緑(りう)の一族

黒澤伊織

第二部 第六章 王の資格

「あと数日もあれば、あるいはハムザかフゼイフェが数千の兵をまとめて、ネア・クゼイまで来てくれるかもしれぬが…」
「いえ、峠道があんなに崩れてしまっては、まとまった兵を期待するのも無理かと」
「しかし、あれほどまでに山を崩すものとは一体何だ? やはりあの雷のような音と関係が」
「火薬を大量にまいたものでありましょうか? それにしてもあの威力…」
「敵は自分の進路も崩したということだ。何が目的だ?」
「我々を袋の鼠にしたとことで、敵に理があるとは思えぬ」
 ぼんやりと虚空を見つめるアスランの前で、ラケルと騎馬隊長たちはこれからどう動くべきかについて、白熱した議論を続けていた。
「できればアスラン様だけでも、どこかへ…」
「しかし、どこへゆく? グラン帝国の動きも、ハルハの動きも、我らはわかっていないのだぞ。無暗に動くのも…」
 議論を続ける者たちは、アスラン大王の死を、アナトリアが敗れたという事実を、早くも割り切っているようにアスランの目に映った。
 それとも、そう見えるだけだろうか。
 それでも、このまま先へ進まねばならないのだろうか。
 僕は、一体どうなってしまうんだろうか。
 アスランの身体は、その血液すべてがどこかへ行ってしまったかのように冷たく感覚を失くして、ただそこにあるだけであった。
 自分は一体ここで何をしているのか、これから何をしなければならないのか、自分もきっとそんなことを考えなくてはいけないのに、それなのにアスランの視界は重い霧に包み込まれたようで、ゆく方角さえよくわからない。
『アスラン大王様が、亡くなりました』
 ラケルに告げられたその言葉を、アスランは嘘だと笑い飛ばしてしまいたかった。
 強い父様が、偉大なるアスラン大王が、負けることなど、絶対にあってはならないことだからだ。
 それなのに、ラケルの言葉は、アスランがその小さな手のひらで押し返そうとしてもびくともしないほど重たい、まるで鋼鉄でできた扉のように冷たく頑丈で、アスランの上にのしかかって、そこから決してどこうとはしなかった。
 アスランだけではない。もう誰もその重たい死の扉を押し返して、アスラン大王の命のあったころには戻れないのだ。
 父様を殺したのは、誰だったのだろう。
 アスランの鈍った頭は、考えたくないことばかりを次々と引っ張り出してアスランに突き付けた。
 父王を殺したその人間は、名のある将だったのか、それとも単に機を得た一人の兵だったのだろうか。
 アスランはまるで大王の最期を間近で見た者のように、ありあり頭の中に映しだすことができた。
 それは敵味方入り混じる、混沌とした戦場であったに違いない。
 その中の一振りの剣、たくさんの命を奪ってなおよく光る剣の、その切っ先が、先頭に立って大剣を振り回すアスラン大王の身体を捉え、鮮血を宙に散らし、その血は大王のまたがる馬に飾られた、アナトリアの青い旗を黒く染める。
 大王の負傷に気付いた周りの者たちの怒号がひときわ大きく戦場に轟くが、しかし時すでに遅く、急所を突かれた大王はマクヒア馬のたてがみに顔を埋めるように倒れていく。
 そして、倒れ込む主に驚いたマクヒア馬は、宙を掻くように前足を高く上げ、均衡を崩した獅子王の身体を地面へ重く叩きつける。
 その衝撃の後の、一瞬の暗闇。
 燃え上がるように熱い傷口を押さえることもせず、大王は地に落ちた剣を掴み、再び起き上がろうと腕に力を込める。
 まだだ。まだ、俺は死なぬ。
 その最後の瞬間まで、大王の目には不屈の闘志が宿っていたはずだ。
 俺は、アナトリアの獅子王ぞ。
 かっと目を見開き、腹の底から獣のような咆哮を上げたその瞬間、獅子王めがけてハルハの無慈悲な刃が振り下ろされ、その首は無残にも刎ね飛ばされる。
 アスランの目を強引に見開かせ、その光景から目を背けることを禁じるように、その恐ろしい想像は続きを映し出した。
 大王を討ち取られ、戦意を喪失したアナトリアの兵たちは、さっと蜘蛛の子を散らすように去っていっただろう。
 そして、目を見開いたまま草原に転がった大王の生首を、生前アスラン大王が戦のたびにそうしたように、ハルハの王もアナトリアの獅子を討ち取った証として、生首を槍に刺して高々と掲げただろう。そして、それを見た、ハルハの野蛮な軍勢は地を揺るがすほどの勝ちどきを上げたに違いない。
 その勝利の証を天に高く掲げたまま、ハルハの王は意気揚々と自分の宮殿へ凱旋する。それから、やっぱり自分を出迎えた妻がその生首の恐ろしい形相に思わず卒倒しかけるのを見て、その小さな王子が畏怖の入り混じった目で自分を見上げるのを見て、ハルハの王は豪快な笑い声を上げるのだ。
 と、そこでアスランの恐ろしい想像は、暗闇に一つきり灯っていたろうそくの炎が風に消されたように、ふっと途切れた。
 これが、王と呼ばれる者の最期なの?
