緑(りう)の一族

黒澤伊織

第一部 第七章 神様のいる場所

「大花様、疲れたの?」
 暗い部屋の真ん中に、獣の油の蝋燭を置き、カルを編む緑が、ふと手を止めたラーレに声をかけた。
「いいえ…」
 静かに微笑むラーレに、緑は少し安心した顔をしてまたカルを編む作業に戻る。
「アスランが来たと思ったんでしょ」
 そんなラーレを茶化すように、別の小さな緑がいたずらっぽく笑って、こちらを見上げる。
「そんなことないわ。ただ…」
「ただ?」
 そこまで言って、ラーレは口を閉じた。
「ううん、何でもないわ」
「大花様…」
 緑が、できるだけ明るい口調でラーレに言う。
「私たちはいいから、アスランとどこかへ行っても構わないのよ。大花様がいなくっても、私たち…」
「緑、そんなこと、言わないで」
 ラーレはうつむいたまま、静かに首を振った。
「あなたたちは私の大切な子供なのよ。だから、私はあなたたちとずっと一緒。きっといつか、天に帰るその日まで」
「…そうだけど」
「だから、いいのよ」
 ラーレは半ば強引にその話題を終わらせると、黙ってカルを編む作業に集中しようとした。
 アスラン。
 その名前は、未だラーレの心をかき乱すようだった。
 あれからどれくらいの月が過ぎたのかは、明かりとりの窓が一つだけの、この小さな部屋の中からはわからなかった。
 ラーレと緑たちは、ジャンに引きずられるようにして都に連れて来られるや否や、王という人間の命令でこの部屋に閉じ込められ、それと同時に、ラーレの球根を生み出すよう命令された。
 しかしその要求に、ラーレも、緑たちも、無気力に首を振り続けた。
 大花を失った悲しみが、自分たちにひどい仕打ちをした人間の恐ろしさが、皆の心を閉ざしたのだ。
 大花様が生前話して聞かせてくれたことは、すべて本当だったんだわ。人間と私たちは、そもそも進んだ道が違ったのだ。
 ラーレは緑たちとぎゅっと身体を寄せ合って、何日も何日も、ただ震えて過ごした。
 これから私たちはどうなってしまうんだろう。このまま、この暗い部屋に閉じ込められたまま、一生をすごさなければいけないのだろうか。
 日に二度、係の兵士が持ってくる食事にも口をつけず、かといって何も話そうともしない、ラーレたちの無言の抵抗がしばらく続いた後、業を煮やした王が部屋へ遣ったのは、アスランだった。
 久しぶりに会うその顔は、やつれ、青あざだらけで、あの時のジャンの暴行のひどさを物語るようだった。
 助けに来てくれた。
 その久しぶりの愛しい顔に、ラーレが思わず安堵したのは早計だった。
『王の命令を伝えに来た』
 ラーレと目線も合わさずに、そうアスランは言ったのだ。
『球根を、生みだしてくれ。お願いだ』
『どうして? 私は、あなたと…』
 球根を生み出せなどと、自分を裏切るように発せられたその言葉に動揺するラーレに、アスランは俯いたまま言った。
『王は、あの花に狂っているんだ。君があの球根を生み出してくれなければ、俺もどうなるか分からない』
『どうなるかわからないって…?』
『あの、大花様を殺してしまったジャンは、その球根を生み出す者を一人減らした罪で、打ち首になった』
『打ち首に…』
 自分たちにひどい仕打ちをしたジャンが、王に殺された?
