忘却不能な恋煩い

白山小梅

求めてしまうのは(2)

 紗世と一緒だからだろうか。久しぶりに食事が美味しいと感じた。お腹が満たされると、不思議と元気になったような気もする。

「食べながら考えでたんだけど、やっぱりおかしいよね。その男は家に奥さんがいるのに、美琴ちゃんはその男に一途でいないといけないの? 相手が不誠実なんだし、美琴ちゃんも別に好きな人とかがいてもいいんじゃない? 美琴ちゃんにはもっと相応しい良い人がいるはずだよ」

 不倫のことで悩んでいるのに、そんな二股のようなことを出来るはずがない。

「美琴ちゃんはきっと愛してるって言われるとそう思い込んじゃうような呪い? 催眠術? にかけられちゃったんだね。目覚めるには王子様のキスみたいな何かが必要なのよ」
 
 今の現状から抜け出せるような恋なら堕ちたいとすら思う。

 美琴の様子を見ていた紗世は、おもむろにカバンの中を探り出す。

「美琴ちゃん、三年前のことをすごく引きずってるよね。本当は彼にもう一度会いたいって思ってるんじゃない?」

 まるで心の中を見透かされたようだった。そんなこと、毎日のように思ってる。あの時、違う選択をすべきだったんじゃないかって、どうにもならない過去を振り返ってしまう。

「三年前のあの日、なんであの人と二人きりになるのを許したのって怒ってたでしょ? でも私たちも簡単に了承したわけじゃないのよ」

 紗世は一枚の名刺をカウンターの上に置いた。

『ブルーエングループ エリアマネージャー 
 津山尋人』

「これって……」
「身分証代わりって渡されたの。不倫男よりはずっと誠実よね! 美琴ちゃんはなかなか奥手だし、それくらい真剣なら話すくらいはいいんじゃないのかなって」

 あの後、二人のことは特に追及はしなかった。聞くとあの夜のことを話さないといけない気がして、それなら黙っていようと思ったのだ。

「もうここにはいないかもしれないけど、もし気になるなら試しに連絡してみたら?」

 紗世の言葉に促され、美琴は名刺を手に取る。しかしその瞬間、背後から伸びてきた手に奪われてしまう。

「これはもう古い名刺だから回収させてもらうよ」

 奥のカウンターに座っていたはずのスーツの男性が、いつの間にか美琴の隣にいた。

 男は細身のダークグレーのスーツを身にまとい、短い黒髪からは清潔感が漂う。切れ長の瞳に見つめられ、美琴は動けなくなる。

 あれっ、この目って……。
 
「まぁ俺もだけど、三年でだいぶ印象が変わるもんだな。あの時はまだあどけない感じだったのに」
「……!」
「思い出した? というか、今も俺の話してたもんな」
「えっ……まさか三年前の人? ちょっ、まるで別人じゃないですか! しかもこんなタイミングで……」

 美琴の心拍数が上がっていく。血の気が引きそうだった。再会したことではなく、今までの話を聞かれていたことに恐怖を覚える。彼が座ったタイミングはしっかり覚えていた。だからこそ、彼が話を全て聞いていたと確信する。

「……でも驚いた。あの時が初めてだったあんたが、まさか不倫してるなんてな」

 彼の言葉が刃のように心に突き刺さる。

「あんた俺に嘘つきは泥棒の始まりって言ったの覚えてる? そのあんたが男に嘘つかれて、まわりに嘘ついて、人の男を奪おうとしてるなんてな」
「そんなことしてない!」
「嘘つき」

 美琴はカッとなって尋人の頬を叩こうとしたが、その手を掴まれてしまう。力が強く、振りほどくことが出来ない。

「離して……!」
「嫌だね。今日は逃がさない」

 紗世は二人の様子を見ながら気が気ではなかった。座ってからずっとこちらに背を向けているのが気になっていたが、まさかあの時の男性だったとは……。

 するとカウンターの中からバーテンダーの男性がコースターを一枚紗世の前に置いた。二人に気付かれないようにそっと裏返すと、メッセージが書かれていた。

『彼に連絡をしたのは私です。この三年、彼は彼女を探していました。このまま見守っていただけませんか?』

 紗世は目を見開く。この男が美琴ちゃんを探していた? これが事実なら、美琴ちゃんはずっと思い違いをしていたということ? 