 アスランは、大王がアユディスへ凱旋する、そのたびに槍の上に掲げられていた、敵の生首を思い出した。
 そして、その敵の生首は、アスランの頭の中で父の顔になり、そして、アスラン自身の顔になり、そしてまた父の顔へと変わっていく。
 死は何人たりとも避けられるものではない。
 大樹の言っていたように、いくら金があっても、権力があっても、そう、死ぬときにどんなに美しい鎧を着けていようが、そんなものはまったく何の助けにもならない。それどころか。
 突然ひらめいた、恐ろしい思いつきに、アスランは我に返って身を震わせた。
 それどころか、むしろ、金や権力、そのすべてが王へと死を招いているのではないだろうか?
 王は宮殿で豪華な暮らしができる。人々を駒のように使って、戦をする。けれど、戦で負けることは王の死と同義なのだ。
 金貨をたくさん持つことも、毎日の豪華な食事も、それが命と引き換えになるなら、誰が欲しがるだろう。
 アスランは、真剣に議論を重ねているラケルをそっと盗み見た。
 父様は死んでしまった。だから、今度は僕の番なんだ。
 ラケルは、死んだアスラン大王の代わりに、今度はアスランを王に祀り上げようとしているに違いない。
 そしてまた負けてしまったら、そうしたら次に槍の上に掲げられるのは、自分の生首なのだ。
「…アスラン様、それでいかがですか?」
「え、何?」
 ラケルの言葉にはっとして、アスランは顔を上げた。
「アスラン様、しっかりしていただかないと困ります」
 銀の眉を片方上げて、ラケルがアスランを戒める。その鋭い眼光に、アスランは小さく首を振りながら後ずさった。
「嫌、僕いやだよ…」
「何がですか? この作戦がお気に召しませんか?」
「違うよ、ラケル…」
 話を続けていた十人の騎馬隊長も、何事かというように一斉にアスランに視線を集める。
「ねえ、僕はどうしたらいいの?」
「どう、とは、どういうことでしょう」
 ラケルがアスランの言葉の意味を計りかねたように眉をひそめる。
「だって父様が亡くなった今、僕が王様なんでしょう? 僕、戦なんてしたことがないし…」
「アスラン様は、我々の後ろで堂々となさっていてくださればそれでいいのです。戦力になれとは申しません」
 訝しげにこちらを見るラケルに、アスランはますます怯えた。
「何も、しなくていいの?」
「ええ、いて下さるだけで」
「でも、何もしなくていいなら、その、どうして僕がいないといけないの?」
「はい?」
 ラケルは間抜けな声をあげて、まじまじとアスランを見返した。
「どうして、というのは…?」
「だって、僕は戦略も分からないし、戦えるわけでもないし、そういうことは全部ラケルがしてくれるんでしょう? だったら、僕がいなくたって…どうして…」
 アスランの言葉に、こちらに視線を注ぐ騎馬隊長たちの目は次々と伏せられて、そのうつむいた顔には一様に憂いの表情が浮かんだ。
 いけない。
 怯えて逃げ出そうとするアスランを引き止めるように、自分の中で声がした。
 その先の言葉を、言ってはいけない。
 そのアスランの心の底から聞こえてくる声に、アスランは抗議するように声を上げた。
 わかっている。僕がしっかりしなきゃいけないなんてことは。アナトリアの、誇り高き獅子王の子である僕が、立派に父様のあとを継がなければいけない。そんなことはわかっている。
 けれど、想像してしまった恐ろしい映像に、アスランの言葉は止まらなかった。
「どうして、僕なんかが必要なの?」
 重たい空気が小さな部屋を包み込み、皆が沈黙する。誰かが身じろぎをし、かちゃりと鎧が小さな金属音を立てた。
「アスラン様…」
 ラケルの疲れで血走った眼が、無念そうにうつむく。それから、ややあって、ラケルは一気に年相応に老けた別人ような声でつぶやくように言った。
「…皆、一度兵たちの元へ戻り、ゆっくり休んでくれ。またすぐに招集する」
「…はい」
 ラケルの言葉に、騎馬隊長たちはのろのろと立ち上がると、次々に部屋を出ていく。
 その葬列のような力ない足取りに、アスランはうつむいたまま小さなこぶしを握りしめた。
