緑(りう)の一族

黒澤伊織

第二部 第七章 大樹の花

「イリヤ! アスラン様はご無事か?!」
 一挙に燃え広がった炎に照らされた大樹の底に、穴の向こうから思い切りラケルが叫ぶ声が響いた。
「ラケル! 僕は大丈夫! それより…」
「アスラン様! 早くこちらにお戻りください、グランの…」
 ラケルの声を遮って、もう一度、すぐ近くに雷が落ちたような音が轟き、その轟音に大樹が震える。
「お姉さん、大丈夫?」
「…ええ、大丈夫よ」
「何があったか分からないけど、僕、見て来るから」
 先ほどまで怯えていた子供とは思えぬほどの気丈さに、大樹は少しためらったように言った。
「あなたは王になると決めたのね。あんなに怖がっていたのに」
「まだ怖いよ。でも…」
「でも?」
「僕は僕の足で前へ進まなくちゃいけないんだ。それが、きっと僕が、アナトリアの進む方向だから」
「そう…」
 大樹はアスランの言葉にためらうと、感情を隠すようにそっけなく言った。
「わかったわ。それがあなたの決めたことなら、そうすればいいわ」
「うん。…ありがとう」
 アスランは大樹を見上げるようにして言うと、壁にぐったりと寄り掛かっているイリヤに駆け寄った。
「イリヤ、行かなくちゃ。行ける?」
「アスラン、もし友人の頼みを聞いてくれるのなら…」
 大樹の燃える炎で照らし出されたイリヤの顔は、雪のように白い。
「僕をこのままここへ置いていってくれないか? 最期の場所くらい、自分で選びたい」
「そんな、イリヤ、最期だなんてだめだ。今から王になる、僕の手伝いをしてくれなきゃ」
「それなら…」
 イリヤは額の脂汗を手で拭った。
「ラケルのところに戻ったら、俺はまた人質に逆戻りだ。だから、俺はここで死んだことにして、逃げるチャンスをくれるっていうのはどうだい?」
「イリヤ、そんな…」
 しかしイリヤを力づけようとアスランが握った手は冷たく、もう少しの力も感じられない。アスランはぐっと歯を食いしばると、イリヤを抱きしめた。
「僕、もう泣き言なんか言わない。見ていてね、イリヤ」
「うん、約束する」
「本当に、約束だよ」
 アスランはイリヤから身体を離すと、しっかりとその顔を目に焼き付けた。
「わかってるって。行けよ」
「うん。…イリヤも無事ここから脱出して、またどこかで会おう」
「ああ、またどこかで、な」
 アスランはくるっと踵を返すと、厚いツタの向こうの穴にすぐに見えなくなった。
 その後ろ姿が完全に消えると、イリヤはほっとしたように目を閉じ、身体中の力を抜いて、全身を壁にもたれかからせた。
 アスランがいたからこそ気丈に保っていた身体は、ほっとすると同時に心臓の痛みを増幅させ、イリヤは苦痛に顔を歪めて肩で息をした。
 額から滴り落ちる汗は冷たく、なのに身体は震えるほど熱く、寒い。重たい岩が自分の胸にのしかかったように息は苦しく、今まで薬の力で動いていたイリヤの心臓は、再び自分の力で規則正しく脈打つことはもうできないようだった。
「あの子は、あなたの望むような王になるかしら」
「…なるさ」
 大樹の言葉に、イリヤは目を閉じたまま、それでも精いっぱい笑顔をつくろうとした。
「俺が望むような王でなくても、アスランは王になる。そして、たくさんの人がアスランを支えるだろう」
「なぜわかるの?」
「なぜかな。…もしかしたら、この月の輝石の予言の力だったりして」
 イリヤは首に下がった月の輝石に触れた。
 アナトリアの始祖が占いに使ったという月の輝石。
 しかし、そんな石に頼らなくとも、イリヤはアスランが素晴らしい王になる姿を、まぶたの裏にありありと浮かべることができた。
 雷が落ちるような音は、一定間隔をおいて、大樹を震わせ、イリヤの見上げる小さな空からも、もうもうと炎と煙が上がっているのが見えた。
「…大樹のお姉さん、苦しい?」
