字が含まれていた。
酔っていてすっかり流していたかすかな違和感と、登壇して挨拶を述べている人物の姿が、ぴたりと重なる。一夜の相手と新しく就任した副社長が同一人物だと、唐突に理解する。
「……っ!」
確信した瞬間、心臓が奇妙な音を立て始めた。そのままどこまでも転がっていく爆音が周囲に漏れ出ないよう、ブラウスの上からギュウっと胸を押さえる。
けれどその程度では驚きは収まらない。むしろ時間の経過とともにどんどん現実が明瞭になってきて、余計に焦ってしまう。思わずヨロリと後退する。
偶然が、怖い。
「どしたの、白木ちゃん」
「白木さん? 具合悪いの?」
野坂と澤本にこそこそと話しかけられ、慌ててぶんぶんと首を振る。
始業時間前から変な汗をかいている感覚と、やってしまった……という先には立たない後悔を覚えながら、陽芽子はひとり思う。
人生には落とし穴ある。現実世界には優しくてえっちが上手な御曹司は存在するが、神様なんてものは存在しないらしい。
月曜の朝なのに、不思議と気分がすっきりしていて清々しい。
その理由はわかっている。自分でも驚くほど、今回は失恋から立ち直るのが早かったから。悲しい気持ちをさっぱりと忘れて、新たな心境で新年度を迎えることが出来たから。失恋したこと自体すっかり忘れてしまうほど、今の気分は晴れやかだ。
株式会社クラルス・ルーナ。
入口の上に掲げられた社名を一瞥すると、そのまま歩を進めてエレベーターを待つ社員の列に並ぶ。とは言えまだ早い時間なので、さほど待たずに搭乗できるだろう。
クラルス・ルーナ社の母体であるルーナ・グループは農水産物の生産や加工、食品の製造・販売、飲食店およびホテル内レストランの経営、輸入食品の販売や自社製品の輸出など、食と名の付く業界に幅広く参入する巨大企業だ。
系列四社のうち、クラルス・ルーナ社は主に食品の製造・販売を担っている。とくにプライベートブランドの加工食品・菓子・飲料などの製品は、スーパーやデパートの食品売り場、ドラックストアやコンビニエンスストアに行けばどこでも入手できるほど有名なものばかり。
陽芽子の所属部署は、その製品パッケージに書かれている電話番号の向こう側―――コールセンター内のお客様相談室だ。
しかも肩書はお客様相談室、室長。役職で言えば係長に相当するが、部署名がお客様相談『室』なので便宜上『室長』と呼ばれている。
「おはようございます、室長」
「おはようございます~」
「おはよう。二人とも早いね」
IDカードでロックを解除してコールセンター内へ足を踏み入れると、部下の蕪木と鈴本が既に出社して雑談を交わしていた。同時に声を掛けられたのでまとめて返事をすると、二人がブースの仕切り越しに顔を見合わせた。
「室長、機嫌いいですね?」
「何かいい事あったんですかぁ?」
自分では特に感情を表現したつもりはない。けれど部下たちには目聡く悟られてしまったようで、興味津々な様子で話しかけられた。
「別に何もないわよ」
笑顔を浮かべて適当に誤魔化す。二人は不思議そうに首を傾げていたが、陽芽子が何も言わずにいるとそのうちまた雑談に戻っていった。
いつもの空気に軌道修正できたことを確認すると、ほっと胸を撫で下ろす。自分のデスクに腰を落ち着けながら、あまり感情を表に出さないようにしなければ、と再度気を引き締める。
精神統一を図ったあとは、朝の作業を開始する。やることは先週のチェックや今日の予定の確認などルーティーン化されたものばかり。けれど今日は年度の初めなので、いつもより少しだけやることが多く、おまけに新年度の朝礼にも出席しなければいけない。
お客様からの要望を聞き受ける『お客様相談室』、通信販売の操作案内やポイント制度の補助を担う『システムサポート係』、季節の品や冠婚葬祭の品など贈答物への問い合わせを担当する『ギフトセンター』の三部門を合わせた『コールセンター』は、陽芽子の部下を含めて正社員より派遣社員が多い。
しかも定刻になると電話回線を開けるので、基本的に部署長以外は朝礼への出席を免除される。だから通常は、コールセンター課長である春岡以外は朝礼に出る必要はない。
けれど今日ばかりはそうもいかない。
何故なら本日付で、新しい副社長が就任する予定になっているから。