 そして、最後の騎馬隊長の一人が部屋の扉を静かに閉め、広い部屋に二人だけになると、ラケルはおもむろに顔を上げ、アスランと正面から向かいあった。
「…アスラン様」
 ラケルのしわだらけの顔は、アスランを思ってぐしゃりと歪んでいた。
「何だよ…」
「先ほどの発言をお取消し下さい」
「…どうして?」
「どうしてではありません」
 一方的に叱られる子供のように、唇をかんでうつむくアスランの腕を強く掴んで自分の方を向かせると、ラケルは強く訴えるように言った。
「お願いです、アスラン様。我々があなたを必要とする意味が分からないのであれば、今はそれで構いません。ですから、ここはラケルの言うことをお聞きになって下さい」
 あまりに真剣なラケルの目には、涙さえ滲んでいるように見えた。
「アスラン様はまだお小さくいらっしゃる。それに突然父様が亡くなったと聞かれては、動揺するのも当然です。しかし、どうか亡きアスラン大王様のことを思って下さい。アスラン大王様は、アスラン様が王国を継いで下さると、命の消えるその瞬間まで、最後まで信じていらっしゃったはずです」
「でも、嫌だよ…」
 アスランはその言葉が自分を守るたった一つの盾であるかのように、同じ言葉を繰り返した。
「だって僕は何もしないんだったら、居てもいなくても一緒じゃないか」
「同じではありません。アスラン様がいらっしゃらなければ、我々は動くことはできません」
「だから、なんで僕なんだよ。王がいないと戦に行けないと言うなら、ラケルが王になればいい。そうしたら、好きなだけ戦が出来る」
「何てことをおっしゃるのですか」
 ラケルはアスランのあまりの言葉に身体を震わせた。
「王とはそういうものではないはずです。そしてそれは、大王様の言葉に、生きざまに、アスラン様も感じていらっしゃるはずです。王たる者の心を、誇りを」
「でも、だって!」
 アスランはこらえ切れずに叫んだ。
「何もできないのに、王様に祀り上げられた僕でも、でも、それでも戦に負けたら殺されるのは僕なんだ。そうでしょう? でもそんなの僕は嫌だ。だって、損じゃないか! 何もしていないのに、ただの飾りのようなものなのに、殺されるなんて!」
「…ええ、アスラン様のおっしゃる通りです。戦うのが我々でも、負ければ首を取られるのはアスラン様です。たしかに損得で言うのなら、損なのでしょう。しかし…」
 ラケルの声は何かを必死にこらえているようだった。
 しかし、ラケルの訴えるような言葉にも、アスランは天に掲げられた、自分の生首の想像のほかは、何も考えることができなかった。
「僕はそんなの嫌なんだ! 殺されるのなんて、嫌だ! 生首になって敵に晒されるのは嫌だ! 僕は父様のように死にたくなんかない!」
「…アスラン様」
 深い悲しみに溢れた、一つ一つの言葉を噛みしめるようにラケルは言った。
「あなたが王という存在を意味のない飾りだと言い、それに価値がないというのなら、そうなのかもしれません。しかし、我々は…」
 ぐっと喉元までせり上がった感情を飲み下すように、ラケルは喉を動かした。
「あなたの元にはせ参じたこの騎馬大隊は、あなたという、その飾りがなければ、行き場のない、意志さえ保てぬ烏合の衆なのです。我々にとってその飾りは、アスラン様、あなた様は、我々が掲げるアナトリアの旗であり、我々の胸をふくらます誇りであり、何百年と続いた我々の王国そのものなのです」
 アスランの腕に食い込むラケルの指が、言葉では伝わらない何かを訴えるように力を強めた。
 王とは、誇りだ。
 アスランの頭に張り付いて離れない生首の映像をかき消すように、父、アスラン大王の精悍な笑顔が、アスランの心にぼんやりと浮かんだ。
 お前にもいつか、きっと分かる。
 その低い声がアスランの耳に響き、その大きく厚いてのひらが、アスランの頭を撫ぜると、いつだって心は穏やかになり、胸の中はは誇らしさでいっぱいになった。
 僕は、アナトリアの、誇り高き獅子王の子なんだ。
「でも…僕…」
 いつだって誇らしかった父は死んでしまった。そのあとが、果たして僕に務まるとでもいうの?