 最期の時に、そばにいてくれる声があってよかった、とイリヤは浅い呼吸をしながら思った。胸の痛みが死の方向へと無理やりに自分を引きずっていく間も、こうして少しは気を紛らわすことができる。
「いいえ、苦しくはないわ。けれどこれが私の終わりなのね。あの子がどうなるのか、見てみたかった気もするけれど」
「…力になってあげてよ。お姉さんにはできるでしょう?」
「何が言いたいの?」
「俺、あなたの物語を読んだよ。アスランが市場の男からもらったっていう。あれは、あなたの物語でしょう? そしてきっとその男ってのは…」
「大昔のことなんて、忘れてしまったわ」
 めらめらとその身体が燃え盛っていることをまったく感じさせない声で、大樹は言った。
「お姉さんがそう言うなら、それでいいけど」
 イリヤは一つ咳をすると、細く目を開いた。流れる汗は涙に似て、イリヤの目元をつと通り過ぎるが、もうイリヤにその滴を拭う気力はなかった。
「お姉さん。お姉さんは命をつなげられるのに、そうしないなんてこれっきりの命の俺に失礼だと思わない? アスランのこれからが見たいんだろ? それなら俺の代わりに見届けてくれよ」
「人間とは、もう関わらないと決めたの」
「意地っ張りなんだね……そうだ」
 イリヤは最後の力を振り絞って、月の輝石のペンダントを大樹から見えるように胸元に出した。
「俺が必要なくなったら、このペンダントをアスランにあげるって、約束してたんだ。だから…もしよかったら、お姉さんが、渡してくれると、嬉しいんだけど…」
「そんなものは自分で…」
「俺がどんな状態か、わかるでしょ」
 真白い顔をして、この期に及んで冗談のように言うイリヤに、大樹は沈黙した。
「…考えておくわ」
「うん、それでいい」
「考えるだけよ」
「わかってる、って…」
 大樹の底へ来る前に傾き始めていた夕日は、きっともうそろそろ沈む。そして、自分の命も地上の夕日が山へ消えていくように、もうじき消えてなくなってしまうのだろう。
 イリヤはうつろになっていく頭で、ぼんやりと考えた。不思議なことにあれほど苦しかった胸の痛みは、だんだんと麻痺していくように感じなくなり、イリヤは魂となって、苦痛に満ちた肉体から抜け出ようとするように、自分が透明になっていくのを感じていた。
 けれど、今日の夕日は沈んでしまっても、明日にはまた日は昇る。それと同じように、今日消えてしまう自分の命にも、神が次の命を与えてくれたらどんなにいいだろう。
「…ねえ、お姉さん。もし、あの物語が本当なら、聞いてみたいと…思ってたんだけど」
「なあに?」
 イリヤの声は、バチバチと燃え盛る炎の音にかき消えそうなほど微かだった。
「天の、お姉さんたちが枝を伸ばした先に……神様は、いたのかな…って」
 イリヤの目は、大樹の底からは決して見えはしない、雲の中遥かかなたに消えていく大樹の先を映し、そしてその先にある何かを見たがっているようだった。
 しかし、イリヤの時間は、イリヤがそれを見定めるまで待ってはくれなかった。
 その何かを見ようと白い顔を空へ向けたまま、自分を一生苦しめた心臓の上に月の輝石を下げたまま、イリヤの小さく開いた目の光はひっそりと失われた。
「イリヤ…」
 一つの光が地上から消えたことを悼むように、海から吹きつける風が、瞬間、凪ぎ、辺りの空気がしんと静まり返った。
 そして、その静けさに、大樹は聞く者のいなくなった声で、そっとつぶやくように答えた。
「…いいえ。神様は、いなかったわ」

  *

「ラケル! 何が起きたの?」
「はっ。どうやらグランの兵が北の海から、投擲機のようなもので大樹を倒そうとしているのではないかと…」
 先ほどまでただ怯えていたアスランの変貌に、ラケルは目を白黒させながら手短に答えた。
「大樹を…?」
 ラケルが引いてきてくれたマクに、アスランはひらりとまたがると、地下道を出口に向かって走り出した。
「アスラン様、イリヤは…?」
 慌ててアスランの隣に馬を並べたラケルが、後ろを振り返って訊く。
「…イリヤは、あそこで死んだ」
