水晶を覗くばあさん

文戸玲

戻りたい男 14 前へ

 画面の電源を落とし,そっと目を閉じる。
 母が死んで数年経つ。この時代を生きた人としてはかなり早く障害を終えた。定年したらゆっくり過ごしたい,と口癖のように言っていた母は結局入院中ぐらいしかゆっくり過ごせることはできなかったが,その人生は幸せだったのだろうか。
 聞く術はもちろんない。でも,我が子とひどい言い争いをして,そのまま死を覚悟するというのはとても悲しいことのように思えた。夢と現実が分からない状態とはいえ,最後に息子と言葉を交わせたことは悪いことではなかったはずだ。何より,一番胸をなで下ろしているのは外でもないおれだった。
 今のおれは? 家具で傷がついたフローリングを見下ろしながら自分に問いかけた。
 おれにとって,大切なものはなんだ。おれには大切な何かが,伝えなければならない何かがあるんじゃないのか?


今すぐ会いに行って。
大切なことはきちんと伝えないと,絶対に後悔しちゃうよ。


 握りしめたスマホを布団の上に投げ,パジャマを脱ぎ散らかした。クローゼットから適当に服を取って着替え,手短に歯磨きと整髪を済ませて玄関へと向かった。
 おれがこの日に戻ってきたのは,伝えきれていないことがあったからじゃないか。大切なことを,今から伝えに行こう。
 ドアノブを掴んで力強く扉を押し込んだ。厚い雲がひろがっている空からは,ポツポツと雨が降り始めていた。

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