水晶を覗くばあさん

文戸玲

戻りたい男18 現在


「いつまで寝てんだい」

 しゃがれた声が聞こえるのと同時に肩に鈍い痛みを感じた。顔を上げると,拳をにぎったばあさんがテーブルに片手をついてこちらににじり寄っていた。

「どうだい? 気分は」
「悪くはないです」
「過去が変わらなかったのにかい?」

 ばあさんは目尻にシワを寄せて意地悪く笑った。そして椅子に腰をかけ,頬杖をついてこっちを見る。その年の人には似つかわしくないポーズだったが,目の前の若者が何というのかが興味深くてたまらないのだろう。
 
「確かに過去は変わらなかった。でも,何かが変わったのがわかる」
「何かって? 過去に行って何も変えられなかったのなら,どこにも行ってないのと同じじゃないか」

 いや,と首を振った。言葉にするのが難しかった。でも,言葉にできないこの何かがとても大切なことだということは分かっていた。

「それはきっと,これから分かる。おれはこれからを生きるよ」

 ばあさんは満足そうに頷いた。そして,払うようにして手を振って言った。

「そうかい。それはよかった。気をつけて帰りな」
「あの・・・・・・お代は?」

 この不思議な能力を持ったばあさんには感謝しきれない。お金はいくら払ってもいいと思っていながらも,このばあさんの不思議なオーラに圧倒され,恐れてもいた。法外な値段を要求されるのではないだろうか。
 ばあさんは,そうだねえ,と喉を震わせて低く笑った。

「これからどんな風に生きていくのかを楽しみにしているよ。この部屋に入った時には,くだらない世の中にせいせいしたって顔をしていたからねえ。また土産になる話でも出来たら遊びにおいで。別にまた死を待つだけの魚のような目をして来てくれてもいいんだけどね」

 そう言うと,くっくっとまた低い声で笑った。最後まで掴み所のないばあさんだった。
 営業の仕事でもしないほど,心を込めて深くお辞儀をした。ばあさんはそんなおれを見て,何も言わず頷いてくれた。
 礼を言って振り返り,出口に向かった。
 扉に手をかけようとすると,開いた手から何かがこぼれ落ちた。落ちたのは,最後に手渡された水晶のストラップだった。手の中で転がし,宙に掲げた。黄金色のライトを吸収した水晶は気泡の粒子を映し出す。こんなに綺麗な景色を今まで見たことがあっただろうか。
 泡が弾けて世界が変わる。そんな未来を遠くに浮かべ,扉の外へ足を踏み出した。
 
 

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