水晶を覗くばあさん

文戸玲

戻りたい男11 酔いたい夜

 夏海は卓也さんと月に一度ほどのペースで会っていたということだった。初めは卓也さんから連絡があり,就職活動の相談に乗ってくれるということでお茶をする程度だったものが,いつしか卓也さんの連休に合わせて出かけるようになり,ある日突然,告白されたのだという。
 しかし,夏海はその時は断ったのだという。理由は二つあった。就職活動で忙しくなるし,後悔したくはないからそっちに集中したいというのが一つ。もう一つは,実は気になっている人がいるからということだった。おれはそれを聞いた時,その人とは自分のことではないかと淡い期待を抱いた。もちろん,その相手が誰かなんて尋ねることはしなかったので真相はわからないのだが。
 夏海さんに振られた卓也さんは,諦めなかった。ランチに出かけたり,ドライブをしながら就職活動についてアドバイスをしたり会社の情報を教えてもらったりしていたらしい。振られてもなお親身に,誠意を持って接してくれる卓也さんと以前よりも親密になっていったということだ。

 おれはひどくショックを受けた。夏海が誰かの女になること。それも,これ以上望みようもないほどいい男を振って,それでも諦めない情熱に負けて結ばれたこと。気になる人というのが自分である可能性も期待して,その期待がさらにおれの心をきつく締め付けた。

 話を聞いたおれは,素直に祝福するべきだった。誰よりも素敵な女性が今まで出会ったどんないい男にも劣らない人と幸せになろうとしているのだ。
 でも,おれは最低な男だった。

「そんな大切な人がいるのに,他の男と部屋でテレビを見たり飯を食ったりしていたのかよ。最低だな。でも,二人なら上手くやれるよ。宮城でも頑張って」

 そんなことが言いたいんじゃなかった。ただただ悔しかった。幸せだと思っていた時間は嘘だった。自分が見ていた美しい世界の中に夏海はいなかった。おれも夏海も確かに美しいものを見ていたのだ。ただ,おれが見ていたこの世のものとは思えないほどキラキラしている世界は,夏海が見ているものとは全く違っていたのだ。万華鏡のようなその世界をおれは恨んだ。
 嫉妬が限界に達すると,人は制御が効かなくなるのだと初めて知った。大好きな人を自分が知っている最も汚い言葉で罵りたかった。最後の本音は,のどが空気の通り道がなくなったのではと感じるほど息苦しくなったせいで,上手く言えなかった。

 ごめん,と夏海は言って詫びた。消えてしまいそうな声だった。

 じゃあな,とおれはスマホを耳から話した。震える指で通話を終わらせるボタンをタップした。

 夏海が電話を切るのを待つことなんてできなかった。電話ですら夏海とつながっているのが辛かった。自分の気持ちを表現する言葉を持たなかったおれは,現実から逃げるように二人の間にあった何かを断ち切るつもりでスマホのボタンを押したのだ。
 布団にスマホを投げつけ,タンブラーに手を伸ばした。ほとんど垂直にして口の中を潤す。麦茶はとっくに無くなっていたが,溶けた氷を口にいれて乾いた舌を潤した。冷蔵庫を開けると,缶ビールとカクテル缶が二本ずつあった。夏海と一緒に飲むために買ったものだった。

「こんなんで酔えるかよ」

 荒々しく冷蔵庫の扉を閉め,財布を手にして鍵もかけずにコンビニへと向かった。

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