とろけるような、キスをして。
激務の始まりと、束の間の安らぎ
たっぷり寝たからか、いつもよりも時間をかけて朝ごはんを作ったりシャワーに入ったりと時間に余裕があった。まだ筋肉痛は治っておらず、痛む身体を労りながら修斗さんのためにお弁当を作り、自分の出勤の準備もする。
インターホンが鳴って、修斗さんにお弁当を渡すと少しして私も家を出た。
出勤して、事務室に入ると千代田さんはすでにパソコンを立ち上げていた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
挨拶を交わしてから、鞄の中から紙袋を出す。
それを千代田さんに差し出した。
「千代田さん、これどうぞ」
「えー、いいんですか?ありがとうございます。……あ、もしかして深山先生と?」
「はい。実は温泉に行きまして……」
中身は旅館に売っていた温泉まんじゅうとチョコレートが挟まったクッキー。定番を選んだのは、ハズレが無いからだ。
お子さんも甘いものが好きだというのは調査済み。一緒に食べてもらえるように日持ちするものにしたのはどうやら正解だったよう。
千代田さんは嬉しそうに紙袋の中を覗いていた。
「ふふっ、いいですねぇ。この時期の雪見風呂は最高ですからね」
「そうなんです。すっごく気持ち良くて。あ!千代田さんにオススメしてもらったアフタヌーンティー!美味しかったです!」
「お口に合ったようで良かったです」
無事に受け取ってもらい、私も千代田さんに倣ってパソコンを立ち上げる。
「今日から願書の整理と打ち込みも始まるので、頑張りましょうね!」
それに頷くが早いか、すぐに郵便で大量の封筒が届く。
その全てに"願書在中"の文字。
どうやら、受験シーズンが本格的に始まったようだ。
元々そこまで募集生徒数が多いわけではないのと、やはり金銭的な面で公立高校を選ぶ家庭が多いため、ほとんどの学生は隣の地域と距離はあるものの、学費が安めの私立高校を滑り止めとして受験する。そのためこの学校の受験人数は毎年他の地域の私立高校に比べると少ないらしい。
でも、二人で捌くには中々の量だ。
二週間後には願書の受付を締め切って、来月中旬に前期の試験が始まる。そしてそのまた一週間後には後期の試験が始まる。当然その間に後期の願書の受付もある。
土日のうちに修斗さんと旅行に行っておいて良かった。しばらく忙しくてまともに会うこともできなさそうだ。
届いた封筒を開け、決められた振り分けをしてひたすらデータを打ち込んでいく。
受験票を人数分作り、一緒に返送する書類も準備する。
朝の便だけではなく、当たり前だが夕方の便でも同じ量が届くだろう。午前だけでも目紛しく時間が過ぎていくのに、これが一日二回。あと二週間は続くのかと思うと気が遠くなりそうだ。
千代田さんもお子さんを実家に預けてきたそうで、この二週間は残業する気満々だと言っていた。
黙々と作業をすること数時間。
何回目かのチャイムの音が響き、私と千代田さんは揃って顔を上げた。
「午後の授業、始まりましたね」
「ですね。私たちも軽く食べましょうか」
「はい」
食べている時間も惜しいけれど、空腹では集中力が持たない。
受験に関することはこちらもミスが許されないため、二重確認、三重確認が必須だ。
後で千代田さんや田宮教頭にもチェックしてもらうため、段ボールに入った返送用の封筒が山のように増えていく。
ここで食べて万が一書類に何かがあっては大変。そのため事務室に鍵をかけて、食堂へ向かう。
冬休み中は好きな時間に食べられたものの、学校が始まった今は生徒たちで混み合う食堂を避けるため、事務室で食べるかこうして時間をずらして食堂に行くかの二択だった。
今日は後者だ。二人で身体を伸ばしながら、気分転換を兼ねて歩いて向かう。
その道中、階段を降りている時に、近くの教室から声が聞こえて無意識に視線をやる。
三年生のクラスでは、数学の授業が行われていた。
「……あ、深山先生の授業みたいですね」
「……ですね」
「私、先行ってますね?」
「え?」
小さく笑ってから、千代田さんは先に階段を降りていく。
それに唖然としながら、私はもう一度教室の方に意識を向けた。
「ここ、過去問によく出てくるから今年の入試にも出るかもしれないからなー。しっかり公式と解き方頭に入れとけよー」
修斗さんの気の抜けるような声に、生徒たちがペンを走らせる音が微かに聞こえる。
どうやら問題の解説をしていたようだ。
こちらからは修斗さんの姿はちらりと見えるけれど、生徒たちの姿は死角になっていて見えていない。つまり向こうからも同じだろう。しかし修斗さんは当たり前だが集中しているため、私がいることには気が付かないまま淡々と授業が進められていく。
右手にチョークを持って、左手に教科書を持って。
前髪が目に掛かるたびに右手の小指で荒っぽく分ける姿、そして伏せた目がとてもセクシーで、なんだか見ているだけで胸が高鳴る。
……かっこいいなあ。
そういえば、修斗さんが教師として働いている姿、こっちに戻ってきてから初めて見たかもしれない。
実際に生徒の前にいる姿は七年前よりも輝いて見えて、その真面目な表情にドキドキが止まらない。
「じゃあ、次の問題解いてみて。」
黒板に次の問題を書いた修斗さんは、粉が付いた手を払いながら教室を見渡す。
そしてふと、視線を感じたのかこちらを向き、その目が大きく見開かれた。
……あ、バレた。
思わずひらひらと小さく手を振ってみると、修斗さんは振り返そうとしたものの、授業中なのを思い出して直前で手を止めた。
その代わり、にっこりと笑いかけてくれた。
私もそれに笑みを返し、もう一度手を振ってその場を離れる。
「深山センセー、なにニヤニヤしてんのー?」
「んー?何でもない。それよりこの問題解けたのかー?当てるぞ?」
「待って!それは困る。俺解けてない!」
「推薦組でもバンバン当てるからなー。サボるなよ?」
「ちぇーっ」
教室からそんな声が聞こえて、笑いが起きる。
それを聞きながら階段を降りて、食堂に向かった。
千代田さんと合流してお昼を食べてから事務室に戻り、午後も忙しく働いた。
夕方に届いた分は朝よりも多くて、それを捌いていたら気が付けばもう外は暗くなっていて。
千代田さんと漏れが無いかチェックして、田宮教頭に報告も兼ねて三重チェックをしてもらい、ようやく退勤することができた。
「……つ、疲れましたね……」
「ですね……。でもまだこれ、初日ですからね」
「頑張りましょう……」
千代田さんと頷き合って、帰路に着いた。
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