忘却不能な恋煩い
尚政、かく語りき
物心ついたころから、津山尋人は憧れの存在だった。
小学校では六年間全てリレーの選手に選ばれたし、中学は難関男子校に合格し、成績も常に上位をキープ。高校では生徒会の会計を務め、国立大学の経営学部に進学。絵に描いたようなエリート街道まっしぐらだった。
津山家は三兄弟だが、長男が早くからアメリカへ留学し、弟は宇宙に関わる仕事がしたいと違う道に進んだため、父である社長からの期待は尋人に注がれていた。
尋人はいずれ兄が会社を継ぐから、そのために尽力するんだと言っているが、誰もがあの長男は帰ってこないと思っている。口にはしないけどね。
社長の弟が俺の父で、昔から家族ぐるみで仲良くしていた。中でも俺は尋人の人間性が好きで、津山家に入り浸っていたものだ。尋人はそんな俺を邪険にせず、弟みたいに接してくれた。
完璧なんだよなぁ、尋人って。どこに欠点があるのかっていうくらい。いろんな人に慕われてるし、すぐに仲良くなれる愛嬌もあるし。
大学時代はほどほどに遊んでいたみたいだけど、父親の会社に入社してからは、仕事しかしていないように見えた。
ちゃんと休んでるのか心配になるくらい。でも聞いてみても「大丈夫」の一点張りで、なかなか尋人の本体を掴むことが出来なくなっていた。
あの頃は俺も別の会社に勤めていて、お互いに忙しくて会うことが出来なかった。
兄と弟が自由にやっているのに、尋人は文句一つも言わない。凄いなぁと改めて思いながらも、尋人が壊れるんじゃないかと怖くなったこともある。
誰かのためじゃなくて、自分のために生きてほしいよ。
そんな矢先だった。尋人からアメリカへ秘書として同行してほしいと言われたのだ。
俺は迷うことなく了承した。尋人に頼られるなんて今までなかったし、尋人のために何かしたいと思っていたんだ。
ただ久しぶりに会った尋人は、今までと少し様子が違っていた。いや、いつも通りなんだ。だけど時々遠い目をする。その先に何を見ているのかわからなかった。
しかしそれも数日後に判明した。
前社長秘書の藤盛さんが早期退職をして始めたバーに二人で行った時のこと。
「あれから彼女は?」
尋人が藤盛さんに尋ねたのだ。
「残念ながら……」
尋人は誰の目にもわかるくらい落ち込んでいた。そんな尋人を見たのは初めてだった。
「えっ、ちょっと待てよ。尋人が女のことで落ち込んでんの?」
「……悪いかよ」
あまりの出来事に、不謹慎だが大爆笑してしまった。まぁその後、怒った尋人に殴られたけど。
こんな尋人、家族だって知らないぞ。俺と藤盛さんだけだ。訳の分からない優越感すら感じる。
尋人が恋してるって。大声で叫びたい衝動を必死に抑え込む。
「ねぇねぇ、尋人をこんなにしたのはどんな女なの?」
「……お前なんかに言わねえ」
「なんだよ、ケチ。じゃあ藤盛さん教えてくれよ〜!」
「そうですねぇ。とてもかわいらしい女性でしたよ。かなり年下とお見受けしました」
「ちょっ、何ペラペラ喋ってんだよ藤盛さん!」
「そうか〜。年下のかわいい子か〜。いつ会ったの? もうやっちゃったわけ?」
「朝起きたらいなかったそうです」
「ふ〜じ〜も〜り〜さ〜んっ!」
「えぇっ! 尋人がやり逃げされちゃったの⁈ やるなぁ、その子」
「そういうんじゃないんだよ! そういうタイプの子じゃなかったから……」
「まさか惚れちゃったわけ?」
「わかんないけど、また会いたいって思っただけだよ」
何がわかんないだよ。明らかに惚れてるだろ。まぁでも一夜の相手じゃ探すのは無理だろうなぁ。
「ってか、そんな気持ちのままアメリカに行くわけ? 大丈夫?」