 このまま見守っていれば、もしかしたら掛け違えたボタンを戻せるかもしれない。でも何かあったらと思うと、このまま置いて行くのも気が引ける。

「あの、すみません」

 紗世は泣いている美琴の肩を抱きながら男に話かけた。しかし男は美琴から視線を外そうとしない。誰に対するものかはわからないが、男の静かな怒りが伝わってくる。紗世はその空気に気持ちを潰されそうになるのを、深呼吸で堪えた。

「新しい名刺をいただけますか?」

 男は美琴の手を掴んだまま、片手で胸ポケットから名刺入れを取り出す。器用に中から一枚取り出すと、紗世にスッと渡した。

 受け取った名刺を見た紗世は目を丸くした。

『ブルーエングループ 専務 津山尋人』

 は……? この三年で役職上がりすぎじゃない?

「身分は証明出来ただろ? 彼女と二人になりたいんだけど」

 男は紗世を見ようともしない。この俺様男、まるで三年前と同じような会話じゃない。紗世は少しカチンときた。だがこの男の真剣な気持ちも伝わってくる。もしかしたら本当に美琴ちゃんを探していたのかもしれない。

 ふと先ほどの会話を思い出す。催眠術から目覚めるための何か。この人なら美琴ちゃんを導いてくれるのではと淡い期待を抱く。

「美琴ちゃん、一度話してみた方がいいよ。もしかしたら思い違いがあるかもしれない。これを機に、一歩踏み出そう」

 美琴は黙ったまま固まっている。

 紗世は抱いていた肩を優しく叩く。そして荷物をまとめると、三年前のように尋人を睨みつける。

「美琴ちゃんに何かあったら容赦しませんからね」
「……わかってる」

 店を後にする紗世の背中を見送る。美琴は急に不安になった。二人きりになるのが怖い。さっきみたいに罵られたら立ち直れないかもしれない。

「美琴、俺たちも出るぞ」

 急に名前で呼ばれ、体がビクッと震えた。まだ手を掴まれたままだから、きっと尋人にも伝わったはずだった。それでも彼は美琴の手を引き、椅子から立ち上がらせる。

 尋人は美琴の荷物を持つ。バーテンの男性に何か話しかけてから、扉を押して外に出る。フワッと初夏の生温い風が体をすり抜けて行く。

「……どこに行くんですか?」

 駅とは反対方向に歩き出した尋人に聞いた。

「職場に車を置いてきたんだ」
「……お酒は?」
「今日は飲んでない」

 素っ気ない反応。それは私もか……。

 五分ほど歩くと、ブルーエングループの大きなビルが見えてきた。裏のエレベーターから地下に降りて、駐車場に向かう。その間、二人とも一言も発しなかった。今は何を言っても正解に辿り着けない気がしたのだ。

「乗って」

 尋人は車のドアを開けると、助手席に美琴を座らせる。

 美琴は尋人の車が国産のスポーツカーであることに少し驚いた。こういう車に乗るようには見えなかったのだ。

 十五分程走ると、車はタワーマンションの駐車場に入っていく。

 美琴の不安が更に大きくなっていく。

「ここって……」

 美琴の言葉に返事はせず、尋人は車を駐車し、エンジンを切る。

「ここはどこかって? もちろん俺のマンション。ホテルだとまた逃げられる可能性があるから」
「だってあれは……!」

 言いかけて唇を塞がれた。

「言い訳は後で聞いてやる。今度は逃がさないよ」

 再びキスをされ、美琴はゆっくり目を閉じた。ダメなのに……あの時と同じ感情が胸の中で燻り始める。

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