水晶を覗くばあさん

文戸玲

戻りたい男⑧ 夢の中

「夏海!!」

 誰もいない部屋の中で虚しく声が響いた。辺りを見渡しても,やっぱり誰もいない。ただエアコンが空気を循環させている音が無機質に鳴り響いているだけだ。

「夢か? これは夢の中か?」

 ほっぺたをつねってみても,変化はない。顔がむくんで少しだけ皮膚の戻りが遅い気がする。テーブルの上にはロング缶のビールが3本と,ウイスキーの瓶が半分ほどからになった状態で放置されていた。
 そうだ。おれはこの日の前日,夏海から電話があった。そしてその後,コンビニに行ってお酒を買って,潰れるまで酒を飲んだ。たった一人で,誰にも打ち明けることなく。

 おれは同級生の夏海に恋をしていた。出会いはなんとなく入ったフットサルのサークルで,そのサークルのマネージャーとして夏海は所属していた。新入生歓迎会で花見が開催された時,おれは夏海と同じレジャーシートでお菓子とビール風のテイスト飲料で先輩たちに囲まれながら時間を過ごしていた。その時,すでにおれは夏海に惚れていた。
 在学中の四年間。おれはずっと夏海に恋をしていた。いろんなところにも行った。仲良しの友達とみんなでボードに行ったこともあれば,海に行ってそのままコテージに泊まったこともあった。みんなには内緒で映画を観にったり,1時間ほどかけていけるテーマパークで遊んだこともあった。ろくに恋愛をしてこなかったおれにとって,それは天国にいるような時間だった。

 卒業を意識し始めた大学最後の夏休み,夏海から連絡があった。

コメント

コメントを書く

「文学」の人気作品

書籍化作品