「ダメかもしれないからお前を連れて行くんだよ」
それだけ頼られてるのは悪い気がしない。
「まぁ彼女のことは帰国するまではどうにもならないからね。とりあえず仕事に打ち込もうぜ」
「……そうだな」
* * * *
アメリカでも尋人らしい仕事ぶりが評価された。支部の社長を任されている兄と共に、かなりの実績を残していた頃、父親から帰国の要請があった。
尋人は相変わらず仕事の鬼だし、父の言うことは絶対だった。
ちなみにアメリカでの尋人は仕事ばかりで、ちょこちょこそういう誘いはあったみたいだけど、特定の彼女は作らなかった。
興味がないのか、忙しいからか、あの子を引きずっているのか。俺にはわからなかった。でももう過去のことだし、吹っ切れたのかなと勝手に思っていた。
帰国して若き専務となり、ますます忙しそうだった。
一度社長から呼び出されて、尋人の女性関係について聞かれたけど、「何もありません」と答えるしかなかった。だって事実だし。
あの日もいつも通りの金曜日だった。週末ということもあり、月曜日までに終わらせなければならない書類の確認がたくさん残っていた。
だがそれは突然だった訪れた。尋人のスマホが鳴り、いつも通り受ける。しかしすぐに尋人の顔色が変わり、落ち着きがなくなる。
「わかりました。ありがとう」
尋人はスマホを下ろすと、片手で口を覆う。驚きと喜びと困惑とが入り混じったような、読み取りづらい表情をしている。
「尋人?」
「尚政、ごめん、俺行かないと」
「はっ⁈ まだ終わってないぞ! どうすんだよ」
「埋め合わせはするから。後よろしく」
尋人は慌てて荷物をまとめると、俺のことなんてすっかり忘れたように部屋を飛び出して行った。
「なんだよ、あれ……って待てよ。俺残業じゃん。絶対に埋め合わせしてもらうからな!」
文句を言いながらなんとか一人で仕事を終わらせ、椅子に倒れ込んでいた時、今度は俺のスマホが鳴った。
『着信 藤盛さん』
「はいはい、どうかしましたか?」
『尚政さん、とうとう三年前の彼女が現れましたよ』
「三年前? なんでしたっけ?」
『尋人さんが恋煩いしていた女性です。先ほど彼女を連れて店を出て行きました』
そこでやっと思い出した。
「さっき尋人に電話しました?」
『はい。すぐに来ましたよ』
なんだ、やっぱりずっと引きずってたんじゃないか。何の話題も出さないからとっくに終わったものだと思ってたのに、ここに来てどんでん返しか。
これは社長に報告しないとな。
「彼女どうでした? 尋人のこと覚えてました?」
『もちろん。どうなるか楽しみですね』
「ははっ。藤盛さんもいい性格してるなぁ」
スマホを切り、窓から外を見る。全くの偶然だが、尋人が女性の手を引いて駐車場に入って行くのが見えた。
月曜日、尋人は相変わらずだったが、どこか嬉しそうだった。
* * * *
「専務、先程こんなものが届きましたよ」
封筒には探偵事務所の文字が入っている。
「あぁ、ありがとう」
「なんか変なこと企んでます?」
「俺って信用ないんだな。変なことなんてないよ。まぁ言うなら彼女を守るための道具みたいなものかな」
「すっかり骨抜きにされちゃってますね。鬼の津山が泣いてますよ」
「女のために力を尽くす俺もなかなかいいと思うけどな」
尋人は封筒の中身を確認すると、次第に表情が険しくなる。
「専務?」
尋人は封筒を鍵のかかる引き出しに入れてロックした。
「あいつ、絶対に許さないからな……」
あらあら、火がついた尋人を鎮火する術なんで、丸腰の俺は持ち合わせていないぞ。