「それは…」
 アスランの泣き腫らしたような赤い目を、ラケルはイリヤのためと勘違いしたらしい。
 ラケルはアスランの言葉をそのまま信じて、黙りこんだ。
「いいんだ。それより…」
 アスランは一気に地上まで駆け抜けたマクを止めると、ラケルの目を見た。
「ラケル、さっきはあんなことを言ってごめん。僕、もうあんなこと言わないから、だからラケルには、僕を信じてほしい」
「アスラン様…」
 アスランの真っすぐな瞳に、ラケルははっとしたように顔を伏せた。
「ありがたいお言葉。…ぜひ、皆にも聞かせてやってください」
「分かった。じゃあ皆を集めてくれる?」
「はっ。わかりました」
 馬に鞭を入れたラケルが、一足先にギョクハンの屋敷の方向へ去ると、アスランは息をついて燃え盛る大樹を見上げた。
 風にあおられて、ごうごうと音を立てて燃える大樹は、まるで天へと上がった火柱のようだった。
 どうして生木が燃えるものか、ぱちぱちと火の粉が降るその光景を、アスランはしばらく眺めた。
 今、炎は大樹の太い幹を這うように燃えているが、いずれはこの空に広がった枝にも火は燃え移り、ネア・クゼイの町中に火の雨が降るだろう。
 それに、北からの投擲機で大樹が揺らいでいるのなら、傷ついた大樹は燃え盛ったまま、海からの風にあおられて、町の方へ倒れて来てしまうかもしれない。
「町の皆は? どこが安全なのかな?」
「皆は…」
 アスランの後ろの兵士が答えようとした時、聞き覚えのある声が響いた。
「ああ、小アスラン様、森へ行ったと聞いてもう心配で心配で…」
「止まれ」
 炎に照らされて、アスランに駆け寄るミネを、騎馬兵がアスランを囲むようにして制止する。
「待って。この人は大丈夫だから…」
「そうですよ、この方は、私の小アスラン様なんですから」
 ミネは、兵たちの間を太った体で素早くすり抜けると、アスランがマクから降りるのを待ちきれずに、思い切りアスランを抱きしめた。
「…ミネ、苦しいよ」
「小アスラン様、大王様のこと、お可哀そうに…ミネは…」
「ねえ、ミネ、僕は大丈夫だから」
 やっとミネの抱擁から逃れて、アスランは言った。
「そんな、小アスラン様のおそばには、このミネがついていないと…」
「ミネ。僕はラケルたちと行かなきゃならないんだ」
 アスランはきっぱりとした声で言った。その強い声に、ミネは何かを悟ったように、一歩アスランから離れた。
「ああ、小アスラン様…いえ」
 涙をこらえるようにミネは声を詰まらせると、アスランに向かって頭を下げた。
「今までお世話をさせていただいて光栄でございました。…アスラン様」
「うん。僕も、今までありがとう、ミネ」
「ええ、ええ、そうおっしゃっていただくと…ミネは幸せで。ええ、ええ、あのお小さかったアスラン様が、こんなに立派に、覚えておられますか、アスラン様は昔はそりゃあ…」
「あの、ミネ、僕、ラケルたちのところへ…」
 アスランが困り顔をするのも気に留めずに、ミネはハンカチで大げさに鼻をかみながらまくしたてた。
「そうでしょうとも、もちろんでございますよ、アスラン様。でも私はもううれしくってうれしくって、これでミネの肩の荷も一つ下りて…いえ、まだまだでございますわね、アスラン様のお子様も、このミネが立派に取り上げて、そしてアスラン様と同じように…」
 涙を拭いながらなおも話を続けようとするミネの背後の森に、アスランは見覚えのある影を見つけて、驚きの声を上げた。
「ねえ、ミネ、あの人…」
「とてもうれしゅう…何でございますか?」
「ほら、あそこ!」
 遠目からは確かにはわからないが、一人の男が何かに駆られたように、森へ入っていくのが見える。
「ほら、あの市場の本売りのお兄さんだよ。今、森へ入っちゃ危ない。誰か、あの人を止めて…お兄さん! アスランお兄さん!!」
 大声を上げて、今にも自分で駆けだしそうになるアスランを、ミネは慌てて羽交い絞めした。
