同期の御曹司様は浮気がお嫌い

秋葉なな

「ふざけんな!」

奥さんの大声に店から社員が出てきた。

「大丈夫ですか?」

遠くから警備員が走ってくるのも見えた。このままではまずいと思ったのか下田くんは奥さんをなだめる。

「落ち着けって! 取り敢えず中に入ろう」

店に入れようとするけれど奥さんはもう一度下田くんの頬を叩く。

「あんたがこの女と浮気してるの知ってるんだから! 私がつわりで苦しんでるのにふざけんなぁ!」

奥さんが叫びながら泣き始める。私たちの周りには人が集まり始めた。
混乱して頭が真っ白の私は店から出てきた社員に「大丈夫ですか?」と声をかけられたけれど恥ずかしさと怖さで顔を上げられなかった。

私たちは警備員に商業ビルの事務所に連れていかれソファーに座らされる。下田くんと奥さんは商業ビルの社員に仲裁されながらもずっと言い合いをしていた。
会社に連絡が行き上司が到着すると商業ビル側に厳重注意され、今後を話し合うために会社に戻されると私は小会議室に閉じ込められた。隣の大会議室では下田くんと奥さんと社長と上司の四人で話し合いがもたれた。

私は小会議室から1時間以上出られずにただ座ってスカートの茶色いシミを眺めていた。隣からは奥さんの怒鳴り声と泣き声が交互に聞こえる。
泣きたいのは私の方だ。浮気相手と罵られ突き飛ばされた。まだお尻が痛い。

浮気相手は私じゃなくてあの女性なのに……。

入籍してしまったら私の方が先に付き合っていても浮気相手にされてしまうのか。なんて理不尽なんだ。

コンコン

小会議室のドアがノックされた。やっと私の尋問の番かと思ったけれど、入ってきたのは優磨くんだった。

「大丈夫?」

優磨くんの優しい顔に堪えていた涙が溢れそうになる。

「お昼食べてないでしょ? おにぎり食べる?」

優磨くんはテーブルの上にコンビニの袋を置く。中にはおにぎりが2個とペットボトルのお茶が入っている。

「ありがとう……でもいいの? 入ってきちゃって」

「安西さんを出すなとは言われたけど、入るなとは言われてないから」

何も問題ないという顔で笑う優磨くんに笑い返す。笑い返せるほどには心に余裕が出た。

「ありがとう……」

お礼を言うと隣からまた泣き声が聞こえた。

「まったく……あいつを殴っとけばよかった」

私の代わりに下田くんに怒ってくれる優磨くんの存在に助けられる。

「俺も社長に言うから。安西さんは下田が結婚したのは知らなかったって」

「うん……」

その時再びドアがノックされ上司が隣に来いと私を促した。

「行ってくる……」

「うん。頑張れ」

優磨くんに見送られ隣の大会議室に入ると、下田くんと奥さんの姿はなかった。
社長と向かい合うと私は必死に訴えた。ずっと前から下田くんと付き合っていたし、結婚していると知らなかったと。

「安西さんには取り敢えず3日間休んでもらいます。出勤停止処分です」

「そんな!」

「商業ビルから苦情がきています。何も処分なしというのはできません。不倫などの不貞行為は就業規則に違反します」

「でも私は不倫なんてしてるつもりは……」

「下田くんも安西さんに隠していたと認めています。ですが、これを見てください」

そう言うと社長はテーブルに置いたノートパソコンの画面を私に向けた。そこにはSNSの画面が写され、商業ビルでの騒ぎの動画が投稿されている。

「これは……」

「あの時いた人が撮ったんでしょう。この動画が拡散されています。商業ビルの名前のハッシュタグ付きで」

体が震える。動画を食い入るように見つめた。私の顔は写っていないアングルとはいえ店の看板は見えているし、音声はノイズが入ることなくはっきり怒鳴り声が聞こえる。女性のカバンについたマタニティマークのキーホルダーまではっきり見えた。