 驚きのあまり足をふらつかせたラーレを、アスランは腕に抱きとめた。
 ラーレの花の球根を、人を殺してまで欲しでいるなんて。
 正気の沙汰ではない。
 ラーレはその腕にすがったまま、傷だらけのアスランの顔を見上げた。
『…私たちが球根を生み出さなければ、あなたも殺されると言うの?』
『……わからない』
 傷のせいか、その表情はあまりよくわからなかった。
『けれど…』
 緑の一族である私と心を結んだあなたは、何をされても死なないわ。あなたは、私が生きている限り、共に生き続けるのよ。
 あのとき伝える機会を失ったままになってしまったその言葉を、ラーレはそっと飲み込んだ。
 その代わりに、ラーレはアスランの目を見つめたまま、その心を問うた。
『…アスランは、私にどうしてほしい?』
『俺は……』
 沈黙はしばらく続いた。
 球根がないと、アスランが困るのだろう。
 その沈黙に根負けしたように、ラーレはアスランから離れると、以前そうしたように、手の中に一つ、球根を生み出した。
『…ねえ、私たちが球根を生み出したら、里へ帰してくれる?』
 ラーレの手のひらの上の球根を冷えた手で受け取ると、アスランはくぐもった声で答えた。
『ごめん、それはわからない。けれど、里の生活と同じように…そうだ、カルを編む糸を持って来させよう。それに、君たちが里で編んでいたカルも』
『…アスラン』
『球根を、できるだけたくさん用意してくれると助かる』
 そう言うと、アスランはラーレから逃げるように部屋の扉を閉め、出ていってしまった。
 それからは、アスランがこの部屋を訪ねて来るたびに、ラーレは生みだした球根を渡し、そしてその代わりにアスランはカルを編む糸や、部屋を明るくする蝋燭、それに殺風景な壁を飾る美しい絵画を置いていった。
 けれど、ラーレたちの生み出す球根は、その中の一つでもラーレたちの目を楽しませて咲くことはなく、草も花もない、冷たい石の床の上で、皆来る日も来る日もカルを編み続けた。
 皆が出ることのできないこの部屋の外で、アスランがどんな生活をしているのか、ラーレたちは想像もできなかった。
 ラーレたちの生み出す球根のおかげで、王からたくさんの金粒をもらって豪華な生活をしているのかもしれないし、それとも、ラーレの事を思っても思いきれずに、悲しく塞いだ日々を過ごしているのかもしれなかった。
 ただ、アスランは旅商に出てひと月もこの部屋を訪れないことも、多々あり、そんな長い旅の後には、決まってラーレたちにとても高価そうな品物をお土産に持ってきてくれた。
 それは可愛らしい人形だったり、陶器でできた花だったりしたが、ラーレはその品物をアスランから受け取るとすぐに部屋の隅に並べてしまい、その後は決して手を触れようとはしなかった。
 アスランは私が欲しいと言ったのに、それなのに、私のいない生活でもいいんだろうか。
 時折、ラーレの心はそんなことを思って胸を締め付けるように痛んだ。
 しかし、ラーレもアスランも、二人とも、その短い逢瀬の時間にお互いのことについて会話をしようとはしなかった。
「…大花様ったら、ねえ」
 再びカルを編む手を止めて沈んだ様子のラーレに、緑が慌てた調子で声をかけた。
「ああ、なあに?」
「なあにじゃないよ、大花様。ほら、アスランが来たよ」
 その言葉に顔を上げると、いつものように扉の向こうにアスランが立っているのが見えた。
「ね、大花様、ほら、今度は大花様の編んだ袋に球根を入れてあげるんでしょ?」
 ラーレが何とはなしに編んだ、虹の色をした麻袋に球根をいっぱいに詰めた緑が、嬉しそうにこちらを見上げる。
「ああ、そうね…」
 ラーレは緑に微笑むと、押し付けられたその袋を抱えてアスランの元へ近づいた。
「やあ、元気だった?」
「ええ。…あの、これ…」
「球根だね。いつもありがとう」
 私が編んだ袋なの、と言おうとしたラーレを遮るように、アスランはラーレの手から麻袋を素早くとると、扉の向こうの兵士に渡した。
「あ…」
「どうかした?」
 アスランはにっこりとラーレに笑って見せる。