「そちらに行かれたら危のうございます、小アスラン様、いえ、アスラン様!」
「でも!」
 しかし、ミネの言う通り、男の姿は燃え盛る森の中に吸い込まれるようにして消えていってしまった。
「どうして…」
 しかし、アスランが呆然とする暇もなくラケルの力強い声が聞こえる。
「アスラン様、準備ができました」
「わかった、今行くよ」
 男の消えた森を目に焼き付けるように見つめ、アスランがマクを反転させようとした瞬間、突然風が凪いだ。
「風が…」
『もうじき、こんなふうに北の海から吹く風が止むと…』
 アスランは大樹の言葉を思い出した。
 これが、大樹の言っていた、冬の始まりの合図なのかもしれない。
「あ、アスラン様、大樹が」
 そのとき、ラケルが驚いたような声を上げ、その声にアスランはどうしたことかと、馬上から大樹を振り返った。
 見ると、大樹を包む炎は、風が凪いでいるにもかかわらず、ひときわ大きな紅炎を上げて燃え上がっているようだった。
「違う…」
 アスランはその光景に驚いて、目を見張った。
 大きくなったように見えたその紅は、炎ではない。
 それは、まるで大樹そのものが咲いたような、大きな花であった。
「ラーレの花だ…」
 炎の中に咲き誇ったラーレの花は、一瞬にして生命のすべてを使い切るようにぱっと開くと、次の瞬間にはもう花弁をひらひらと落とし、また炎の中に見えなくなってしまう。
「大樹の最後の輝きでしょうか…」
 やっとしゃべるのをやめたミネが、小さくぽつりと言った言葉が一つ、アスランの耳に寂しく残った。

  *

「…お兄さん! アスランお兄さん!!」
 燃え盛る森へ入る直前に、男の耳には誰かの叫び声が響いたような気がした。しかし、男はそんな声に気を取られている余裕などなかった。
「火を…火を消さないと…」
 男はおろおろと森の中を歩き、何とか火を消そうとぼろぼろになった靴底で燃える地面を踏みつけた。
 しかし、風にあおられ、ごうごうと森全体を燃やす火を消すことなど、いくらこの男が不死身であってもできることではなかった。
「大樹、お前まで燃えてしまったら、俺は本当に一人きりになっちまう」
 煙の上がる森の中を、男は闇雲に歩き回った。煙は肺を焼き、炎は身を焦がすが、男が倒れることはない。それは男が身を以って知っていることだった。
 あの朝早くにクゼイを発った男は、都を一望する峠で、まさに滅びていく王都をその目で見た。
 光の柱が真っすぐに天へ伸びあがり、大きく裂けた大地がすべてを飲みこみ、そしてすべてがなくなっていく様。それは神の怒りに触れた傲慢な人間の都が滅ぶ姿、そのもののように男の目に映った。
 そして男とその旅商仲間が目の前の光景にあっけに取られているうちに、今度は足元の峠がそこにいた皆を巻きこみ、崩れていった。仲間とともに崩落に巻き込まれ、身体中の骨が折れるような衝撃の中、男も自分の死を確信した。
 しかし、男が死ぬことはなかった。
 しばらくして目が覚めた時、男の身体には傷一つなく、周りに仲間の動かぬ身体が転がる中、男は一人きりで生きていた。
 奇跡だ。そのとき男はそう思い、神に感謝した。しかし、その神の奇跡は恐ろしいほどに残酷な奇跡だった。
 それからどんなことをしても——断崖絶壁から飛び降りようが、夜盗に襲われてナイフを腹に刺されようが、男は死なず、終わりの見えない苦行のような生は永遠に続いた。
 老いぬ不死身の肉体を手に入れた男は、各地を転々と旅をして過ごした。疑念を抱かれぬよう、友達もつくらず、人と深く関わらず、ただいつまで続くか分からぬ長い時間をひたすら耐えるように生きた。
 しかし、そんなあまりに孤独な男の目に一つだけ、いつも変わらずにあるものも存在した。それが、あの天へ届くばかりの巨大な大樹だった。
 どんなに遠くからでも見えるその巨大な姿は、頼る者のいない男の心を慰め、また、男が一人ぼっちではないのだと励ましてくれた。