「商業ビルと会社のイメージが悪い方に拡散しました。男女の修羅場は大変なイメージダウンです。取り敢えず3日間の出勤停止ですが、その間に安西さんと下田くんの処分を決めます」

「はい……」

ここまで問題が大きくなるなんて思わなかった。これでは反論なんてしても意味がない。大人しく処分を待つしかないだろう。

会議室から出ると私はカバンを持って会社を出た。他の社員が視線を向けてきたけれど、もうどうでもよかった。

「安西さん!」

振り返ると優磨くんが追いかけてきた。

「待って……」

私の前で止まった優磨くんは呼吸を整えた。

「優磨くん……ありがとう」

「何が?」

「心配してくれて」

私に寄り添ってくれたのは優磨くんだけだ。会社を出る前の他の社員の視線は軽蔑を含んでいる気がしたから。

「俺だって下田に怒ってるから。こんな状態の安西さんを残して会社から離れるのは不安になる……」

「そっか……もうすぐ会社辞めるんだっけ」

優磨くんは少し前から退職の意志を示していた。

「うん……親の会社に移ることにした」

「後継者だもんね」

お父様は城藤不動産の社長だ。優磨くんがどうしてうちのような会社に来たのかは分からないけれど、いずれは大企業を継ぐことになるのだろうとは思っていた。

「後継者候補、だよ。俺が継ぐとは限らないけど」

それでも会社を去るのだ。私のそばにもう優しい同期はいてくれない。

「安西さんは悪い処分にはならないから大丈夫だよ」

「うん……」

そうだよね。何も悪くない私が処分されること自体おかしいよね。

「ありがとう……お疲れ様……」

精一杯微笑む。それを見た優磨くんは辛そうな顔をするから、これ以上何かを言われる前に優磨くんに背を向けて駅まで歩いた。





家に帰っても床に座ったまま何時間も動けない。昼間に投稿されたSNSの動画は夜になって更に拡散された。動画についたコメントは怖くて読めないでいる。

部屋にスマートフォンの着信音が響く。画面には『下田浩二』と表示されている。応答することなく無視しても何回か下田くんから着信があった。画面を見るたびに気持ちが落ち込む。
下田くんは今更私に何の話があるのだろう。謝罪? 恨み言?

コーヒーのかかったスカートを洗おうと洗濯機の前に行って脱いだ。漂白剤を手に持ったまま汚れたスカートを見つめ、再び怒りと悲しみが湧き上がってスカートをゴミ箱に乱暴に投げ捨てた。

なんであんな男好きだったんだろう……。



◇◇◇◇◇



3日後に出勤して私に下された処分は減給6ヵ月だった。思った以上の重い処罰にも反論するほどの気力がなくなった。

妊娠中の奥さんが今までのLINEのやり取りを見つけ、私たちが不倫関係だと確信して後をつけたからこの騒ぎになった。下田くんは減給10ヵ月と異動が命じられた。
商業ビルの管理会社とは今後新規オープンの契約はさせてもらえなくなり、優磨くんの営業努力を無駄にしてしまった。

同僚の冷たい視線に耐えられなくなった私は有給をフルに使い、しばらく会社を休んだ。
ほとんど何もできない無意味な休みを終えて出勤するようになってからは会社での毎日の記憶がない。復帰後の私は気配を消すように仕事をしていた。

優磨くんも退職に向けて有給を取っていた。忙しそうな彼とまともに会話をしたのは送別会の時だけだった。最後まで私を心配する彼がいなくなると会社にいることが苦痛になっていた。

減給処分は半年とはいえ今まで金銭的に余裕があったわけではないから生活が厳しくなり、切りつめても家賃が払えそうになかった。タイミングが悪くマンションの更新月と重なってしまい、おまけに奨学金の返済もしている最中で、それすらも滞りそうだ。
その費用を親から借りることができなかった。今までこんなことはなかったのでお金を借りる理由を説明できない。
仕方なく家にある不要なものを売り払うと、格安のアパートに引っ越せざる負えなくなった。


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