 そろそろとラケルを見上げたアスランの悲しげな目に、あと一押しと見たラケルが、畳みかけるように強い口調になった。
「ですからアスラン様、どうか王として我々の上に立ってください。それが亡きアスラン大王様の…」
 亡きアスラン大王。
 その言葉に、アスランの胸を暖めた父の姿は、瞬時に恐ろしい形相でこちらを睨みつける生首へと変わり、アスランは思わずラケルの腕を振りほどいて立ち上がった。
「嫌だ、ラケル、僕は、怖いんだ…!」
 どうしたらいいかわからなくなったアスランは、混乱してそう叫ぶと、脱兎のごとく部屋の外に飛び出した。
「アスラン様!」
 よもやアスランが逃げ出すと思っていなかったラケルが慌てて立ち上がり、部屋の外に追いかける。しかし、扉の先にもうアスランの姿はどこにも見えなくなっていた。
「アスラン様! おい、アスラン様は…」
「小アスラン様なら、表へ飛び出していかれましたよ」
 侍女が忙しそうに通り過ぎながら、面倒臭そうに言うのを聞いて、ラケルはがっくりと肩を落とした。
「…まったくどうなっているのだ。誰か、アスラン様が行きそうな場所を…」
「ラケル隊長殿」
 屋敷の見張りをしていた兵が、ラケルを呼んで、奥の部屋の中を指差した。
「この者が、ラケル隊長にお話があると…」
「何だ」
 一気に疲れを感じたラケルが部屋を覗くと、真っ直ぐにこちらを見つめるイリヤと目が合った。
「お前か。何だ?」
「アスランがどっか逃げ出したんだろ? でも行き先なら、俺、知ってるよ」
「呼び捨てにするな。アスラン様とお呼びしろ。…それで、どこだ?」
 投げやりに聞くラケルを試すような目をして、イリヤは答えた。
「そうだな、俺を連れてってくれるなら、そのアスラン様のところまで案内してやるよ」
 ラケルはどこか挑戦的にこちらを見るイリヤにため息をついた。
「いいだろう。…その身体で逃げることも叶うまい」
「まあ、そうだね」
 真っ白な、生気のない顔で笑う少年に、ラケルはうなづくと、兵に用意を急がせた。

  *

 以前、アスランがマクと森へ行き、大樹の底に落ちてから、ずいぶん日にちが経ったはずだった。
 それなのに、地下道から小さな穴を抜けた先の空間には、まるでたった今咲いたかのようなラーレの花が、美しく開いていた。
 父様、母様…。
 アスランはその変わらぬ光景をうつろな目に映すと、そのまま花の中に座り込んだ。
『アスラン、戦がなくなったら、草原をラーレの花でいっぱいにしてね…』
 メルヴェの言葉を囁くように、ラーレの花が揺れる。
 母様の言っていた通り、戦なんてなくなればいいのに。
 アスランはその囁きに首を振ると、目を閉じて膝を抱えた。
 必死になって説得しようとしてくれたラケルを振り切って飛び出してきてしまった自分が、アスランは情けなかった。
 僕がアナトリアの王だって、胸を張って言えたなら、どんなによかっただろう。
 しかし、その言葉はアスラン自身にさえ薄っぺらい嘘のようにしか響かない。そんな嘘のような言葉をアスランが皆の前で言えたとしても、きっと誰も信じさせることはできないような気がしていた。
 少し、寒いな。
 しっとりと湿った地面は、地下蔵のように冷たく、アスランの小さな体を冷やしていく。
 このまま、誰にも見つからずにここにいたら、死んじゃうかな。
 アスランは鈍った思考の中でそんなことを考える。
 でもここで死ぬ方が、ずっとましかもしれない。だってここで一人ぼっちで死ねば、少なくともハルハやグランの蛮将に生首を晒されることはないもの。
『アスラン様、あなたがいなければ、我々は一体誰のために戦えばよいのです?』
 老いたラケルの必死な目がちらりと頭を横切る。
「ごめんね、ラケル…だけど、僕、もうわからないんだ」
 どうしたらいいか。すべきことがあるのか。王たる意味も、価値もないような自分に何ができるのか。
 そこへ父王の戦死と、死への恐怖までもがない交ぜになって、アスランの胸の中はもうぐしゃぐしゃだった。
「もう、嫌なんだ…」
「…何が嫌なの?」
 何物も自分の身体に触れさせまいとするように、ぎゅっと膝を抱え、震えるアスランを見かねたように、どこからか母のように優しげな声が響く。
 その声を聞いて、アスランはのろのろと顔を上げた。