 いつからかアスランが身につけた、その面を被ったような笑顔が、ラーレは苦手だった。
「ううん、何でもないの」
 ラーレが急いでそう言うと、アスランはその笑顔を顔に張り付けたまま、手に持った品物を差し出した。
「これは、君へ。君に似合うと思って…」
「…ありがとう」
「ほら、お礼なんかいいから、見てみなよ」
 アスランが品物を包んでいた布を取り去ると、改めてラーレの手のひらにそれを乗せた。
「綺麗だろ?」
 それは、金の髪飾りだった。
 その黄金は、蝋燭の明かりにきらきら揺れて、美しく輝く。
「ええ、綺麗だわ。ありがとう」
「ほら、もっとよく見てよ。ここに…」
 アスランは髪飾りに埋め込まれた、小さな白い石を指した。
「ここに、石でマクの絵を描いてもらったんだ。君が気に入ると思って」
「まあ、本当ね」
 ラーレは少し、微笑んだ。
 たしかにそこには精巧に石が埋め込まれ、一頭の馬が駆けていく様子が描かれている、
 その白い石で描かれたマクの絵は、愛らしいあの馬を思い出させた。
「ありがとう。大切にするわ」
「うん」
 アスランはラーレの微笑みに、やっと以前の自然な笑顔で笑うと、髪飾りをそっとラーレの髪に留めた。
 しかし、その笑顔は一瞬のもので、アスランはすぐに顔を悲しそうに曇らせた。
「…ごめんな」
 それは、訪ねて来たアスランが必ず最後に言う言葉だった。
 そして、その意味のあると思えない謝罪にラーレが返す言葉も、いつも同じだった。
「…いいえ、私は緑たちと一緒なら幸せだから」
「そうか」
 アスランは去りかけてから、振り返って言った。
「また俺は明日の朝、旅商で遠くへ発つんだ。だから、当分はまた君に会えないけど…。また、君の好きそうなものを持ってくるからね」
「ええ。…待ってるわ」
「…じゃあ、またね」
 アスランはラーレをじっと見つめてから、明るい扉の外へ出ていく。
 通り一遍の言葉を交わすだけの逢瀬に、ラーレはいつものようにアスランの後ろ姿を見送ると、輪になってカルを編む緑たちの元へと戻っていった。
 そして、金の髪飾りを外すのも忘れて、カルの続きを編もうと石の床に座る。
 そのラーレも、これから旅商に出る準備を始めたアスランも、このいつもの短い逢瀬が、二人の会う最後のものになるとは、想像もしていなかった。

  *

「おい、女。これを食べ終わるまでに、子供らの中から三人、好きなやつを選んでおけ」
「…なぜですか?」
 扉越しに朝食を運んできた兵士のいきなりの言葉に、ラーレは戸惑って小さく問い返した。
「王の命令だ。その三人以外は、ここから出してやる」
「出して…?」
 自由になれるということですか?
 今までの、あるいはこの部屋に入れられたばかりのころのラーレならば、心の底からほっとし、嬉しがっただろう。
 しかし、今では、ラーレはそんな希望を持つことさえ億劫だった。
 強欲な人間たちが、私たちを手放すはずがない。
 それはこの部屋に閉じ込められた長い年月が、アスランの諦めにも似た態度が、ラーレの心に直接刻んだ確信だった。
「その三人を、あなたがたはどうする気なのです?」
 ラーレの淡々とした声に、兵士はとても嫌な顔をした。
「どうって、出してやると言ってるんだ。嬉しくないのか?」
「でも、それは自由にしてくれるという意味ではないでしょう?」
「ふん、可愛げのない奴だ」
 兵士は呆れたように首を振って、ため息をついた。
「じゃあ教えてやるよ。そいつらは親交の証として隣国の王に献上される。ま、こんなところに一生閉じ込められるよりもましな生活ができるとは思うぜ」
「そんな…私たちを離れ離れにすると言うのですか?」
 突然の出来事に驚き、うろたえたラーレを、兵士は鼻で笑った。
「王の持ち物を王がどうしようと勝手だ」
「嫌です。私たちは王の持ち物などではありません」
 ラーレの訴えに、兵士は顔をしかめ吐き捨てるように言った。
「お前は何を言ってるんだ。この国のものはすべて、王のものに決まっているだろう。それに、お前は王の差し出す食事を食べ、この部屋で暮らしているというのに、それなのに自分が王の持ち物ではないというのか?」
