水晶を覗くばあさん

文戸玲

戻りたい男③ 水晶を覗くばあさん

「何しに来たんだい?」

 ドアノブを捻り,重たい扉に体重をかけて奥へと押し込んだ。十畳ほどの部屋の中心にテーブルが一つと,おそらく客のための椅子が置かれていた。
 しゃがれた声の主のばあさんは見るからに怪しかった。頭のてっぺんで結われた白髪はこぶし二つ分ほどの大きさがある。綺麗な形をしているが,髪の毛を下ろすときっと地面に届くほどの長さに違いない。テーブルに掛けられたアジアンテイストのクロスとオレンジ色に部屋を照らすイカ釣りに使われる針のような形をした照明がこの空間の不気味さを演出している。何よりも目をひくのが,テーブルの真ん中に置かれた人の頭ほどの大きさをした水晶だ。
 そんな部屋にいる怪しいばあさんに「何しに来たんだい?」と問われても返事に困る。ただ興味本位で来ただけだ。数分前に踵を返そうとした過去に戻って自分の背中を押してやりたい。何なら,今からでも引き返してダッシュで逃げた方がいいのでは? 部屋の奥にはサングラスをかけた屈強な男が控えていて,書類にハンコを押すまで家には帰してもらえない可能性だってある。

「ばあさん,個室,水晶。絵にかいたような怪しい場所だろ? あとは何が必要かね。骸骨の模型,悲壮感が漂う絵画,トラの毛皮であしらったラグとかかい?」

 なんなんだこのばあさんは。自分で自分のことを怪しいやつだと認めているような言い方だ。片方の口角だけを引っ張られているように笑うその表情は,まさに悪徳な占い師そのものじゃないか。

「ごめんなさい,間違っちゃったみたいで。失礼しました」

 右手をチョップするように前後に軽くゆすり,出来るだけ軽いトーンで謝罪の意を示す。目の前の悪徳占い師に負けず劣らない不自然な笑顔を浮かべ,回れ右をしてドアノブに手を伸ばした。

「戻りたい過去があるんだろ? まあ,どうせ大した過去じゃないんだ。あんたの人生にだって興味もない。そのまま帰ってまずい飯を食って,やりがいも感じない仕事に精を出して人生を浪費すればいい。さあ,明日は月曜日だ。帰った帰った」

 むっとして肩越しにばあさんを睨みつけると,全てを見透かしたような顔で手を振っている。波に揺れるイソギンチャクのように指を揺らして別れを告げる老婆をなじりたくなった。

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