 だから男にとってこの大樹は、想像を絶するほどの年月を共有してきた、ただ唯一の朋友であった。
「お願いだ、お前がいなくなってしまうなら、俺も一緒に連れて行ってくれ」
 男はとうとう崩れ落ちるように燃える地面に膝をつくと、両手で顔を覆っておんおんと泣いた。その涙はぽたぽたと燃え盛る炎の中に落ち、小さな蒸気を上げた。
「俺を置いていかないでくれ、俺を本当に一人にしないでくれ…」
 そのとき、男の頭上で大きな光が咲き、その花びらのような炎がひとひら、ふらりと男の身体を包み込むように舞い落ちた。
「これは…」
 その優しげな感触に、思わず男は顔を覆っていた手を下した。そしてその目に映る景色に驚いて声を漏らした。
「ここは、どこだ…? 俺は…」
 いつのまにか男の身を焼いていた炎の熱は失せ、不思議なことに男の目に見える景色は、さきほどまでの燃え盛る森の中ではなくなっていた。その代わりに、男の目に映ったのは、ずっとずっと、古代の昔に男が見た、一面のラーレの花の絨毯だった。
 いくら時が経っても忘れはしない、美しい色とりどりの花たち。その景色の中にあるべき人を、きっともう少し顔を上げれば見えるその人の姿を、男の心は知っていた。
「許して、くれるのか…?」
 男はその景色の先に手を差し伸べた。その手は誰かに届いたのだろうか、男は少し微笑むと、そのままゆっくりと倒れ、そして動かなくなった。
 こと切れた男の身体を今度こそ焼くように、森の炎は勢いを増して燃え続ける。
 しかし、男の今までの長すぎる苦しみの時間に比べて、その死はとても穏やかで静かなもののようであった。なぜなら、男の顔はとても安らかなものであったからだ。
 その幸せそうな男の顔を、森の炎が赤く照らし出す。その光の中で男の肉体は、長く生きた時間を今初めて清算するかのように、皮膚に老人のようなしわを刻み、肉を削ぎ、みるみるうちに骨と皮ばかりの乾いた骸になっていった。
 そして、その骸はあっというまに粉々に崩れ、砂のように細かな白い灰になって大地へと還っていった。その様子は大地の上に生きる、どんな生き物でも変わらずに行きつく、死の姿であった。

  *

 一発目の大砲は、手前の森に落ちたように見えた。しかし、目標を外してもなお、落ちた場所からは確実に火の手が上がり、大樹の根元の森は瞬く間に炎に包まれていく。
 黒き燃ゆる水の威力は絶大だった。
 その力なしには、ああも激しく燃えることはないだろう。
 大砲の音が響き渡るたびに、火柱が上がり、その爆発の威力で大樹の根は吹き飛んでいく。
 皇帝陛下の侵攻にふさわしい、華々しい幕開けよ。
 兵士たちの顔を炎が赤々と照らすようすを、バケーロは満足して眺めた。
 あれほどよくしゃべるギョクハンもその口を閉じ、この素晴らしい、グラン帝国の侵略を眺めている。
 ドン、という轟音を響かせ、北の山に登ったイアゴの号令で、何発目かの大砲が呪いの大樹を激しく揺らす。
 この分では、わざわざ町まで攻め込まずとも、大樹の炎がネア・クゼイを丸焼きにしてくれそうだ。
 バケーロはグラン帝国でこの火柱を見ているであろう、皇帝の満足げな顔を思い描いた。
「アナトリア全土がグランにひれ伏すのも、時間の問題よ」
 もう一発、もう一発と、大砲は打ち込まれ、そのたびに大樹はネア・クゼイの町へと傾いていく。
 山を崩すほどの爆発の力が、大樹の太い幹をも削り、その巨体を町の人々をも巻きこみ、地に横たえようとしているのだろう。
 まるで天が味方をするように、海からの風すらグラン帝国に加担し、大樹を打ち倒そうとするように激しく吹き捲っている。
「造作もなかったな」
 バケーロは、抑えきれぬ笑いを顔に浮かべた、そのときだった。
 ぴたりと風が凪いだ。
 そして、炎の中に何か、大きな花が咲いたような輝きが大樹を包み込む。
「あれは…あの樹は、花を咲かせるのですか?」
 その幻のような一瞬の輝きに気圧されて、バケーロが思わずギョクハンに尋ねる。
