オーストラリア!自由気ままにぐるっとバイク旅

ノベルバユーザー526355

第59話:心を映す海

12月7日 くもり 723キロ
→caiguna→madura→eucla→nullabor(c.p.)
いよいよ第5州目の南オーストラリアに突入となる。ナラボーの幹線道路を逸れて南に折れる小道を発見した。その道はきっと行き止まりだし、そこが海であるは直感でわかっていた。風に乗って運ばれてくる潮の雰囲気(香りとは違う)が、僕を横道に逸れさせた。小高い丘を行きつくと、断崖絶壁。目下の海ではなく、砂浜にあったが、絶壁のために降りられない。泡立つ幾筋もの白い波が押し寄せるパノラマの海は眺望すると、その海面をさらう風の激しさがうかがえた。容赦しない浜風が僕の身に突き刺さると、通りすぎるのではなく、通り貫けていく感じがした。あの水平線の向こうには、氷の世界、南極大陸があるのか。同じ繋がって海でありながら、西オーストラシアで初めて見たインド洋とは、少し違って見えた。冷たい南極海から潮流が入り混じっているせいか、それとも海は一様で、僕自体が以前の自分とは違っているからなのか。ただ海が違って見えるのは、僕がそれぞれの海に抱く既成概念の違いだけのことではないは確かなようだ。子供じみているとは分かっていたが、遠く地平線の向こうを見渡すように、額の上に手をやり少し背伸びしてみる。『南極、見えねえかなあ』。
なかなか、その場を離れられなかった。海に対する思い。海はよく見えているのに、その中までは見ることができないもどかしさ。しばし、同じようなことを考え続ける。行く先々でいくつのも海を見てきたが、同じひとつにつながった海でも、ひとつとして同じ海はなかった。何が違うのか。確かに海岸線の作りが違う。天候が違う。波も状態が違う。気温が違う。でもそういった環境や見た目といったこと以上に、なにかが微妙に違った海を演出する。それは自分自身が原因なんか。喜怒哀楽といった感情また空腹かどうかでさえも、目に写る海が違って見せた。そしてなによりも今の自分が1ヶ月前の自分、1週間の自分・1日前の自分・1時間前の自分とは確実に違うということがそうさせている。海は自分を移す鏡ようだった。ひと時として、同じ海でなかったし、その中は計り知れない。でも海は海でしかありえない。僕は何を考えているんだ。1時間前と堂々巡り。何も変りなどした僕。…???
その夜、当然、荒野に設けられたテントサイトで、テントを張る。その夜は雨風の心配はなさそうだった。それでも、暗い雲が夜の光りを遮っているのを見ていると、あの悪夢の嵐の夜の恐怖が蘇ってくる。今夜は星も見えず、月もない。困ったことにアルコールの持ち合わせがなかったので、身体の外からも内からも寒さがこみ上げてきた。
現実か幻か。向こうの方で、1組の家族連れがテントを張っていた。楽しそうな彼ら親子の会話はここまで届かず、まるでテレビのブラウンの中の出来事のような別世界な感じがした。このだだっ広い砂漠でいるのは、自分とその家族だけ。でも彼らには、僕の存在が見てていないような気がして、話しかけることができなかった。このときほど、マッチ売りの少女の気持ちが分かったことがない。遠巻きにその家族の様子を眺める。聞こえない彼らの会話とその笑顔は、否応無しに僕の身も心もを荒れ果てた荒野にさらに突き放した。砂漠で独りでいるときよりも、人恋しさが募ってくる。ひょうひょうと吹き荒ぶ風の音だけが、耳元で轟音となって鳴り響き出した。自分を知る人間のことが、次々と胸中に去来する。肌を刺す冷たい風は、寂しさをそして人恋しさをあおり立てた。耳元の轟音は鳴り止まない。嗚呼、誰もいない淋しい思い。熱いはずのコーヒーまでが冷たく感じた。
昼間見た南極に臨む大海を思い返してみた。見渡せど、我独り。そういえば、あの海も淋しかった。浜も淋しかった。立ち込める雲も淋しかった。シャツをバタつかせる潮風も淋しかった。拝む海は、常に微妙に違って見える。それは波と僕の心の揺れシンクロしたせいか。うねる悲哀感たっぴりの波に、僕の心が揉まれる度に鍛えられ、成長を遂げる気がした。その成長とは、自分が何を考え、思っているかが明確に解することができるようになること。偽わらない自分自身の存在感が手に取るように見えてくること。そう考え及ぶと、この切ない寂しさも、どこか心地よくも覚え出す。現金な奴だ。沈む夕陽に沈む心。明日も何もない一日だろう。それでも明日があると思うだけで、楽しみだった。

コメント

コメントを書く

「エッセイ」の人気作品

書籍化作品