スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない

紺乃 藍

大人の恋の悩みごと

「へえ、じゃあ陽芽子は浮気されたんだ」
「ええ、そうです。うん……ははは」

 何で金曜の夜に一人で飲んでんの? と聞かれたので、つい先ほど環に話した内容をもう一度繰り返す。話を聞いてもらっているうちに、下の名前を呼び捨てにされていることはさておき。

 改めて啓五に現実を突きつけられ、陽芽子は乾いた笑いを零した。

 先ほどまで飲んでいた『ル・ロワイヤル』は空になり、グラスの中は『アプリコット』にかわっている。

 次のオーダーをするとき、環には目線で一瞬止められた。けれど見ていた啓五が『飲ませてやればいいじゃん』と口を挟んだので、結局目の前にはアプリコットブランデーのカクテルが用意されている。

 度数の割に甘いカクテルを口に含むと、啓五の指もモヒートのグラスに伸びた。

「私……はやく結婚したいのにな……」

 いつの間にか愚痴に付き合わせていることを、申し訳ないと思いつつ。ぽつりと呟いた願望は、ビタミンカラーの煌めきの中にほろりと落ちて溶けていった。

「結婚したい? なんで?」

 不思議そうに首を傾げた啓五の反応を確認して、つい苦い笑みを浮かべる。

 そう、男の人は大抵そういう反応をする。世の中の男性たちは、結婚したいという女性の気持ちを中々理解してくれない。

 もちろん陽芽子も、結婚が人生の全てだとは思っていないない。仕事は『きつい』が、嫌という訳ではない。むしろやりがいがあって充実していると思う。だから仕事から逃れるために結婚したいと思っているわけではなく。

 ただ、普通に生きているつもりでも辛いときがある。どうしても寂しい時間がある。誰かに甘えて頼りたい日がある。

 だからそんなつらくて苦しい日々からほんの少しだけで抜け出て、疲れをほぐすように癒して癒されて、お互いを高め合っていける『自分だけの存在』が欲しいと思う。

 けれどそれが『恋人』のうちは不安定な状態だ。本人たちや周囲の人だけではなく、法律にも認められる『家族』の関係にならなければ、安らかさや癒しは簡単に崩壊してしまう。その現実をつい一週間ほど前に味わったばかりだから、余計に身に染みる。

「他の人じゃなくて、私だけに向けてくれる愛情が欲しいから……かな」

 酒に酔った勢いで言ってしまう。もちろん両親を安心させたいとか、女性の身体には出産のタイムリミットがあるとか、知人に気を遣われるとか、自分の感情以外の理由もある。

 でもそれよりも、陽芽子自身が愛情を欲している。ただ自分だけに、他とは違う特別な感情を向けてくれる人が欲しい。それも一時的なものではなくて、永遠のものを。

 陽芽子は何でも出来るから、って。俺がいなくても平気だろ、って。一緒にいるとプレッシャー感じる、って。そんな一方的な理由を押しつけて離れて行かない人。本当は全然完璧じゃない自分を好きになって、大事にしてくれる人。

「でも私、可愛げないから……。きっと無理なんだろうなって……わかってる、の」
「……陽芽子?」

 ほろり、と。
 自分でもよくわからない涙が静かに零れ落ちた。

 頭のどこかでは馬鹿みたいな理由だと気付いている。泣くほどのことではないと理解している。相手が自分だけに愛情を向けてくれない原因が、強がってばかりで可愛げがないからだと知っている。

 それでも涙を止められないのは、お酒に酔っているから。

 そういうことにしておいて。
 今だけ。

 無言で涙を流し続ける間、啓五と環は陽芽子をそのまま放置してくれた。離れた席でマスターと話をしている別の客と、低音で流れるジャズの音だけが遠くに聞こえている。たまに啓五がグラスの中身を飲む音も。

「陽芽子」

 十五分ほどの時間が経過した頃、啓五に名前を呼ばれてはっと顔を上げた。まだ涙が出てくるんじゃないかと思ったが、彼の瞳と見つめ合った瞬間、不思議と涙は引っ込んだ。

「泣き止んだ?」
「……うん」

 鋭い印象の瞳がやわらかく微笑むので、陽芽子も素直に顎を引いた。

 特に何かを言われたわけではない。けれど少しの時間放置してもらって好きに泣いたせいか、何故かすごくスッキリした。

 ずっと我慢していた感情をちゃんと表に出したから、吹っ切れたのかもしれない。人前で泣くなんて恥ずかしいと思うけれど、負の感情を放出することは案外大切な事なのだと気付く。

