水晶を覗くばあさん

文戸玲

戻りたい男⑨ 電話

 夏海から着信があったのは,夜の八時。今からご飯に行かない? とか誘われることを想像して有頂天になったおれは,なんて返事をしようかと思考が頭の中を駆け巡っていた。考えは固まらないが,すぐに電話に出るのも余裕がない感じがしてダサいなとディスプレイを見つめたまま数コールだけ待つつもりだったのだが,思ったよりも切られるのが早くて出ることができなかった。
 そうなってくると,今度は電話を折り返すタイミングを悩み始めた。暇さえあればスマートフォンをつついていると思われるのも,女の子から連絡が来て舞い上がっている男と思われるのも嫌だった。そのくせ,早く電話をかけないと他の男に誘いの連絡が行くのではと気が気でなくなり,スマートフォンにぶら下がったストラップをいじった。結局三分も経たないうちに着信履歴にある夏海の名前をタップした。おれの忍耐力はカップラーメン以下かと嘆息したくもなったが,そんな気持ちは夏海が電話を受けたのがわかった途端に吹き飛んだ。

「・・・・・・もしもし?」

 少し落ち込んだ表情が浮かぶような沈んだ声で夏海は電話に出た。気分が上がったり下がったりで忙しいのに加え,ここにきて不吉な予感がした。とても今から食事に誘う女の子の声の調子とは思えない。
 机の上に置かれたタンブラーに手を伸ばして,麦茶を一口含んだ。溢れるほどに入れた氷に冷やされた液体が喉を通る。タンブラーは夏海と二人で出かけた時にお揃いで買ったお気に入りのものだ。

「もしもし,圭太だけど。電話があったからさ。どうしたの?」
「ごめんね,忙しかったのに。言いたいことがあったんだけど,よく考えたら伝えるまでのことでもないかなって。ほら,もうすぐ圭太くんの好きなテレビ番組が始まっちゃうよ。見逃したら後悔しちゃうよ」

 夏海とおれはお互いの好きなテレビ番組を知っている程度に仲がいい,なんてもんじゃない。9時から始まる流行りのお笑い芸人が出演するバラエティ番組を,二人っきりで見るほどのおれたちには距離感がなかった。もちろん,男女の関係になったことはない。それは,おれに勇気がないのが半分。もう半分は,夏海のことが本気で好きだったからだ。根が真面目なおれは,四年間ずっと思いを馳せてきた相手との順番を大事にするほど律儀な男だった。

「そんなことどうだっていいよ。言いたいことって何だ?」
「もういいじゃない。また気が向いた時にね」
「なんだよそれ。するいやつだなあ」

 できるだけ冗談っぽく言った。夏海が言おうとしたことはまるで検討もつかなかった。だから,余計に怖かった。夜の海のように,深くて静かな沈黙が部屋を支配する。こんな時は何をやったってだいたいうまくいかない。そんなことを何となく感じていながら,おれはこの沈黙を恐れて口火を切った。臆病と勇気は紙一重だ。

「それならいいよ。おれはずっと前から言いたいことがあったんだ。夏海,今から会えるか?」

 意外と淀みなく話せた。話した途端,口の中が乾いてきた。タンブラーに入った麦茶を流し込むように飲む。
 聞こえているのか確認したくなるほんの少し手前で夏海は小さく息継ぎをした。そして,「無理だよ」とつぶやいた。その声には涙が混じっているような気もした。ほんとに気のせいかもしれないけど,その時は自分の気が正しいように思えた。

「明日は早いから,もう寝ようと思ってるの」
「時間はとらせない。ずっと温めてたんだ。・・・・・・いや,おれは怖くて逃げていたのかもしれない。でも,今なら伝えられる。もし良かったら,今からこの電話でも伝えさせてほしい」

 一息に言った。焦るな,焦るなと自分に言い聞かせても早口は止められなかった。
 夏海は何も言い返さなかった。古いエアコンの吹き出し口から空気が吐き出される音がする。クジラが息継ぎをするみたいだな,といつも思う。

「夏海,おれ,ずっとお前のことが・・・・・・」
「私ね,宮城県で就職することにしたの」

 おれの声に被せて夏海は言った。
 は,と間の抜けた声が出た。
 夏海は東京の大手商社に就職が決まっていた。それを嬉しそうに報告してきた時,おれも東京の会社でなにがなんでも内定をもらうのだと奮起したのだ。会社について調べ,気持ちを込めてエントリーシートを書き,どれだけお祈りメールが届いても面接のたびに青臭い熱い思いを語ったのは,東京で働いていたらまた夏海と過ごせる時間が取れると思ったからだ。
 それなのに夏海はせっかくもらった誰もが羨む企業の内定を辞退して,宮城県の聞いたこともない会社で事務職で勤めるという。理由を尋ねずにはいられなかった。夏海は一層声色を低くして言った。

私,卓也さんと同棲するの


コメント

コメントを書く

「文学」の人気作品

書籍化作品