「それならあなたは? あなたも王の持ち物なの?」
「俺か?」
 ラーレの叫ぶような声に、兵士はまたため息をついて首を振った。
「ま、王から給金をいただいてるのだから、俺も王の持ち物と言っても間違いじゃないかもしれんな」
 その言葉に、嫌々をするように首を振ったラーレの黒髪に、昨日アスランにつけてもらったままになっていた金の髪飾りが揺れた。
「じゃあ、アスラン、アスランも?」
「あの男だって王に面倒見てもらってるんだから、同じだろう。…それよりも、騒ぎ立てずに三人、選んでおくんだぞ」
「待って、私たちを離れ離れにしないで!」
 扉を叩き、声を上げるラーレを無視して、兵士はそれだけ言い捨てると部屋の前から姿を消した。
「そんな…嫌よ…」
 ラーレは扉にすがってずるずると崩れ落ちた。
 最後まで皆と一緒にいるって、約束したわ。
 それだけが、一緒にいられることだけが、皆の心の支えだったのに。
 それなのに、私たちが生み出す球根にも満足せず、今度はそれを生み出す緑を欲しがるなんて。
 王とは何と無慈悲なものだろう。
 そして、大花様の言った通り、人間はなんて欲にまみれたものなんだろう。
 ラーレは扉にすがったまま、声を殺して涙を流した。
「大花様…」
 その心を察したように、会話の一部始終を聞いていた緑の一人がラーレの背中にそっと手を触れる。
「大花様、大花様…」
 そして、ほかの緑たちも次々にラーレの周りに集まり、扉の前で泣き崩れるラーレの衣の裾をぎゅっと掴んでうつむいた。
「緑…」
 流れ落ちる涙を拭おうともせずに、ラーレは緑たちを抱きしめた。
 王の命令に逆らうことなど、初めから無理だったのだ。
 なぜなら、ラーレたちはただ、数えきれないほど存在する王の持ち物の中の一つでしかないからだ。だから、王が自分の持ち物であるラーレたちにどんなひどいことをしようが——皆を離れ離れにすることだって、それはまったく当然のことなのだ。
 そして、もう一つ今知ったばかりの事実もまた、ラーレの心を悲しませていた。
 この国のすべては、王の持ち物である。
 そうあの兵士が言った、その言葉にラーレは絶望のふちに追い込まれた。
 この国のすべて、そこに住む人々さえも、王の持ち物なのだ。だからアスランは、私を助けてはくれないのだ。
 そして、だから、私たちは今日、離れ離れになるのだ。
 流れ続ける涙のせいで、麻痺したような、鈍い思考でラーレはぼんやりと思った。
 いえ、緑たちの母である私が、皆と離れ離れになるなんて、そんなことできない。
 ラーレは自分に寄り添う緑たちの身体の温もりを感じた。
 大花様がいなくなってから、ここへ閉じ込められてから、皆、悲しい気持ちを笑顔に変えて、寄り添い、支え合って暮らしてきた。
 辛い、苦しい、帰りたい、そんな言葉を口にすることなく、命令されたとおり球根を生み出し、カルを編み、里にいた時と同じように、明るく振舞ってきた。
 けれど、それはひとえに、一族が共にあったからだった。緑たち一人一人が同じ思いを抱えていることを、一人一人が知っていたからだった。
 それなのに、あとわずかに残された時間の後には、一族はばらばらにされてしまうという。
 一体どこへ遣られるのか、見当もつかないけれど、それはきっと生きている限り二度と会えない、遠い遠い場所なのだろう。
 離れたくない。
 ラーレの心には、その思いだけが強くあった。
 それはラーレの衣を掴んで離さない、緑たちも同じなのだろう。ラーレに寄り添ったまま、誰一人として離れようとはしなかった。
「大花様…」
 長い沈黙の後、一人の緑が、とうとうつぶやいた。
「なあに?」
 ラーレは涙を押さえて、出来る限り優しい声音で答えた。
 すると、また別の緑が、ラーレを呼んだ緑の言葉を引き継ぐようにして続ける。
「最後まで、皆一緒だって、大花様は言ったでしょう?」
「…ええ、言ったわ」
 同じ大花様から、同じように生まれた緑たちの心は一つで、それはラーレも同じだった。
「大花様、私たち帰りたいわ…」
「うん、帰りたい…」