「大樹のお姉さん……僕を、怒らないんだね」
「何を?」
「だって、もうここへ来るなって言われたのに」
 大樹は首を振るように、小さく枝を揺らした。
「別に怒りはしないわ。できるならそっとしておいて欲しいけれど、来てしまったものは仕方がないし、それに…」
「それに?」
「あなたはとても悲しそうだから」
「…ありがとう」
 アスランは小さく息を吐くと、膝の上に伏せていた顔を少し横向きにずらした。
「お姉さんは、優しいんだね。…僕の母様みたい」
「そう? 私も少しだけ母親でいた時があるから、そのせいかもしれないわね」
「少しだけ? どうして少しだけなの? 子供は…」
 そこまで言って、アスランは口を閉じた。
 名前を呼んでくれる人がいなくなった、という大樹の言葉は、子供を亡くしたということなのかもしれないと思ったからだ。
「ごめん」
「謝ることないわ。子供たちは…私たちはもう一つの存在になれたのだから」
「そう…」
 何があったんだろう。いや、何があったとしても、それが悲しい出来事だったことに違いはない。
 アスランと同じように、大樹にも、とても悲しいことがあったのだろう。
 以前に訪れた時には感じられなかった、大樹の悲しみの深みを、今のアスランならばその奥底にまで手を差し伸べられそうな気がした。
 しかし、その自分の悲しみを多く語ろうとはせずに、大樹は優しくアスランに問い返した。
「あなたは何があったの? この短い間に」
「僕は…」
 相手はこの間言葉を交わしたばかりの、それも姿も見えない大樹だ。
 それなのに、どうしてかアスランは胸の中の気持ちを素直に言葉にしようとしていた。
「僕は、父様が、ううん…違うんだ、僕は、僕は……」
「落ち着いて。ね、涙を拭いて」
「え? 僕、泣いてなんか…」
 アスランは大樹の言葉に初めて、自分の頬を伝わってぽろぽろと流れる涙に気付いた。
「あ、違うんだ、これは…僕…」
「泣きたかったら泣いてもいいのよ」
「ううん、強い王様は泣かないんだ」
 自分の意志に反して、ぼろぼろと流れ続ける涙を拭うことに一生懸命になりながら、アスランは幼いころからミネに言い聞かされた言葉を口走った。
「でも僕は王様になりたくない、ううん、なりたくないんじゃなくて…」
 混乱した言葉を一生懸命に口にするアスランに、大樹は母のように穏やかに言った。
「あなたはまだ王ではないのでしょう? それなら泣いてもいいのじゃない? それに王様だって悲しいときにはきっと泣いているわ」
「と、父様も、泣くことがあったかしら?」
「ええ、きっとあったわ」
「うん…」
 大樹の言葉に、アスランは口を歪めて瞬きをした。目から涙はとめどなく溢れ、喉からは苦しげな嗚咽が漏れる。小さな肩は震え、眉は下がり、ずるずると鼻をたらし、整った顔はぐしゃぐしゃになる。それでもアスランは悲しみを表現することをやめなかった。
 嗚咽を次第に大きくし、言葉にならない声を大声で、声の限り、大樹の底に響き渡るほどの声でアスランは泣きじゃくった。
 アスランは悲しかった。とても悲しかった。悲しくて悲しくて、こうやって悲しみを外に吐き出さないと、苦しくてどうにかなってしまいそうなくらい悲しかった。
 声をあげて、泣き続けるアスランを、大樹はただ見守っているだけであった。
 けれど、アスランは一人ぼっちのはずなのに、大樹にはアスランを抱きしめる腕もないはずなのに、どうしてかアスランは誰かの腕に抱かれているような暖かさを感じていた。
 その暖かさは、アスランの体中に染みわたり、アスランはやっとのことで涙と一緒に胸の中の言葉を吐きだした。
「ねえ、お姉さん。僕、悲しいんだ。父様が亡くなって。僕、怖いんだ、王になって、父様のように殺されてしまうのが。僕、わからないんだ、ラケルたちの気持ちに答えられるほどの何かが、自分の中にあるのかどうか。ねえ、僕は何も知らない、自分の食べるものがどうやって作られるのかも、戦のやり方も、今何をすべきなのかさえも。それなのに、皆、僕に王であれと言う。他の誰でもない、僕がアナトリア王国そのものなんだって。僕、何もできないのに、何も知らないのに。ただ、こんなところで一人で震えてるしかない臆病者なのに!」
