オーストラリア!自由気ままにぐるっとバイク旅

ノベルバユーザー526355

第40話:海岸で開眼

11月25日 晴 630キロ
→port headland(CP)
アウトバックを走っていたときは、透明度の高い水中を潜っているような感じがしていた。未知の世界での開放感、しかし、妙な息苦しさも付きまとっていたことも確かだ。それが何なのか、この西海岸に来てわかった。水だ。内陸の過酷な砂漠を越え、海岸線に出る。依然、砂漠ではあったが、背の低い生気を持った草木も目に付くようになってきていた。おもしろくも、水が間近にあることで、今までにない安堵を覚えている。これが、人の持つ潜在的な本能なのか。
そしていま一方で、オーストラリアの最果ての地に立っているのにもかかわらず、胸中不安どころか、むしろ心にゆとりを感じているくらいだ。行く宛てのない旅、その日の寝床さえ決まっていない旅なのに、真の平穏を見いだしかけている。今思えば、友人もいてよく知れたシドニーに最も近かった旅を始めた頃が一番不安だったようだ。それこそ右も左もわからない。バイクを止めては、予定もないのに時間を異状に気にし、幾度となく地図を開いては現在地を確認したものだった。それがどうだろうか、今となっては、自分と太陽との位置関係こそが進むべき方向の目安となり、太陽の高さが時間の目安となっていた。そう言えば時計をほんとに見ていないなあ。腕時計も必要を感じないからバックの奥底にしまってある。東から太陽が登る頃にシュラフから這い出し、夕方西に太陽が傾くころにバイクを降り、テントを張る。オーストラリア大陸は日本の二十数倍。でも持つ地図はオーストラリア全土1枚モノで、それで不便を感じることもなく、逆に僕を自由に解き放ってくれる。
目の前に道が続く限りバイクを走らせた。道に迷っても、決して道を間違えることはなかった。なぜなら目的地がない故に、彷徨った道こそが、進み行くべき道となるからだ。テントをバイクの後ろに積んではじめて旅、それが今では我が家と化し、質素ながら缶詰を炊きたて飯ごうにのっけて頬張り、満天を眺めてシュラフに包まる。そんな「ひもじさ」が、ほんのり優しく穏やかぬくもりで心を満してくれた。これ以上、なにが必要だろう?
ポートヘッドランドにほど近い、通りすがりの名前も知らないビーチで一晩することにした。遠浅のビーチで今日もインド洋に沈む夕陽を受けながら、町にはない歩調で陽が暮れるまでひとり散歩した。やることが何もない。でも退屈など全くしなかった。誰もいないビーチで、赤く燃える太陽を独占する。西の水平線に溶け込む太陽は僕に光りの手を掛け、砂浜に影をくっきりと焼き付けた。その僕の影は東の方角を指差し、強い意思を持って「明日はこっちだ」と告げているようだった。今日の光と明日の影、その真ん中に自分が立っている。
太陽が僕の目を覚ます。『世界広しと言えど、お前が立っている地は常に一点、。お前の現実は、お前自身が踏み締め軸となるその足元にあるんだ』。それまでは僕は、この旅はあくまで娯楽・遊びであって、本当の自分の現実は、日本に置いてきていると心のどこかに感じていた。自分の現実とは、他(人)との関わりを持って、経歴や思い出という形で他人の記憶の中にあるものだと思っていた。だから、意識もしない奥底で、自分以外の他が気になっていた。他人の中で時間を止めた自分、故郷に放置したまま自分、過去に残されたままの自分に、一抹の不安を嗅ぎ取っていた。でも今この瞬間から、自分の現実を自分の足元に感じている。恐怖観念に似た他人が向けているであろう目は消え去り、代わってそこには第3者的な存在の自分の目がひょっこり芽生えてきていた。太陽は本当の僕がどこにいるかを照らし出し、僕の現実を悟らせてくれた。旅の新境地を迎えた。ひとり旅をすることで、人生の新境地、我が魂の新境地を感じずにはいられない。ふつふつと涌き出る内なる勇気が、武者震いを奮い立たせた。この何もない土地、西オーストラリアで、僕は、もうひとつオーストラリアを発見し、もうひとつの自分を発見した。それがこのときだった。

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