水晶を覗くばあさん

文戸玲

戻りたい男⑥ お帰り


「お帰り」


 遠くの方で声が聞こえる。思い頭を上げて目を開けると,水晶玉がまず目に入った。


「どうだい? 気分は」
「そうですね。最悪です。安いワインを飲んだあとみたいに」
「慣れの問題だよ。スーパーの一番安いボトルワインで満足出来るようになったらいいさ。私はそれで充分」
「一度美味しいボトルを開けてもらうといいですよ。味わいも舌触りも,スーパーのそれとは比べ物にならない。本物を知っておくのも良いと思いますよ」
「その酒は,浮気相手に妊娠を告げられても至高の味わいがするのかい?」


 怪訝な顔をするおれを見て,ばあさんは含み笑いを見せた。


「おばあさん,どこまでご存じなんですか?」


 まさか,おれの私生活を覗かれているなんてことはありえないと思いつつも,このおばあさんの不思議な力をみると,どこまでのことが出来るのか未知数だった。


「私はここで,水晶の目の前に座って適当に小話をするだけさ」
「でも,時を超えて人を移動させる」
「過去に戻るのは,その人が勝手にやっていることだよ。私の力ではないね」
「この水晶玉は?」
「だから,水晶はただの飾りだ。水晶にシャンデリアに年老いたばあさん。どうだい? いかにもって取り合わせじゃないか」
「でも,それだけじゃない。あなたは魔女みたいな人だ」
「じゃあきっと,若い頃は美人だったんだろうねえ」


 目の前にいるこの不思議なおばあさんを,じっと見つめる。「今も美人だって返すんだよ」と黙っているおれにばあさんは言う。
 あの不思議な時間を振り返る。時計に目をやると,過去に戻っていたのは三十分ほどになるだろうか。ひどく濃く,長い時間を一瞬のうちに過ごした気がする。
 過去に戻って,美帆と出会い,夏海とはあの人は違う時間を過ごした。
 考えれば考えるほど,やはり同じ疑問に行きつく。 


「何度も聞くようで申し訳ないのですが・・・・・・」
「何度聞いても同じさ。過去は変えられない。お前は戻って何か変わったことをしたつもりになっているかもしれないが,全部なかったことになっている。過去に行こうが行くまいが,何も変わっていないと言うことさ」


 尋ねる前に,ぴしゃりといさめられた。


「どうして変わらないのですか?」


 真剣に尋ねたつもりだったが,おばあさんは目を丸くしたのち,軽蔑したような目でおれを見て,呆れを隠さずに言い放った。


「お前さん,バカじゃないんだから。過去に戻ってやり直せたら,悪いやつがどんなことをしでかすか分かりやしない。仏さんはそういうことを許さないんだよ」


 それにな,とおばあさんは眉間にしわを寄せたまま続ける。


「過去に戻って何でもやり直せたら,今を大切に生きることが出来ないだろう。生き物っていうのは,今を生きる生き物なんだ。決して過去に戻ってやり直すことも出来ないし,未来に飛んでこの先何が起きるのかを見てくることも出来ない。だから,失敗するのは怖いし,将来が不安になるんだ。でも,生きるっていうのは,そういうことなんだよ」


おばあさんは手元の湯飲みを引き寄せて,音を立ててすすった。


「それで,どうだった? 過去に戻って後悔したかい? お前が今してきたことは,何もしていないことと同じなんだが」


 きっぱりと首を横に振った。おばあさんの言っていることは違う。合ってはいるのだけど,確かに違う。おれの中では,それがはっきりとしていた。


「確かに過去は変えられないのかもしれない。でも,おれは過去に戻ってよかった。今から,おれはどういう風に生きていかなければいけないのか。それが何となくわかった気がする」


 椅子から立ち上がり,おばあさんに頭を下げる。


「ありがとう。ここに来て本当に良かった。行かなければいけないところがあるから,これから行ってくる」


 「お代は?」と尋ねると,おばあさんは顔をしわくちゃにして笑った。そこには嫌味も含まれない,穏やかな表情だった。


「そんなものはいらないよ。あんた,最初にここに来たときは死んだ魚みたいだったのに,まるで別人だね。そんな顔が見れただけで充分さ。・・・・・・お行き。ただし,過去には戻れないからね。後悔しないように生きな」


 そう言うと,虫でも払うように手を振った。おれはその姿に,もう一度深く頭を下げた。


 建物の出口へと向かうと,階段を上る青年とすれ違った。その重くるしい雰囲気からは,過去に戻ってやり直したいことがあることが伺える。藁にもすがる思いでここにやってきたのだろう。おれと同じように。

大丈夫,何とかなるよ。過去は変えられない。でも,きっと君は変われるから

 事情も知らなくせに,偉そうなことばが頭に浮かぶ。きっと,ちょっと前の自分に語り掛けたかった言葉なのだろう。

 振り返ると,さきほどの青年は扉の前で立ち止まって何かを思案している。背中を押してやろうと立ち止まり,今降りてきた階段を上ろうとしたが,やめた。

 その扉は自分で開けないといけない。その選択を自分でしないと,これからどんなことがあっても乗り越えられない。おれはこれから,自分の意思でここを出て,自分のしてきたことと誠実に向き合う。それがおれの選択だ。

 建物を後にすると,目を開けていられないほどの日差しが差している。まずはどこから行こうか。太陽に伸びるように大きく伸びをして,おれは一歩を踏み出した。


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