 アスランの心の奥からの叫びを、大樹は黙って聞いていた。
「僕、本当はこんなとこにいちゃいけないんだ。皆のところに帰って、胸を張っていないといけないんだ。分かってる、分かってるけど、でも…」
「あなたは、やらなくてはならないことがたくさんあるのね」
 大樹は小さくつぶやいた。
「まだ、こんなに幼い子供なのに…」
「アスラン!」
 大樹の声をかき消すように、唐突に明るい声が響き渡った。と、そう思うと、壁の厚いツタがめくれ、その下の小さな穴からひょこっとイリヤが顔を出した。
「イリヤ!」
 アスランは驚いて急いで涙を拭うと、イリヤに駆け寄った。
「絶対にここだって思ったんだ」
「どうしたの? 寝てなくていいの?」
 イリヤに手を貸して、小さな穴から引っ張り出しながら、アスランは心配して言った。
「ラケルじいさんを王子様のところまで案内してきたんだが、最後の、この穴を抜けられるのはやっぱり子供だけらしくてね」
 イリヤはくすくすと明るく笑う。しかし、無理をしたのだろう。その笑顔とは裏腹に、額には脂汗が浮かび、片手は心臓のあたりをぎゅっと押さえている。
「それに、俺もここへ来てみたいって言ってただろ?」
「でも僕が逃げたせいで…ごめん、イリヤ。大丈夫?」
「気にするな。それにしても…」
 アスランはそっとイリヤを壁に寄り掛からせるようにして座らせた。イリヤは肩で息をしながら顔を上げると、大樹の底に広がる一面のラーレの花を見て目を輝かせた。
「綺麗だな。これがラーレの花か」
「うん。すごいでしょ?」
 一面の花を見つけた、自分の手柄を誇るように、アスランは鼻を垂らしたまま、少し笑顔になった。
「これは、見にきた甲斐があったな」
 初めて見る美しい花に、イリヤは嘆息を漏らし、その光景を目に焼き付けるように眺め、それからふと思い出したように、アスランにこそっと囁く。
「それから、例の大樹のお姉さんはここにいるの?」
「…いるわ」
 大樹の声が小さく答えた。
「おお、本当だ。…えっと、こんにちは、大樹のお姉さん。俺、イリヤです。アスランから聞いて、一度話したいと思ってたんだ。それで、そうだ。まずは…」
 イリヤはポケットから、アスランから預かったままになっていた、マクヒア馬の埋め込まれた金の髪飾りを取り出した。
「これ、お姉さんの大事なものだろ? 返すよ」
「…それは、いいのよ」
「そんなことはないはずでしょ? ほら、ここに置いておくね」
 意味ありげに大樹に言うイリヤに、おずおずとアスランが話しかけた。
「あの、イリヤ…僕…」
「アスラン」
 イリヤはアスランの目を見た。
「なに?」
「…そんなに身構えるなよ。取って食おうってんじゃないんだから」
 瞬時に身体をこわばらせたアスランに、イリヤは苦笑した。
「俺たちは友達だろ」
「でも、ラケルに僕を連れ戻せって言われたんでしょ?」
「そうだけど、別に俺はそんなんじゃないんだ。ただ、君と話したかっただけ」
「そうなの?」
「うん。だから、そんなに怯えるなよ」
 目尻に涙の痕が残るアスランに、イリヤはおどけて笑った。
「大樹のお姉さんとも話したかったし」
「私は人間と話したくはないわ」
「こちらは手厳しいね」
 息を整えるように、努めて規則的に呼吸をしながら、イリヤは言った。
「ねえ、人間の何がそんなに嫌いなの?」
「人間は愚かだわ」
 大樹は望まぬ客に、よそよそしい声音で答えた。
「大地の恵みを口にするだけでは飽き足らず、金や権力のための争う。私はそんな愚かな人間たちをずっと見て来たもの」
「そうか」
 イリヤは大きく息を吐きだした。
「じゃあ、アスラン大王は金と権力を得るために戦って、死んだんだね」
「…そう思うわ」
 アスランを気遣ってか、大樹がためらったように言う。
「アスランは?」
「え、僕?」
 急に水を向けられて、アスランは思わず聞き返した。
「うん。アスランは、大王様が何のために戦って死んだんだと思うの?」
「それは…」
 アスランは少しうつむいて言うべき言葉を考えた。
 大樹の言う通り、もっともっとたくさんの金が欲しかったから? 広い大地を支配して、すべてを思い通りにしたかったから? それとも、アユディスの宮殿にまだないような品物を手に入れたかったから?