誰か知らないが、これは覚悟した方がいいな。
ようやく俺が憧れてた津山尋人が戻ってきたんだから。
小学校では六年間全てリレーの選手に選ばれたし、中学は難関男子校に合格し、成績も常に上位をキープ。高校では生徒会の会計を務め、国立大学の経営学部に進学。絵に描いたようなエリート街道まっしぐらだった。
津山家は三兄弟だが、長男が早くからアメリカへ留学し、弟は宇宙に関わる仕事がしたいと違う道に進んだため、父である社長からの期待は尋人に注がれていた。
尋人はいずれ兄が会社を継ぐから、そのために尽力するんだと言っているが、誰もがあの長男は帰ってこないと思っている。口にはしないけどね。
社長の弟が俺の父で、昔から家族ぐるみで仲良くしていた。中でも俺は尋人の人間性が好きで、津山家に入り浸っていたものだ。尋人はそんな俺を邪険にせず、弟みたいに接してくれた。
完璧なんだよなぁ、尋人って。どこに欠点があるのかっていうくらい。いろんな人に慕われてるし、すぐに仲良くなれる愛嬌もあるし。
大学時代はほどほどに遊んでいたみたいだけど、父親の会社に入社してからは、仕事しかしていないように見えた。
ちゃんと休んでるのか心配になるくらい。でも聞いてみても「大丈夫」の一点張りで、なかなか尋人の本体を掴むことが出来なくなっていた。
あの頃は俺も別の会社に勤めていて、お互いに忙しくて会うことが出来なかった。
兄と弟が自由にやっているのに、尋人は文句一つも言わない。凄いなぁと改めて思いながらも、尋人が壊れるんじゃないかと怖くなったこともある。
誰かのためじゃなくて、自分のために生きてほしいよ。
そんな矢先だった。尋人からアメリカへ秘書として同行してほしいと言われたのだ。
俺は迷うことなく了承した。尋人に頼られるなんて今までなかったし、尋人のために何かしたいと思っていたんだ。
ただ久しぶりに会った尋人は、今までと少し様子が違っていた。いや、いつも通りなんだ。だけど時々遠い目をする。その先に何を見ているのかわからなかった。
しかしそれも数日後に判明した。
前社長秘書の藤盛さんが早期退職をして始めたバーに二人で行った時のこと。
「あれから彼女は?」
尋人が藤盛さんに尋ねたのだ。
「残念ながら……」
尋人は誰の目にもわかるくらい落ち込んでいた。そんな尋人を見たのは初めてだった。
「えっ、ちょっと待てよ。尋人が女のことで落ち込んでんの?」
「……悪いかよ」
あまりの出来事に、不謹慎だが大爆笑してしまった。まぁその後、怒った尋人に殴られたけど。
こんな尋人、家族だって知らないぞ。俺と藤盛さんだけだ。訳の分からない優越感すら感じる。
尋人が恋してるって。大声で叫びたい衝動を必死に抑え込む。
「ねぇねぇ、尋人をこんなにしたのはどんな女なの?」
「……お前なんかに言わねえ」
「なんだよ、ケチ。じゃあ藤盛さん教えてくれよ〜!」
「そうですねぇ。とてもかわいらしい女性でしたよ。かなり年下とお見受けしました」
「ちょっ、何ペラペラ喋ってんだよ藤盛さん!」
「そうか〜。年下のかわいい子か〜。いつ会ったの? もうやっちゃったわけ?」
「朝起きたらいなかったそうです」
「ふ〜じ〜も〜り〜さ〜んっ!」
「えぇっ! 尋人がやり逃げされちゃったの⁈ やるなぁ、その子」
「そういうんじゃないんだよ! そういうタイプの子じゃなかったから……」
「まさか惚れちゃったわけ?」
「わかんないけど、また会いたいって思っただけだよ」
何がわかんないだよ。明らかに惚れてるだろ。まぁでも一夜の相手じゃ探すのは無理だろうなぁ。