「そうね、でも…」
 抱き合った皆の心に、あの野蛮な人間たちに蹂躙される以前の、緑の里の美しい風景が美しく浮かぶ。
 季節は今、いつであろうか。
 よどんだ空気の中からは感じられない、外の新鮮な空気の色を、ラーレたちは心に思い描いた。
「大花様、あのお話をして」
 一人の緑が、皆と同じ、里の風景を心に浮かべたまま、ラーレに囁く。
「大花様がしてくれた、天の神様のお話」
「いいわよ」
 ラーレは緑たちの方に振り向くと、緑たちはその周りに互いが互いを抱きしめるようにして寄り添い、目を閉じた。
「…天には大樹がありました。そしてその大樹は神様が育てたものでした」
 今は亡き大花が、いつも話してくれた昔話を、ラーレは一言一句確かめるように話した。
 古代の昔から、緑の一族に伝わる昔話。
 大花の、そのまた大花の、そのもっと上の大花から受け継がれた、遠い遠い日の話。
「…大樹は花を咲かせ、種子を実らせ、神様はその実りを手にしようとしました。しかし、あやまって手を滑らせ、その種子を地上に落としてしまったのです…」
 大花から何度も聞いたその話を、今度はラーレが大花として、緑たちに話して聞かせる。
 そのラーレの言葉に、緑たちも小さな声でまるで歌を口ずさむように、声を合わせていく。
「その大樹の種子は、天から遥か遠い大地に落ち、そして…」
 何度も聞いた、その子守唄のような心地よさが、ラーレの涙を癒し、心を穏やかにし、嫌なことすべてを忘れさせてくれるように響く。
「それは緑の一族となりました」
 そして、最後の言葉はいつしか緑たちすべての声と重なり、まるで一つの声のように穏やかに響いて、小さな部屋の中は再びしん、と静まり返った。
「…ねえ、大花様」
 その沈黙を遮ることない静かな声で、緑の一人が口を開いた。
「…私たち、帰りたいわ」
「ええ、そうね…」
 ラーレは答えた。しかし今度は、でも、という言葉は続けなかった。
 緑たちが帰りたいと言った先が、緑の里ではないことを、一体となった心で感じることが出来たからだ。
「どうしたら帰れるか、大花様は知ってる?」
「…ええ、知っているわ」
 ラーレはゆっくりとうなづいた。
『私たち、緑の一族は、天におられる神様が地上に落とされた、種子なのよ』
 大花様が亡くなる前におっしゃった、きっとあれはそういう意味だったのだろう。
 今、それをラーレは確かに理解し、その心は緑たちにも伝わっていった。
「大花様、私たちは天の神様が落とした、種子なのね」
「…そうよ」
 何かを決意したような、穏やかとも言える瞳でラーレはゆっくり顔を上げ、自分を見つめる緑たちの顔を順番に眺めた。
 そのどの顔も皆同じにラーレを見つめていて、その瞳に、ラーレはそっと微笑んだ。
「私たちは王の持ち物なんかではないわ。だって、私たちは、神様のところから来たのだもの」
「うん」
 ラーレも、緑も心は同じだった。
「だから、天に伸びて、帰りましょう。私たちが生まれた場所へ」
「うん、大花様、天へ帰ろう」
 皆の返事が一つに揃い、ラーレと同じ微笑みをその顔に浮かべる。
「皆が、いつまで一緒にいられるようにね」
 その最後の瞬間に、ラーレの頭をアスランの姿がかすめただろうか、それはラーレ自身にも分らない。
 しかし、その黒い髪を留めた金の髪飾りの光だけが、ラーレに残されたアスランの温もりであることは確かだった。

  *

 しん、と静かな部屋で、ラーレと緑たちの心は一つの風景を共有していた。
 それは誰も見たことのない、遠い遠い、緑の種子が大地に落とされる前にあった、天の風景だった。
 白く明るく、優しい母の眼差しのような太陽が降り注ぐその場所。
 すべてがありのままの姿で愛され、そしてすべてを愛することができる場所。
 理不尽に命を奪われた大花が、緑の種子を生んだ大樹が、そしてその大樹を慈しむ神様のいる場所。
 私たちのいるべき場所はここではない。だから、私たちは帰りたいのだ。
 誰も見たことが無い心が生み出した想像の風景に、皆は恋い焦がれ、帰るべき場所を知った皆の心は、そこへ帰りたいと強く願った。