 ううん、きっとそうじゃない。
 以前、大樹に聞かれた時には分からなかった、その答えの端切れが、今のアスランには少し掴めるような気がした。
 父様はたくさんの金貨を手に入れ、広い大地を支配したいがために戦い、死んだわけじゃない。
 なぜならそんなものは、自分の死と釣り合わないからだ。
 いや、誰の死とも釣り合わない。
 死、という想像に、アスランはごくりと唾を飲み込んだ。
 戦をすれば、兵が、臣が死ぬだろう。そして戦に負ければ、自分の首が槍の上に掲げられるだろう。
 その死が、命が、金や権力がほしいなんていう欲となど釣り合うはずもない。
 なら、何のために父様は命を落としたのだろう。
 アスランはゆっくりと顔を上げて、その言葉を待ち望むように自分を見つめるイリヤの目を見た。
「アナトリアのためだ」
 静かに言ったアスランの言葉を訝しがるように、大樹が口を挟んだ。
「アナトリアの? でもそれならどうして、王は自分だけ豊かに暮らすのかしら?」
「違う、王は自分が豊かに暮らすために、命をかけるわけじゃない」
 アスラン大王がなぜ命をかけたのか。
 アスランの思いは、未だ混沌の中にあった。けれど、その混沌から一つ一つ、言葉を拾い上げるようして、アスランは言った。
「ラケルもそう言ったんだ。僕は、アナトリアの旗であり、誇りであり、王国そのものなんだって。僕は、そう…」
 僕は権力を欲したわけではない。金ぴかの宮殿や、金に埋もれたいわけではない。
それらは、むしろ王たるものに重くのしかかるもので、それがきっと王の責任だ。
 戦に負ければ、その責任を命で負う。自分のために、個人として生きることはできない、王であることの責任として、僕は権力や金を手に入れるんだ。
 僕は、王なんだ。
 しかし、最後の言葉はアスランの口から、そう簡単に出てはこなかった。
 お前にも、いつかきっと分かる。
 そう父様は言った。けれど、いつか、っていつなんだろう。
 アスランは胸の中の父に問いかけた。
 その、いつか、はやっぱり今じゃなくちゃけない? 父様が無い、今すぐに、僕は当たり前のように王であることを受け入れて、皆の上に立たなければいけない?