経営陣が変わるのであれば、最低でも役職に就いているものは朝礼に出席するというのが、暗黙の了解となっている。よって今日は、陽芽子も朝礼に出席しなければならない。
確認作業をしているうちに朝礼の時間が近付いてきたらしく、課長の春岡から声を掛けられた。
「おはよう、白木」
「春岡課長。おはようございます」
「ん? 白木、何かいい事あったのか?」
また言われた。
普通に返答したつもりだったのに、上司にまで楽しげに問いかけられて、陽芽子は言葉に詰まった。それでも一応『いいえ』と笑顔を浮かべるが、仕切りの向こうから蕪木と鈴本がまたこちらの様子を見ていることに気が付いた。
もう、ほっといて欲しいのに。
*****
システムサポート係長の機械オタク男子野坂 と、ギフトセンター長の温和なマダム澤本と共に、四人で大ホールへ足を運ぶ。立ち位置が決まっているわけではないので揃って適当な壁際に立っていると、間もなく朝礼が始まった。
代表取締役社長である一ノ宮 怜四氏は、明朗快活な語り口調と要点をおさえた内容の挨拶で、いつも話が短い。社員たちの忙しさも把握しており、延々と無駄話が続けられないのはありがたい限りだ。
例のごとく新年度の挨拶をさらっと済ませると、続いて新しく就任するという副社長と立ち位置を交代する。
陽芽子は登壇する新副社長の後ろ姿を遠い場所から眺めて、ひとりで微笑ましい気分になった。事前に聞いていた通り新副社長はまだ若い年齢らしい。若々しさだけではなく、初々しささえ感じられる。
微笑ましい。
なんて思ったのはほんの数秒だけ。
「えっ」
登壇して振り返った新副社長の顔を確認した瞬間、陽芽子の口から驚きの声が漏れた。
そのまま悲鳴を上げそうになって、慌てて自分の口をパッと押さえる。それとほぼ同時に心臓がどきどきと大きな音を立てはじめた。
―――え。まさか……
いやいや……だって……
何? ―――ド、ドッキリ?
誰が陽芽子を脅かせて得をすると言うのだろう。わかってはいるのに、口元を押さえたままどこかにカメラがあるのではないかと視線を彷徨わせてしまう。ありもしない事を考えてしまうのも、無理はない。
登壇して振り返った人物は、確かに見たことがある顔。発した声と名前は確かに聞き覚えのある音。
「本日よりクラルス・ルーナ社の代表取締役副社長に就任しました、一ノ宮 啓五です」
丁寧な口調でマイク越しに告げられた言葉に、陽芽子の全身からサッと血の気が引いた。
ケイゴ。
三日前の金曜の夜、恋に破れて失意の底にいた陽芽子を慰めてくれた人。鋭い瞳と低い声とは裏腹に、優しい言葉と丁寧な指遣いで陽芽子のひび割れた心を潤してくれた人。もう会うこともないと思っていた、一夜の相手。その人と似た姿で、偶然にも同じ名前。
いや、違う。偶然の一致じゃない。姿が似ていて、名乗った名前がたまたま同じだった訳ではない。遠目でも見間違えるはずがない。
陽芽子はもう気が付いている。登壇して本日より副社長に就任すると述べた人が、紛れもなく陽芽子と一夜を過ごした、あの『啓五』だということに。
何故なら彼は、会員制バーのVIPルームから降りてきた。身に着けるものはオーダーメイドの、高級で上質なものだった。庶民が簡単に宿泊できるとは思えない高級ホテルをごく当たり前のように利用していた。ルーナ・グループ全社の経営を己の一族のみで行う『一ノ宮』の者に共通する特徴と同じく、名前に漢数字が含まれていた。
酔っていてすっかり流していたかすかな違和感と、登壇して挨拶を述べている人物の姿が、ぴたりと重なる。一夜の相手と新しく就任した副社長が同一人物だと、唐突に理解する。
「……っ!」
確信した瞬間、心臓が奇妙な音を立て始めた。そのままどこまでも転がっていく爆音が周囲に漏れ出ないよう、ブラウスの上からギュウっと胸を押さえる。
けれどその程度では驚きは収まらない。むしろ時間の経過とともにどんどん現実が明瞭になってきて、余計に焦ってしまう。思わずヨロリと後退する。
偶然が、怖い。
「どしたの、白木ちゃん」
「白木さん? 具合悪いの?」
野坂と澤本にこそこそと話しかけられ、慌ててぶんぶんと首を振る。
始業時間前から変な汗をかいている感覚と、やってしまった……という先には立たない後悔を覚えながら、陽芽子はひとり思う。
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