 そして皆の願いに応えるように、緑たちの胸にごく小さな光が宿る。
 それがその光景の始まりだった。
 皆の強い願いから生まれたその小さな光は、ラーレを中心に、その身体に寄り添い、互いの身体を抱きしめあった緑たちを包み込むように、ごく微かな光から、だんだんと大きな光へ変化していく。
 その大きくなっていく光の中で、緑たちは苦しみの鎖から解き放たれたように心の底から安心しきった微笑みを口元に浮かべ、これからゆく場所をしっかりと思い描いているようだった。
 そして、その光が緑たちの姿を包み隠した次の瞬間、炎が燃え上がるような勢いで、目もくらむような光の柱が、暗い部屋の天井を破壊し、一気に空へと突き抜けた。
 バリバリと音をさせて外へ突き抜けた光の柱の中で、緑たちの身体はねじれ、絡みあい、美しい装飾のされた王宮を壊しながら、天めがけてまっすぐに、ぐんぐんと伸びる。
 その目は閉じられていても、暖かな太陽を、光を全身で感じているのだろう。
 高く、高く、確固たる意志を持って、光の柱は天を目指して伸びていった。
 そして、その光の柱が天に伸びあがったのと同時に、緑たちの足からは、その身体を支える太い根が伸びた。
 その根はみるみるうちに太り、まるで生き物のように床をまさぐると、土を求めて無理やりに敷き詰められた石の隙間に自身をめり込ませ、ついには床を砕くようにして下へ下へと伸びた。
 それは巨大な触手のようにのたうち、暴れ、そのひとなぎで王宮の地下室のすべてを崩すと、地面の奥深く深くへと潜り込んだ。
 あまりに急激に地下を貫いていく太い根に、都中に地響きのような轟音が響き渡り、地上にあるすべてのものは激しく揺れ、鼠は逃げ出し、馬はいななき、羊は怯えて囲いの中を半狂乱で駆けまわった。
 神の怒りが大地に降り注いだかのような天変地異に、何事かと窓から外を眺めた人々は、天に昇る光の柱と、こちらへ向かって瓦礫を跳ね上げる巨大な根に、驚きのあまり逃げることも忘れて、ただ口をあんぐりと開けた。
 勢いを失うことのない大樹の根は、その人間もろとも家屋をはね飛ばし、旅宿を破壊し、店も、道も、畑も何もかもを土に返そうとでもするように、粉々に破壊していく。
 そしてついに、そのあまりに強引に大地にねじこまれた根は、地割れを呼び起こし、地割れは腹を空かせた生き物のようにぱっくりと口を開け、都だった、すべてのがらくたをざらざらと音を立てて飲みこんでいく。
 そのすべてを飲み込んだ地割れは、しばらくしてもう何も飲み込むものが無いことに気付くと、それなら仕方がないと言わんばかりに、また轟音を響かせながらしぶしぶその大きな口を閉じていった。
 まっさらになった地上で、その大地をががっちりと掴んだ根を支えに天高く伸びていった光の柱は、空を越え、雲を突き破り、そして目には見えない遥か高い場所まで伸びた後、ようやくその成長を止めて光を失った。
 そして、その光が消えると、光の柱だったものは、遥か天まで届くかのように巨大な大樹になって、その姿を現した。
 その幹は、かつてそこにあった宮殿よりも太く、その枝ぶりは地に飲み込まれていったクゼイの都の空をすべて覆うほどに大きい。
 都を破壊し尽くし、静かになった大地にそびえる大樹は、都の養分をすべて吸収して芽生えた、巨大な生き物のようであった。
 どんなに遠くの国からも見えたであろう、この大樹の伸びる姿は、きっと見た人すべてを驚かし、畏れさせたに違いない。
 しかし、この一瞬とも言えるほどの短い時間で起きた一部始終を、その目で見ていた人は、いなかっただろう。
 望み通り一つになったラーレと緑たちは、命の続く限り、もう離れ離れになることはないだろう。そして、その一つになった心は、未だ天の風景を見ているに違いない。
 こうして、北の都クゼイは瞬く間に滅び、緑の一族は天まで届くほどの巨大な大樹となった。
                   —— 第一部完 ——

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