忘却不能な恋煩い

白山小梅

休息の時(1)

 尋人の部屋からの初出勤は不思議な感じがした。自分の部屋以外から出かけるなんて、今までなかったのだ。

 彼といると初めてのことばかりでドキドキする。まるで学生に戻ったみたい。

「病院の近くまで送ろうか?」

 さらっと言った彼にお断りを入れ、美琴は電車で出勤した。いつもと同じ路線の反対方向。しかもたった二駅で着いてしまう。

 朝のラッシュ時間が辛かったから、すごくありがたい。ただ駅の目の前が病院のため、外に出るまでは相変わらず時間がかかる。

 車通勤か……頭をよぎった甘い考えを追い出す。付き合ってるわけでもないし、楽そうなんて思ったらダメ。

 社員用の通路を通り、社員証を認証してから更衣室に向かう。

「おはよう、美琴」

 美琴より早く到着していた同期の夏実なつみが髪を結びながら声をかけてきた。

「おはよう」
「んっ? なんかいつもより早くない?」

 夏実の言葉に、体がビクッと震える。

「えっ、あっ、うん、早起きしちゃったから、一本前の電車に乗ったの」
「わかるわかる。家にいても時間持て余しちゃう時ってあるしね〜」
「そうそう」

 別にやましいことがあるわけじゃないのに、つい隠してしまった。まぁ今後は、この時間の電車の方が空いていたと言えばわかってくれるだろう。

「魔の月曜日か〜。頑張って乗り切らないとね!」

 休み明けの月曜日は、他の日に比べて混雑が予測される。美琴と夏実は受付カウンターの中に入り、席に着く。

 あぁ、いつもと同じ日常が始まる。でも心持ちが少し違った。

 金曜日は特に気持ちが落ち込んでいて、仕事で無理矢理気分を変えようとしていた。

 でも今日はスッキリしていて、元気もある。作らなくても、笑顔が自然と出てくる。一日頑張れそうだ。

* * * *

「なんか今日の美琴、すごく顔色がいいね」
「……今食事中だからじゃなくて?」

 社食で頼んだカレーを頬張っていた時に言われたものだから、美琴は首を傾げた。

 それを聞いて夏実は笑い転げる。

「違うよ〜! 最近の美琴、死にそうな顔してたから心配してたんだよ」
「……そんな顔してた?」
「してたしてた。すごく元気なかったし。聞かないで〜みたいなオーラ出しまくってたから、私も聞くに聞けなかったんだけど」
「そうだったんだ……なんかごめんね」
「大丈夫。そういう時って誰しもあるじゃない? でも元気になって良かったね」

 夏実はこの病院に新卒で入社してから仲良くしている。とはいえ仕事だし、あまりプライベートな話はしなかった。

「ちょっとここのところいろいろあってさ、心が折れたり立ち直ったりしてたんだけど、今は大丈夫そう」
「……彼氏?」
「う〜ん……なんか言葉にするのが難しい」

 夏実が何か言いたそうな気がしたが、美琴はその空気をかわすように立ち上がると、さっさと食器を片付けた。

「さっ、午後も頑張るぞ〜! 行こう、夏実」

 何か言われても答える自信がなかった。真実は言えないし、嘘をつけばボロが出るに違いない。

 それなら話さないのが一番。

「あっ、待ってよ〜」

 美琴は心の中で夏実に謝罪しながら仕事に戻った。

* * * *

 病院を出た時にはもう暗くなっていた。だいぶ日が伸びてきていたのになぁ。

 自転車通勤の夏実と別れ、美琴は駅に向かっていた。

 スマホを取り出してメッセージを確認をする。尋人から一通届いていたが、確認をする前に着信音が響く。

「も、もしもし」
「お疲れ様。メッセージが既読にならないから連絡した」
「あっ、ごめんなさい。今病院を出たところで……」
「うん、知ってる」

 ん? 知ってるって……。美琴ははっとして辺りを見回した。

「惜しいな。美琴から見てもう少し左側」

 言われた方向を見ると、車の中から尋人が手を振っていた。

 美琴はまわりに知り合いがいないことを確認すると、慌てて助手席に滑り込む。そこでまたはっとする。

「私は乗って良かったんでしょうか……?」

 不安そうな美琴をよそに、尋人は笑い出す。

「当たり前じゃん。一応美琴を迎えに来たんだけど?」
「そ、それはありがとうございます……でも出来れば事前に連絡をもらえると……」

 言いかけて、先ほど読み損ねたメッセージを開く。

『病院の前で待ってる』

「すみません、来てました……」
「よろしい」
 
 美琴がシートベルトを着けるのと同時に車が走り出す。

「あの、迎えに来てくれてありがとう」

 疲れた体に、車の振動が心地良く響く。

「まぁ朝は拒否されたし、なら帰りは待ち伏せしてやろうと思って。疲れているなら拒否出来ないだろ?」

 得意そうに笑う尋人を見て、思わずつられてしまう。

「本当にその通り。すごい贅沢しちゃってる」
「美琴より先に帰っても、俺は料理出来ないから意味ないし。それなら一緒に帰った方が好都合なんだよ」
「……先に帰ってゆっくりすれば?」
「お前さぁ、もう少し察しない? 俺はお前ともっと一緒にいたいんだけど」

 一緒にいたい……その言葉は時間差で美琴に襲いかかり、顔が真っ赤になる。

「ず、ずっと一緒にいたじゃないですか」
「……足りないな」

 信号が赤になり車が止まると、尋人はギアをPに入れ、助手席の背もたれに腕を載せて美琴に顔を近づける。

「仕事以外の時間は全て独占したいんだ」

 囁くような言葉に、美琴の体が熱くなる。

 信号が青になって彼が離れてからも、心臓のドキドキは止まらなかった。

 この人ってこんなに甘々だったの? 本心を言えば、こんなことを言われてみたいと思っていたのに、いざ言われてみると、心臓への負担がかなり大きいことを知る。

「美琴さ、もっと俺に甘えていいんだよ? 今は一人で生活してるわけじゃないんだからさ」
「なんか……一人が当たり前だったから、甘え方を知らないっていうのが現実かもしれません」

 すると尋人の指が美琴の頬を撫でる。

「なるほど……じゃあ俺がしっかり教えてやるよ、男への甘え方」

 無駄に色っぽい尋人の笑顔と、耳疑うような発言に、美琴は背筋が凍るような気がした。

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