「ってか、そんな気持ちのままアメリカに行くわけ? 大丈夫?」
「ダメかもしれないからお前を連れて行くんだよ」
それだけ頼られてるのは悪い気がしない。
「まぁ彼女のことは帰国するまではどうにもならないからね。とりあえず仕事に打ち込もうぜ」
「……そうだな」
* * * *
アメリカでも尋人らしい仕事ぶりが評価された。支部の社長を任されている兄と共に、かなりの実績を残していた頃、父親から帰国の要請があった。
尋人は相変わらず仕事の鬼だし、父の言うことは絶対だった。
ちなみにアメリカでの尋人は仕事ばかりで、ちょこちょこそういう誘いはあったみたいだけど、特定の彼女は作らなかった。
興味がないのか、忙しいからか、あの子を引きずっているのか。俺にはわからなかった。でももう過去のことだし、吹っ切れたのかなと勝手に思っていた。
帰国して若き専務となり、ますます忙しそうだった。
一度社長から呼び出されて、尋人の女性関係について聞かれたけど、「何もありません」と答えるしかなかった。だって事実だし。
あの日もいつも通りの金曜日だった。週末ということもあり、月曜日までに終わらせなければならない書類の確認がたくさん残っていた。
だがそれは突然だった訪れた。尋人のスマホが鳴り、いつも通り受ける。しかしすぐに尋人の顔色が変わり、落ち着きがなくなる。
「わかりました。ありがとう」
尋人はスマホを下ろすと、片手で口を覆う。驚きと喜びと困惑とが入り混じったような、読み取りづらい表情をしている。
「尋人?」
「尚政、ごめん、俺行かないと」
「はっ⁈ まだ終わってないぞ! どうすんだよ」
「埋め合わせはするから。後よろしく」
尋人は慌てて荷物をまとめると、俺のことなんてすっかり忘れたように部屋を飛び出して行った。
「なんだよ、あれ……って待てよ。俺残業じゃん。絶対に埋め合わせしてもらうからな!」
文句を言いながらなんとか一人で仕事を終わらせ、椅子に倒れ込んでいた時、今度は俺のスマホが鳴った。
『着信 藤盛さん』
「はいはい、どうかしましたか?」
『尚政さん、とうとう三年前の彼女が現れましたよ』
「三年前? なんでしたっけ?」
『尋人さんが恋煩いしていた女性です。先ほど彼女を連れて店を出て行きました』
そこでやっと思い出した。
「さっき尋人に電話しました?」
『はい。すぐに来ましたよ』
なんだ、やっぱりずっと引きずってたんじゃないか。何の話題も出さないからとっくに終わったものだと思ってたのに、ここに来てどんでん返しか。
これは社長に報告しないとな。
「彼女どうでした? 尋人のこと覚えてました?」
『もちろん。どうなるか楽しみですね』
「ははっ。藤盛さんもいい性格してるなぁ」
スマホを切り、窓から外を見る。全くの偶然だが、尋人が女性の手を引いて駐車場に入って行くのが見えた。
月曜日、尋人は相変わらずだったが、どこか嬉しそうだった。
* * * *
「専務、先程こんなものが届きましたよ」
封筒には探偵事務所の文字が入っている。
「あぁ、ありがとう」
「なんか変なこと企んでます?」
「俺って信用ないんだな。変なことなんてないよ。まぁ言うなら彼女を守るための道具みたいなものかな」
「すっかり骨抜きにされちゃってますね。鬼の津山が泣いてますよ」
「女のために力を尽くす俺もなかなかいいと思うけどな」
尋人は封筒の中身を確認すると、次第に表情が険しくなる。
「専務?」
尋人は封筒を鍵のかかる引き出しに入れてロックした。
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