「さあ、花など咲いたところなど、私は見たことがありませんが…それより…」
 ギョクハンが顔をしかめているのは、どうやら大樹に咲いた花を見たせいではないようだった。
「バケーロどの、風が…」
「風がどうしました。もうそろそろ、呪いの大樹が倒れます」
 何を気にしているのか、不安そうな顔をするギョクハンに、バケーロは口元を歪めて大樹を指差した。
「いや、このように風が凪ぐと、冬が始まるのです」
「冬? 冬が来たらどうなるというのです」
「ですから、冬には陸から海に、つまりこちらに向かって嵐のような風が…」
 その言葉が終わらないうちに、一筋の空気がバケーロの頬をかすめて流れ、同時に風が動き出す。
 そして、次の瞬間には足がよろめくほどの、嵐のような激しい風が、バケーロの真正面から吹き付けた。
「何だこれは…!」
 突然に向きを変えた風にあおられて、倒れかけていた大樹がこちらに傾いた。かと思うと、そのままバリバリと天が割れるような音を立てながら、まさに、バケーロ目掛けて、大樹の巨体が天より倒れて来る。
「に、逃げろ!」
 すさまじい音を響かせて、ゆっくりと頭上に倒れて来る大樹に、グランの兵たちは次々に叫び声をあげて逃げ出した。
「バケーロどの! 私は、ど、どうしたら…!」
「離せ! ええい、私を掴むな!」
 半狂乱になって自分にしがみついてくるギョクハンを、バケーロは振りほどこうともがいた。
「私はこんなところでは死ねん! この地にグラン帝国の旗を立てるまでは…!」
「死ぬ?!」
 その言葉を聞いて飛び上がったギョクハンは、一層強くバケーロにかじりついた。
「こんなところで死ぬなんて嫌です! イリヤのためにも、私は死ぬなど…!」
「だから離せと言っているんだ! ここから逃げないと大樹の下敷きに…」
 しかし、逃げるといっても、その巨大な大樹からどうやっても逃げ切れるはずもない。
「嫌です! 私は…」
「わからぬやつめ!」
 バケーロはギョクハンを蹴り飛ばし、やっとのことで自由になると、逃げる兵たちにまじって方向もわからずにとにかく駆けだした。
 その逃げ惑うすべての、空から見れば蟻のようにごちゃごちゃと動き回る人影に何の感情も抱く様子もなく、大樹はただ大地に引き寄せられるように加速し、どうと倒れた。
 その巨大な大樹の衝撃に、ネア・クゼイを囲む山は割れ、海の氷は砕け散り、大地は大きく振動した。海に浮かんだグランの帆船はあっという間に波に飲まれ、船に乗っていた人間や砲弾もろとも、すべてを海の藻屑に変えた。
 そして浜辺にいたはずのたくさんの人間の姿も、もう影も形もなく、それらのすべてがあったあたりにはただ炎を上げ続ける、巨大な大樹がその身体を横たえているだけであった。
 水さえ燃やすという黒き燃ゆる水の炎は、海に倒れてなお激しく燃え続け、その炎は冬の風に煽られて、さらに勢いを増していく。その嵐のような風に、時折ぱちぱちと火の爆ぜる音が聞こえるほかは、あたりは何事もなかったかのような、しんとした静けさに包まれた。
 それからしばらくして、砲撃の止んだ空に、ネア・クゼイの町からはラケルの軍勢の勝ちどきのような声が響き渡った。
 その勝利を知らせる声に、燃え盛る炎に怯え、今まで家の中にこもっていた町の人々も外に出て、初めて見る、大樹のない空を不思議そうに見上げた。そして、その空を見上げた人々の目には、天を覆っていた大樹の代わりに、夕焼けに燃える空と、そこに確かな光を放って浮かぶ一番星が映った。
 きっと、もうじき、完全に夕日が沈めば、町の人々はまるでアナトリアの旗を空に表したような、仄暗く青い空に美しい三日月が浮かぶ様を目にすることだろう。
 静かになった大地に、森を、大樹を燃やす炎は、まるでその終焉を知らないかのように、絶えることなく、いつまでも燃え続けた。

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