 環が用意しておいてくれたティッシュで涙と鼻水を拭いていると、隣に座っていた啓五の手が伸びてきた。長い指が陽芽子の髪にゆっくりと触れる。

「心配しなくても、陽芽子は可愛いよ?」
「え……な、何?」
「それに綺麗だし」

 指先が髪の上から頬を撫でる。その急な触れ合いに驚くことも身を引くことも出来ないまま硬直していると、啓五がにこりと微笑んだ。

「浮気されて、失恋して、自信なくしたんだろうけど……大丈夫、陽芽子は綺麗で可愛いから」

 そして見つめ合ったまま、陽芽子の外見を褒めてくれる。つい一週間ほど前まで半年も付き合っていた恋人がいたにもかかわらず、褒め言葉を聞くのはかなり久しぶりだ。

 思わず照れる。臆面もなく人前で他人を褒める啓五に驚き、その手から逃れようと身体を揺らす。

「あり、がとう」

 恥ずかしさから小さな声でお礼を言うと、啓五がカウンターに肘を付いた。そのまま顔を覗き込まれ、ふたりの身体がさらに近付く。

 距離が近いよ、なんて指摘するよりも、啓五の艶のある誘惑の方が早かった。

「試してみる?」

 切れ長の眼をさらに細め、口の端を上げて熱を含んだように笑う表情と言葉の意味が、咄嗟には理解できなかった。

「え、と……何を?」
「俺と、してみる?」

 人懐こい仔犬のように首を傾げられて、陽芽子は今度こそ本当に驚いた。

 ビタミンカラーのカクテルの中に、啓五の突然の誘い文句がとけていく。何かの冗談なのかと思った陽芽子は、ついぱちぱちと瞬きをしてしまう。

 けれど聞き間違いかと思った啓五の誘惑は、間違いでも嘘でも冗談でもなかった。

「早く立ち直って次の恋をするなら、自信なくしてる時間なんかないだろ?」
「そ……それは、そう、……だけど」
「男に愛されることを思い出せば、すぐに次の恋がしたくなると思うけど」

 独特の持論を並べた啓五は、陽芽子を懐柔しようと笑顔のままでさらに踏み込んできた。

 甘い夜の誘い。その口ぶりを聞いていると、遊び慣れてるなぁ、と思ってしまう。

 そんな陽芽子の驚きと呆れの表情に気付いたのか、啓五はすぐに悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

「というのは建前で。本当は陽芽子が可愛いから興味を持った……って言ったらどうする?」

 試すような言葉を聞いて、陽芽子は静かに息を飲んだ。

 ちらりとバーカウンターの中を見ると、いつの間にか環の姿が消えている。どうやら奥のテーブル席の状況を確認するために持ち場を離れたらしい。小さな隙も見逃さずに、的確なタイミングで女性を誘う手口をズルイと思うけれど。

「……いいよ」

 ポツリと呟くと、彼の提案を受け入れるように顎を引く。

 もちろん啓五の言う通りにしたところで、恋愛に対する自信を取り戻せるとは思っていない。けれど陽芽子は、嘘でも冗談でも『可愛い』『綺麗』という褒め言葉が嬉しかった。もちろんそれがわかりやすい社交辞令だということには気付いていた。

 それでも若さで劣るという理由であっさり恋人に捨てられた惨めな自分が、彼には受け入れられているように思えた。

 初対面で一切見えない内面を褒められるより、分かりやすく外見を褒められた方が真実味があると思ったからかもしれない。なんにせよ、沈んだ気持ちがふわりと軽くなったのは紛れもない素直な感情だ。

 だから今夜は、理由なんてどうでも良かった。

「酔ってる、から」

 自分でそう言い訳した台詞を最後に、記憶が断片的に飛んでいる。そこからどうやってIMPERIALを出たのか、どうやって移動したのかはちゃんと覚えていない。気持ち悪さや吐き気は全くなかったから、吐き戻したりはしていないと思う。


 ふわふわ、ゆらゆら、くるくる。
 とけていく甘いカクテルのように。

 乱れる思考と視界の中で、一度だけ啓五と視線が合ったことは覚えている。至近距離から彼の顔を見上げたときに、その眼が三白眼であることに気が付いた。

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