 再び口を閉ざしたアスランに、イリヤは優しく言った。
「俺は君に初めて会った時から知っていたよ。君が、この国を継ぐ人間なんだってね」
「…僕が王子だから?」
「いや、違う。そうじゃない。今まで君が培ってきたもののすべてが、王になるためのものなんだよ、きっと。そして、その心は誰にも真似できない。君だけのものなんだ」
「そんなことないよ」
 アスランは自信をなくして首を振った。
「僕、そんな立派な人じゃないよ。だからこそ、こんなところに逃げてるんだし…。イリヤ、そう、君の方がずっと僕よりも立派だし、物知りだし、僕よりイリヤが王様になったほうが…」
「アスラン、それは間違ってるよ」
 相当胸が苦しいのだろう、辛さを隠しきれない、力ない笑顔でイリヤは笑った。
「人間には、それぞれ与えられた運命があるんだ。例えば、俺は生まれた時から、ほとんど寝たきりの生活だ。当然、そんな自分の運命を呪ったこともある。どうして長いこと生きられないような俺が、この世に生まれたのかってね」
「イリヤ…」
「別にアスランがそんな顔をすることない」
 イリヤは少し息をつくと、話を続けた。
「でも、俺が少しの間この世に存在したことで、良くも悪くも変わってゆくこともある。俺の父さんが王国を裏切ったのも、俺がいたからだろうし、それにアスラン、君が俺に会ったことで少しでも変わったなら、それだけで俺は今まで生きてて良かったって思える」
「そんなこと言わないでよ。イリヤみたいに、立派な王様になれるような人が、死ぬ運命なら、それは運命を決めた神様が間違ってるに決まってる」
「アスラン」
 イリヤの驚くほど冷えた手が、アスランの手をそっと自分の左胸へもっていく。
「よく聞いて。俺みたいな、死にゆくものが王になれるわけがない。俺の胸を触ってごらん、わかるだろう? 俺の心臓はもうほとんど止まりかけている。俺は死んでしまうんだよ、アスラン。でも君は違う。君は生きて、この先の世界を見ることができる。王として、アナトリアを守っていくことができる。それがたった今からできなくても、きっと君は素晴らしい王になれる。俺には見えるんだ。君がアナトリアの青い旗を持ち、皆を率いていく様が。アスラン、君の中に何も問うものはない。君はただ進めばいいんだ。君の思う方向へ、ただ真っすぐに」
 イリヤの冷たい手は、どこからそんな力が湧いてくるのが不思議なほど強く、アスランの手を握りしめていた。
 けれど、手をただ握られるがままにして、アスランは小さく訴えるように言った。
「でも、僕何も分からないもの。イリヤの言う、進む方向さえ、僕にはわからない」
「俺は何も君一人にすべてを負えと言ってるわけじゃない。わからなければ、周りの者に聞けばいい。ラケルが、君を思う臣が、喜んで君を助けてくれるだろう」
 その言葉に、アスランは上目づかいにイリヤを見上げた。
「…それならイリヤも、助けてくれる? 僕と一緒に来て、僕に知恵を貸してくれる?」
「俺を戦場に立たせようっていうの? そいつはちょっときついな」
 精いっぱい冗談めかして、イリヤは笑顔を作ろうとした。しかし、それすらも叶わないほど、イリヤの命の灯は今にも消えそうに小さくなっているようだった。
「違うよ、そんなんじゃなくて…」
 言いかけたアスランを、イリヤは強い眼差しで見た。
「アスラン、俺に約束して。アナトリアの王になるって。常にその胸の誇りを失わない、強い王になるって。そうしたらきっと、大樹のお姉さんが嫌うような王にはならない。それに、そうすれば…」
 イリヤはラーレの花に視線を移した。
「戦のない国に、君がメルヴェ様と約束したように、草原が一面のラーレの花で埋め尽くされるだろう」
「うん…」
 イリヤの見つめるラーレの花を、アスランもその細い身体に寄り添ったままじっと見つめた。
 僕はこれから、一人の人間として生きてはいけない。
 なぜなら、国が僕で、僕が国だからだ。それが、王の誇りだからだ。
 きらきら光る宮殿も、使いきれないほどの財産も、僕の王たる資格を語りはしない。ただ、僕の胸にある誇りだけが、僕が王だと告げている。
 戦に負けた父様の首が刎ねられたように、僕の行きつく最期も、そんな恐ろしいものかもしれない。
 怖い。このまま死んでしまったほうがましなくらい、僕は怖い。
 けれど、僕の命が僕のものでないのなら、王の命、国の命であると言うのなら、僕はそれを受け入れよう。
「うん。約束するよ」
 アスランは、ゆっくりとうなづいた。
 それでも、アスランの胸の中で、あの天に掲げられた大王の生首は、まだ恐ろしい。
 けれど、今、その恐ろしいはずの生首は、偉大なるアナトリア王国の獅子王の顔となり、アスランにこう語りかけていた。
『アスラン、我が息子よ、誇り高きアナトリアの王になれ』
 アスランはゆっくりと瞬きをした。
「僕、行くよ。僕が、行かなくっちゃならない」
 凛と意志の通った声で言うアスランに、イリヤは静かにうなづいた。
「…我らがアスラン王の誕生だな」
「アスラン王…」
 大樹がつぶやくような声で、その幼い王の名を初めて呼ぶ。
 そのとき、あたりにドン、という轟音が響き渡り、雷に打たれたように大樹が震撼したと同時に、巨大な炎が森を包みこんだ。

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